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世紀の一日 
髙野 鼎(たかの かなえ) 
性別 男性  被爆時年齢 42歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 広島市江波町[現:広島市中区] 
被爆時職業 教師 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
一、 出動工場で原爆を受く

空襲の不安に眠られぬ一夜は明けて八月六日、朝もやをついて出動工場である江波町熊野空缶工場へ出勤した。

午前七時半、朝の集いは終って、動員学徒八拾名中、欠席者六名を除いて、今日も生産の意気を眉宇に漲らし、六つの職場にそれぞれ分散して位置についた。間もなく空襲警報が発せられたが、直ちに解除せられたので、ほっと胸をなでおろし、再び続けられた作業状況を一巡してきた。

午前八時過ぎ、今日の連絡事項や出席簿整理のため事務室に入り腰を下した瞬間、ピカ、ピカッと光ると同時に耳をつんざくような音響を立てて、工場は吾々の上におしかぶさって倒れてしまった。無意識のうちに伏さっていた私は、暫くの間台風の吹き荒れるような音と、砂つぶての吹きつけてくるのを感じながら生きた心地もなかった。「畜生、やりゃあがったな。」それが私の複雑な感情の一丸となって迸り出た言葉だった、殆どそれと同時に、児童達が屋外でたち騒ぐ声を聞いたので「おい、今そんな所に出ていると危いぞ、機銃掃射にあうぞ、伏され、伏され」屋根の下から大声でどなった。すると「先生、飛行機なんか一台もいませんよ、それに家がみんな潰れてるんです。」という答だった。私はてっきり工場に直撃弾を受けたものと思っていたので、児童達の答が不思議でならなかった。幸い事務机が、柱も屋根も全部を支えてくれて、私の伏さっている所だけ洞窟のようにすいていた。事務室はバラック建ての至極簡単なものであったので、這い出る事も余り困難ではなかった。

さっそく川土手の道に立って市の中心部を見渡すと、なる程丸い煙突だけが突っ立っていて、木造の家らしいものは全く見えない。自宅の方角は砂塵か煙の濛々と立ちこめて、全然見通しもつかない。家には疎開していた家族五人が、久しぶりに帰って来たままいるし、女学校へ行っている長女のようすも案じられて、帰心矢の如きものを感じたが、しかし今猶数十名の児童達が工場の下敷になっているのを知っていて、帰る気にはどうしてもなれなかった。その中に工場のそこここから火災が起き始めたので、驚いて消火して廻った。気がついて見ると、あたりの電柱も上の方がポロポロ鈍い焔をあげて燃えていた。この頃、上の舟入町方面から江波山を目指して、避難する人達の列が続いた。来る人も来る人も殆どがやけどをしているか、負傷して血まみれになっていて、見ただけでぞっとする形相の人が多かった。とにかくただ事ではない。この人達の姿が雄弁に物語っている。すると又家族の身の上が案じられて、胸が締めつけられるように苦しい、じっとしていられない。「おい、無事に出たものはすぐ各職場に分かれて、友達を早く救い出せ。」命令したのか、どなったのかわからなかった。

倒れたる工場のすきまかいくぐり
見えぬ児(こ)の名をよび廻る

ドラム場にうめく声あり児一人を
ふとき丸太は腰おしつぶす

意識なく母をよぶ児を運びつつ
生命を思えば堪えられなくに

高等科一二年の児童であるから、命令一下、懸命に屋根を破り、大きな柱を抱えのけて、二名の重傷者を除き全員無事に救い出した。ふと見ると、火災は既に全市を覆い、火炎天を焦す凄惨な情景となっているので、又しても妻や子供達の姿が思いやられて、息もつまる程に胸苦しい。

やっと児童の処置もついた十一時過ぎ、どうしても親兄弟に遇えなかった十五名の児童をつれて、学校へひきあげる事にした。いつの間にか空は恐ろしい程の黒雲が渦巻いて、今にも夕立が来そうである。漸く学校に帰り着いた頃から、雷鳴を伴ったどしゃ降りとなり、約三十分ばかりも降り続いたので、さすがの猛火も、稍々衰えたように見えた。そこで一たび帰途についたが、濛々と立ち込める煙と熱気に耐え切れず、再び学校へひき返した。私の学校は避難所の一つに定められていたので、千名近くの負傷者や、やけどした者で、講堂も運動場も一杯だった。今夜一夜の生命も疑はしい程のやけどの重傷者が、苦しさの余り両臂を宙に浮かして手首をふりふりまるで夢遊病者のように、ふらふらと歩き廻っている者もあった。
  
二、 焦土の広島市を横断して帰る

午後四時過ぎ、焼けるものは全部焼けつくしたと見えたので、愈々帰途についた。

天満橋を渡って市の中心部に近附くにつれ、益々驚きを新にした。それは道一杯といってもよい程、やけどした人達が奇態な形相を示して、或者は半裸体となり、或者は全くの裸体となって、蜿蜒と続いて斃れていた。しかも、それらの人達は絵葉書で見る土人のように、頭髪はちぎれ、唇は大きく厚くふくれ上がって、どう見ても日本人とは見えない形相である。中には眼球の飛び出している人もあった。又頭に鮮かな一線を画して上半分に黒い頭髪を残し、下半分はまるで剃りとった様になっている人もあった。私の靴音を聞いて「おぢさん、水を飲まして・・・。」あとは聞き取れない断末魔の苦しみを訴へる者もあった。まるで踏みにじられた蟻の群のように、数十万の無垢の市民が、のたうち苦しむ姿は、世界の最後の日を思はせるものがあった。

幾ら戦争とはいへ、斯くまでの残虐を敢えてした米国の人道を疑い、憎しみと復讐の心を燃え立たせないではいられなかった。鷹野橋まで辿りつくと、その惨状は益々甚だしかった。電車の転覆したもの、脱線したもの、焼けた残骸、四肢を上に向けて驚くほどふくれ上がった牛馬の死骸、飴の様にねじ倒された鉄柱、路面に渦巻く数十条の電線、無数の人の屍、うめき声、全く筆舌に表はし得ない、惨鼻を極めたものであった。

私の宅は富士見町にあったので、その方角を見定めようとしても、見渡す限り一面の焦土と化して、余燼なお煙っている今、何等の目標も見当たらない。ただ無茶苦茶に火の上を飛ぶようにして歩き廻っているうちに、やっと比治山に通じる目標の大道路に出ることができた。ここからは、自宅の焼跡もすぐ見つかった。見覚えのある煉瓦のかまど、風呂場などそのままの姿で残っていた。しかし求める家族の姿はない。どうなったのだろうか。あたりの状況から見ると家は全部倒されて焼けたらしい。矢張り家族五人も家の下敷きとなって、家もろとも焼かれてしまったのかと思うと、その苦悶の姿が幻のように浮かんで骨の髄を引き抜かれる程の苦しさに、全身がしびれるのを感じた。頭をあげると稍向こうに防火壁が一つ、ぼんやりかすむ眼に入ってきた。長女のいた学校の焼跡らしい。ただ呆然自失立ちすくんでいた私は、あれでも六人のうち一人位は、運よく助かっているかも知れないというあきらめきれぬ淡い希望に、重い足を引きずってぼんやり歩き始めた。

ふと見覚えのある服装にはっとして、もしや長女ではあるまいかと近寄って見たが、人違いであった。同じ学生服が点々と目につく。やはり長女もこの娘等と同じようにやけどして、このあたりに倒れているのかも知れない、と思うと又急に気分が張りつめてきて、一人一人を丹念に見て歩いた。名前も尋ねてみた。しかしおおかたは容貌がすっかり変って死んでいるので、遂に見つける事はできなかった。不安と焦燥の心を抱いて、比治山の麓まで辿りついた。
  
三、 生きていた二人の吾が子

ふいに群衆の中から杖をふりあげて、「先生、先生」と呼ぶものがあった。見ると隣家に住んでいた老夫婦である。「おぢさん達は怪我もなくよかったですね。」お互いに再生の喜びを交わしたが、言葉は至極短かかった。「先生、坊ちゃんが上の防空壕におられますよ。」何かまだ詳しい話が聞かれるかと思って、次の言葉を待ったが、それだけだった。まあいい、子供が一人でも生きていれば、すべては詳しくわかるだろうと思ったので、「では子供の所へ行ってみましょう、ご大事になさい」六十幾歳の老夫婦で、今頼りになる誰もいない、この場合、私を頼りに声をかけられたのかも知れない。歩きながらそんな事がちらっと頭をかすめたが、そのまま子供のいるという防空壕を次々にたずねて登った。

幾つかの防空壕をのぞいた途端、入口の材木の上に長男(十二才)がぼんやり腰をかけているのを見た。「お父ちゃんが来たよ、よく助かったね」声をかけたが、ただ空な眼で、まじまじと私を見つめているだけで、何の反応もない。まるで気でも狂った人間のようだ。よく見ると下肢のそこここに、何かで引っかいたような傷があり、血がどす黒くなって固まっている。頭に二ヶ所硝子の破片が、つきささったままになっている。眼がなれて奥の方を見ると次男(五才)もいた。近寄って見るとよく眠っていたが、これも股に二ヶ所、硝子のつきささったらしい傷が、黒く固まって見えるだけで他に異状はなさそうである。こんな幼少な子供が、よくも全市壊滅の災害の中から生命を全うし得たものだ。その必死の努力と、其の後の頼りなくやるせない一日を過ごした心情を思いやるとき、余りの可憐さに涙なきを得なかった。

「お腹がすいただろう、お父ちゃんのお弁当をあげようか。」長男に話しかけたが、何にもいわない。「気分が悪いの、水をあげようか。」すると始めて「何もほしくない、胸が悪くて吐きそうなの。」と自分の体の調子の悪いことを訴えた。何かさっぱりした物を買ってやりたい、しかし、そんな望みの叶う時ではない。今日の日に備えて、薬品、缶詰、その他必需品をリュックにつめて、毎日工場へ持って行っていたが、この日は家族がいるので、家に置いて出たため焼かれてしまって、何一つもない。この防空壕には他に十数名の避難者がいたが、皆唖のように沈黙している重苦しい空気に、話しかけて見る気も起らなかった。

防空壕を出た、永い夏の日も暮れて、眼下には全市一面が真赤に見える。数十万の血潮をすすった悪魔が、無知な吾々を、あざ笑いながら舌なめずりしてるような幻想が、ふと浮かんで消えた。急に防空壕の中から「兄ちゃーん」という二男の泣きそうな声が聞えた。「お父ちゃんだよ、坊やは偉かったね。」目覚めた芳昌を抱き上げて「何がほしいの、お腹がすいたでしょう。」と聞くと「お水が飲みたい。」というので、水のある所まで三人一緒に登って行った。全市の余燼に照らされて、道は明るい。既に精魂も尽き果てたのか、うめき声もなく、倒れている重傷者の一人が、いも虫のようにころっと横に向きをかえた。清水のある所まで来て見ると、ここにも傷ついた無数の人々が群がって倒れている。もう痛さも苦しさも意識しないもののように、水溜りの中にも凸凹のある石の上にも、無惨な姿を横たへていた。「死屍累々」とは、全く今日の広島のために作られた言葉であろう。数十万の尊い生命を、血潮を何と無意味な、この餓え渇いた大地に吸いとらした事だろう。

亜細亜民族の解放、東亜共栄圏の確立と、熱狂的な愛国心に引きずられて、不平一つ言わず、ひたすら勝利を信じて一切の自己を捨ててきた、国民への代償が、この戦慄すべき犠牲である。敵に対する復讐心よりも、為政者の無知無謀に対する憤懣の情をどうすることもできなかった。戦争を中止するということは私の力の及ぶ所ではない、しかしその苛酷さを少くすることは、私達の責任である。

戦の勝敗は既に定まった。この惨状を直ちに全国民に知らしてやりたい。特に戦争指導者に見せてやりたい。さすれば如何に戦争の讃美者であろうとも、たちどころに、その夢魔を消散させてしまうであろう。怒りとも憤りともつかぬ感懐が、脳裡を往来した。戦争の惨禍を身をもって体験した今日、再生した新しい私の信念は出来た。肉体の医師はある、しかし今私達市民の一人一人に、深く刻み込まれたであろう怨恨や復讐の傷を手当てする魂の医師ができない限り、この惨禍は永久に繰返されることであろう。死すべき生命を永らえた私は、幸い教育者である、今日を再生の誕生日として魂の医師となり、この惨禍を永久に地上から葬り去ることに努力しよう。これが私の再生の誓いであった。
 冷たい清水の触感は、疲れ切った神経に快い息吹を与えた。その夜防空壕で蚊に攻められながら、親子三人忘れんとして忘れ得ない世紀の一夜を送った。

附記

行方不明の長女を捜し求めて
吾子たずねたずね来ればたえだえに
母を呼びおり年にたる娘(こ)の
すべもなく今日も暮れたり生命(いのち)絶えし
面輪はすべて見てたずね来し
日赤の庭にしぐろう一群は手当もまだで生命絶えしか

妻をおもいて
妻思えば吾が吹吸(いき)くるし生きながら
焔の中に息絶えしとう

長男、次男相ついで原爆症に斃る
罪もなく戦の贄とはて逝きし子らをし思えば骨なるおもい

備考
被爆当時
住所 広島市富士見町□□□□
年令 四二才
職業 教員

現在
職業 教員
氏名 高野 鼎
住所 広島市東雲町□□□ □□□□□

出典 『原爆体験記募集原稿 NO3』 広島市 平成二七年(二〇一五年)二八四~二九七ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
        

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