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戸山村から見た原子爆弾 
原 富美子(はら ふみこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年 1950年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
作文
二年八組
原 富美子

昭和二十年四月十五日私たち小学校児童は、戦争がだんだんはげしくなって広島も危険になったので市内の各小学校児童は山間地方のお寺に集団疎開する事になり。私達皆実小学校児童は父兄の方々に見送られ、バスに乗って安佐郡戸山村に行き正善寺その外の寺に分宿しました。先生達と皆んな仲よく楽しくすごし、早や八月六日がやって来ました。学校が遠いので朝早くお寺を出て学校に行きました。八時に勉強をしてますと、空襲警報に少しして解除になりましたので、勉強を続けて居ますと、「ピカッ」と光り、眼の前が一度に暗くなった様な気がしました。私は思わず机に伏りました。顔を上げると、教科書がひとりでに開いていました。私達は、キャキャとさわぎ泣くものさえ居ました。運動場に集まれ、という鐘が鳴ったのでいそいで集まりますと先生が、早く帰れといわれたので、帰る支度をして急いで帰って見るとお寺の障子が破れていました。少しすると山の向う側に入道雲のようなものが、ムクムクと出空一面に広がり太陽が真っ赤になりました。先生達と、アレアレと見ていると、空から百円札の焼けのこり。ござの焼けたのが落ちて来ました。田んぼに落ちたのを、「あみ」ですくってあつめていますと、バスに乗っていた人達が広島が焼けているといわれたので私は家族のもの皆んな元気でいますよう心の中でいのりつづけました。その翌日の朝皆んな心配なのか、早く床を上げて空をながめていました。黒い雲のようなものがまだありました。学校の方からやけどをした人、手のない人が車に乗ったり又歩いたりし、たくさん道を通てをられたので父や母ではあるまいかと心配でなりませんでした。学校は、やけどうをした人達でいっぱいでした。やけどうのした人達の話しではただ一発の爆弾が落ちて広島全部焼けてしまったという話しです。私は家庭の事が心配で心配で皆んなと話しつつ夜もよく眠れませんでした。八月十五日正午ラジオが重大放送があるというのでお寺の本堂に集まって待っていますと。先生がなきながら出てこられ日本は負けました。と言われた時女子は声を上げてなきました。男子は男泣きをしていました。わすれもしない八月十五日とうとう日本は負けました。私たちは戦争が終ったので昭和二十年九月廿五日戸山村から広島へトラックに乗って五カ月振りに広島市に帰りました。昔のおもかげもなく街は焼け野原になっていました。そうして家に帰って見たならば、心配していた通り母は原子爆弾で全身大やけどうをして、十日間苦しんで死なれたそうです。一才の弟は母の乳房をもとめて毎日毎夜泣いていました。お父さんと私達姉妹が四人が共に泣きました。着物もふとんも皆焼けて無くなってこれから寒くなったらどうしようかと皆んなで心配しました。このような不幸な目に合った人は私達の近所にもたくさんあります。戦争さえ無かったら母は死ななかったでしょう。母だけでなく何十万と言う人もこんな戦争をしていなかったら生きてをられたでしょう。二度としないで、平和な日本を作り上げたら母いや何十万人の人が喜こばれるでしょう。(終り)

原爆当時の住所  安佐郡戸山村
当時の職業 ナシ
〃〃の年令 八才(小学校三年生)
現住所 広島市皆実町三丁目□□□□□
職業  翠町中学校二年生徒 

出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)三六九~三七三ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】

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