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佐伯 武範(さえき たけのり) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 広島市役所(広島市国泰寺町[現:広島市中区国泰寺町一丁目]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 広島市 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
人間の運命は計り知れない。私の原爆体験は今でも、まざまざと私の胸裡に迫って来る。

昭和二十年八月六日午前八時十五分私は市庁舎二階南側の一部で執務していた。机に向い二行半ほど書いた時、突として私は後頭部をガンと棒の如きものでなぐりつけられた感がしたと思うと、同時に眼前が真暗くなって、そのまま意識不明に陥った。それから何分経ったか知らないが不図気がついた。

あたりは薄暗い。せきとして物音一つ声えない。立ち上らうとしたがゴツンと頭がぶっつかる。私は机の下に無意識に入っていたのである。何とかしなければならない。そうしてこれは一体何事であらう。

しびれたやうな頭脳が何事かを考えて行く。不図私は幼いときの母の乳房をまさぐる私を考えているのに気がつく。夢うつつが過ぎて又一転妻の顔が浮ぶ。

と瞬間的に市庁舎に爆弾が投ぜられことがきらめいて来た。何とかして事実を確かめると共に一刻も早く退避しなければならない。

遠近に人声が聞えて来た。私は顔に手をあててみた。左の眼が見えない許りか、左の方の眼鏡がない。体の左半身血みどろで顔面の左半分は所々に穴さえ開いているのではないかと感じ、ゾッとした切迫感が胸をかすめる。眼鏡をかなぐり捨て机からはい出た私は崩れた机の上から書類を一抱え持つて衝立にある防空カバンの所へとたどりついた。手さぐりでカバンの中の銀鏡をとり出し、手拭で頭部を囲った。

室内は大津浪が来た如く机、衝立の浪、薄暗い中に二、三の課員がうごめいている。と足下に「オ母さん」と云っている市川という女の子がいる。書類箱の下敷になって、バタバタしている。「オイシッカリシロ」と引出した私の傍を全身血みどろの課長が飛鳥の如く「皆ンナ出ロ、危イゾ」と連呼しながら課の外へと避難して行く。私は追い立てられるが如く、市川を連れて出口へと出た。出口のところで「佐伯サン」と佐々木さんと云う年輩の女性がすがりついた。二人を両手に連れ、廊下に出て階下へと階段を降りかけた私達は中段位から足を踏みはずし、どうとばかり、一階の廊下にころがり落ちた。

立ち上った私達はそこで何を見たであらうか。一階の廊下を右往左往する人達、顔面火傷、全身血みどろの男女の区別さえつかない数多の人達が「医者はいないか」「お母さん助けて来れ」と丁度瓶の中に入れた虫の如く、あてどもなくひしめいている。私達は茫然として、不図窓外を眺めると中庭は薄暗い闇に包まれ何事かを叫んでいる幾つかの人影が窺われる。

「ヨシ外部ヘ出ヨウ」と二人の女の子を連れた私は、市庁舎の出口で「オイ佐伯シッカリヤロウゼ」と頭部から背部にかけてザクロの如く血みどろの統計課の川上君に声をかけられた。

固く握手をして私は市内西部の防空勤務場所の小網町派出所へと急いで別れを告げた。市庁舎の前に出たとたん嗚呼何たることぞ‼八丁堀、紙屋町の方面を見れば一天薄暗く、その中を紅蓮の炎が中天高く上がっているではないか。市庁前の大手小学校は物凄い音をたてて火に包まれて居り、電車は燃え、電柱は横倒しとなり足の踏み所もない。市庁舎丈けに爆弾が落ちたのではない。広島市一円火の海、正に映画サンフランシスコの様相そのままだ。

切実感が胸を突く。所で、その時、全身何等の衣服もなく、唯だ肩の所に二、三の布のやうなものが残った、泥の中よりはい上がったやうな女性が二名が「アノ塩屋町ノ方ハ如方デセウカ」この言葉は私の一生を通じて忘れることのできない。正に人間に非らず、動物そのもの。全裸の女性が火の中より現われたこの事実、何等言うべき言葉もない。私達は鷹野橋より明治橋、住吉橋を経て一応伯父の市周辺の高須の家に避難をしたが、女の子をあづけて直ぐ小網町派出所に急行した。その間、この世の生地獄をこの二つの眼で見た。全裸の年輩の男が声を上げて泣いて通っている。我が家の燃え上るをすがりついた子供二人を連れた母親がもう一人あの家に子供がいるんだと号泣しているすがた。或は道に倒れた母と二人の子供は死んでいるのに無心の赤ん坊が乳房をまさぐっている。貯水槽の中に親子三人入って居て出して呉れと叫んでいる。

そこには人間と人間との裸のつながり、美しい本能のまにまに行動した幾つかの話題が生れている。と同時にみにくい動物の本能にたちかえった幾人かの人達もいる。

しかし、私はそれらの人達を決して憎悪する気持にはなれない。と同時に二度と原子爆弾の恐怖は避けなければならない。新しいモラルの平和が生まれて来ることを念願するのみ。

さて小網町派出所に赴いた私は何物もない一面焼野ヶ原では致し方なく、舟入本町の我が家に来て見たが二階建の家が跡かたもない。

我が妻は、我が母は如何致したのであらうか。私は舟入、江波方面から吉島方面へと二日二晩さがしにさがし抜いた。母は江波の収容所で半身血みどろで動けない体を横にしていた。聞けば家の下敷になったのださうだ。妻は吉島の勤務場所から無事カスリ創一つしないで高須の伯父の家に帰って来た。

一家は無事だった。しかし家もなく家財もなく食物もない毎日がつづいた。そして終戦。

しかも私には家族を捨てて戦災者を救う任務があった。連日市庁舎に寝とまりして救護物資を配分しトラックに乗り心身共に疲れ果てた。今思へばよくやったものと思う。

私は人間の運命は計り知れないと最初に書いた。私の机の前にいた栗原さんという人は当日八時十分頃所用があって外出したのである。たった五分の相違で行方不明となり、奥さんは日赤病院で夫の名を叫びつつ数日後死亡した。又私自身前日防空勤務に服し、当日午前中は休暇であったのを妻の実家に泊ったために定時刻に出勤して死を免がれたに違いない。しかも出勤途中自転車がパンクして乗せていた空気入れがあったからこそ、時刻に間に合ったのである。若しさうでなければ恐らく原爆中心点辺りで即死であろう。

私の原爆体験は筆舌につくしがたい。

限られた紙数に全部を述べることはできないが、少なくとも私は尊い試煉であったと思う。

家の下敷になった母と我が子をどちらから救い出すか苦慮した私の親友は遂に母を先に救い出したが、そのために我が子を殺し、死んだ子供を抱いて五里の道を郡部に避難した事実もある。

世界の全人類よ。共に親しみ共に暮そうではないか。戦争のないソシャエティーにするために、希くば原爆の二度と繰り返さないことを。私は幾十万の地下の霊に対し心から両手を合わし御冥福を祈りつつ拙い記録をとぢる。

出典 『原爆体験記募集原稿 NO3』 広島市 平成二七年(二〇一五年)五一二~五一八ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】

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