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昭和二十年八月六日広島原子爆弾被害者実況報告書 
倉本 迪(くらもと いたる) 
性別 男性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 広島市大手町九丁目[現:広島市中区大手町五丁目] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島工業専門学校化学工業科 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
当時
現場所 広島市大手町九丁目
     (原爆中心より約千米)
年令 当時二十才
広島高等工業応用化学科在学中

私は原爆被害者の一人です。先般、朝日新聞の広島版に記載募集された記事を見て、今ここにその実況を報告するの機会を得ました事を最大の栄と思って運筆させて戴きます。

私は当時下宿の二階にて直面し被害し左目光彩破裂の重傷、且上半身(特に背面)の体内に入った硝子片は、現在摘出せしもの四十二ケ、未だ体内に七ケ入って居ります。その最大なる片は拾ミリ四方のものニケ残って居ります。こんなに傷を受けても不幸中の幸とでも申しませうか、元気百倍、今日尚活発に勉学に邁進して居ります。

恐らく当時大手町九丁目の人々でこんなに傷を負い今日こんなに元気に送日してゐる人は殆んど姿を見ないと申しても過言ではないと申しても差支へないと存じます。亦私それ丈にその現状を体験し、地獄絵巻とでも表現された当時の実況を今尚判然と脳裡に彷仏させて居ります。悲しいかな只、私、美字麗句を以て現状を表現出来ないのが何より残念で有ります。然し出来る丈、実況を詳しく報告させて戴こうと思って書いて居ります。

私は学徒動員より七月三十一日に帰り八月一日より授業開始となり通学して居りました。丁度八月五日は日曜日だったと記憶して居ります。それで五日に故郷に帰らうと思って居りました所、日曜日に教練が終日行はるので、止むなく帰省を中止しなくてはならなくなりました。明六日私は午前六時起床、丁度警戒警報が発せられて居りましたが何度もの事で別に気にもとめて居りませんでしたが、それも解除となり、私朝風呂に入ってから丸裸(上半身のみ)で二階に上り、登校準備をして居りましたのが八時過ぎ、丁度その時下宿屋の叔母さんが中庭にて上空を飛んで居るB29を見て、私に声を掛けられました。「倉本さん、あれを御覧、今日はよく見えるよ」と。それがこの世の別れで有り、再会でも有ったのです。その瞬間一面真赤黄色となり、意識不明の状態に陥ったのです。その時は既に左眼をやられ、背中、左腕、顔面全体に雨戸硝子の破片を受けてゐたのです。すぐさま、二階より無我夢中で下に飛び降り外に出た時には、殆んど全部隣接の家は倒壊してゐたのです。

まさか原爆とは想像も及びませんでした。どうにかして助けを求めようと思ひ鷹橋の電車道りに向いましたが、そこには既に何千人と云う人が右往左往騒然としてゐる状態です(その状況は省略させて戴きます)私、それより船入方面に逃げようと明治橋にかけよりましたが、そこも既に破壊し、出血多量の身をひっさげて引返へし、日赤に飛び込みました。その時既に我が家は灰燼と化して居りました。日赤病院も幾多の病傷兵がタンカでかつぎ出され、市民の助けどころではない状態でした。
 私、そこにあった水槽で体の傷を水洗した所、益々出血多く精神的のショックも亦、大で有り、これがこの世の最後と思ったのはここがはじめてでした。日赤の広場では、幾多の兵隊さん達がスクラム組んで天皇陛下万才の声高らかに倒れ死んで行くのを、亦、真黒に焼けて死んでゐる市民を見ました。

私も幾度かこれが最後だと思ったか分りません。それより出てあちこち迂回し乍ら、南大橋(山中高女の裏)のたもとにやって参りましたが、ここでも市民の悲惨なる状態或は半死或は河中で悲鳴を上げている人、抱き合って死んで居る人、それは筆舌に尽くし難いものが有ります。
 私も疲労次第に加り既に逃げ避難する気力を失ったのです。四方の人々に私は父母の住所、姓名を申し、元気で今日まで過さして戴いた御恩を感謝しつつ死んで行く旨の言葉を伝へバッタリ倒れたのです。

丁度幸ひ救助隊が来てタンカで高等工業の防空壕に避難してくれました。体に五十ケばかりの硝子が入ってゐるため寝返へりをうつ度々に、ギシギシとする痛烈なる感じが身に沁みて参りました。そこに約八人位居りましたが、約三、四時間経過した頃、今度はトラックで宇品に送ってくれました。その時には両眼は傷のため失明状態となって居りました。宇品の運輸部より暁部隊の上陸用舟艇で呉線坂駅沖のタイビという食糧倉庫に約三千名送ってくれました。むしろの上に丸裸、それはそれは実に表現出来ない苦痛、死よりもつらい状態で有りました。明七日朝には既に兵隊さん、婦人会等の手厚い看護も空しく約一千人近くの人が死んでしまったのです。日々に死んで行く人の苦しみ、わめきは、今運筆する私ゾーとする感じです。

丁度八日九時ようやく私の治療を軍医さんがしてくれましたが、多勢の事とて誠に簡単、痛みも依然止みませんでした。七、八と毎日週期的にグラマン機がこの上空を飛んでゐるのです。如何うもここは危険だと思はれたのでせうか、九日朝四時過ぎこっそりと被害者は、再び船で今度運ばれた所は呉線小屋浦駅前の小学校に収容されたのです。丁度その日十時頃、話に聞けば、そのタイビは爆弾投下をされたのだそうです。本当に私達は幸運児で有りました。

その小学校でも日々に死人は増し、私の順番も時間の問題ではないかと案じて居りましたが、別に変った症状も現はれず、十三日の日までそこに居りましたが、父母の事が気になってなりません、軍医さんに見てもらっても、未だかへる事は不可能だと申されるのも聞かず、文字通りの丸裸(本当にフンドシ一枚という状態です)で汽車に乗ったのです。当時満員の汽車の中、私の席は誰一人として近寄ってくれる人がないのです。御想像下さい。

私の身についてるのは、只血みどろになっている腕時計だけが原子爆弾の遺物でした。

以後、帰郷後に於ける病床も無く、他の被害者より比べれば嘘の様な話です。

もっと詳細に述べればよいのですが、これ丈でも何等かの資料になれば何よりの幸甚と存じます。      

昭和二十五年七月五日(水)
広島県豊田郡入野村重広
倉本 迪
(現職―本郷高等学校 教論)

追伸
尚一層詳細に述べと仰言れば後日更めて報告さして戴きます

出典 『原爆体験記募集原稿 NO3』 広島市 平成二七年(二〇一五年)二四~二八ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】

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