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戦災遭遇記 
助信 保(すけのぶ たもつ) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 崇徳中学校(広島市楠木町四丁目[現:広島市西区楠木町四丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 崇徳中学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
広島県安佐郡三入村字南原
当時 崇徳中学校四年
現在 広島文理大英文科一年
助信 保

前言

今、読み返してみて此の文章にはセンチメンタルな感情が少しもない。日附が無いからはっきりとは言へないが此の文章を綴ったのはまだ「ピカドン」が「原子爆弾」であるとゆう事が判明しない前に痛む頭をおさへながら、汗を拭き、拭き、時折の涼風を喜びつつ、書いたものだとゆう記憶がある。従って之を書いたのは人間の生命のギリギリの限界を乗り越えて全く感情の涸渇してしまってゐた時期に於てであった。(さう言へばひよこや猫の子が死んだのを見て涙した、それ以前の僕が、当時、親友、知友、尊敬する人々が燎原の焔の前に一本、一本の草木がひとたまりもなく焼き尽されてゆく様に、顔腐り、脚に蛆わき、脱落せる髪もうすらに、他界してゆくのを見て泣きもせず、歎きもせず、ましてや挽歌の一つをも書き残してゐないのが、考へてみれば全く不思議である。)ともあれかういう時期に書いたのだから対象の凝視と、分析の正確さとはちっとも感情によってわづらはされてゐないとは言へるだろう。

筐底を探してゐたら此の一文を見出したるままに当時の偽らざる記録の一片として、ここに之を発表して置くのもあながち無役の業ではあるまいと考へ寄稿に意を決したる次第である。

ついでながらに此の一文の理解に益する為に当時の僕の境位とゆうものを少々説明して置きませう。その頃僕は崇徳中学校の四年に在籍してゐました。同僚は殆ど観音町の三菱の機械工作所へ動員されてゐました。僕等は四、五人の友と共に、未だ動員されないで学校に残ってゐる一年及び二年の教練の指導の任に当ってゐたのでした。それで工場へは行かないで校門を潜ってゐたわけです。―当時に於ては、之は余り名誉な事でもなかったのですが―。ともかく一、二年と共に銃を磨いたり、防空壕を整備したりして、ある面から言へば―よしやそれが青年初期のあのロマンの心情の所為であったとしても―、きわめてのんびりと暮してゐたものでした。丁度その八月六日は月曜日であって一、二年は当時最も緊急なる要務となってゐた家屋疎開の援助に繰り出されてゐたのでした。僕等は一、二年の中から十二、三人を残して、その日は地下壕へ移してあった武器の手入れをする事になってゐました。学校は八時十五分始りではなかったかと思ひます。崇徳の由緒(ゆわれ)ある赤門の前まで来て居ましたら一友が「宗岡先生(教練の教師)が中に居られる」と告げて呉れましたので入らないでゐました。―わがままに育った僕にとっては(一般的に)軍人の厳粛なる顔は到底やり切れないものでした―。水清む夏の太田川では早く来た二年生の連中が、草青き土堤にシャツやズボンを脱ぎ捨てて、今、さかんに水浴の快をむさぼってゐたところでした。「おーい、もう上れえよう」「まだ、ええでせうー?」不図促されるままに東の空を見上げるとB29が二機、牛田の山の上を仲良く青く晴れやかに澄み渡った空に―ああ、浮んでゐた二片の白雲も忘れられない―、銀翼を連ねて悠々と北上してゐました。話はここから始まります。

本文

「今日は日和が良いからよく見える」と思って帽子をかざして見てゐた。と、「ピカリ」と恰も眼前でマグネシュウムが燃えた様な明るさになり、瞬間熱いと感じた。「照明弾を何故に昼落すのか」と不思議に思ふ。一瞬毒ガスにやられたヒットラーの姿が黄色い焼焔の中で閃き去る。と同時に二年生のうめき声が背後で聞える。で、直ちに門内に走り込むと、ガラガラと物の崩れ落ちる音。すぐ伏せの姿勢をとって、目と耳とを手で掩うた。そこは講堂の東南の角であった。眼がくら〱らする、凡てが灰色で彩られた様だ。突然「痛いー。」後頭部を何かでがーんとやられた。背の上に何かが落ちる、顔面へ砂が散る。人間は危機に直面すればいろいろの事が一時に頭に浮ぶものらしい。僕もその間に一に父母の事が気になった。二にお母さんが心配して居られる事だらうと心配した。三に何故に今日に限って無理に出て来たのだらうかと思った。四に之からどうしようかと感じた。僕は此の儘生き埋めになるのではないかとも思ったが「何を」と思って立って見た、立って見れば誰も見えない。その時広島市の空はもうもうたる煙に包まれてゐた。此処に居ては危いと思ったので、すぐ銃機等の入れてある防空壕にとび込んだ。中は生徒で一杯であった。中で「熱い熱い」とゆう声がする。戸口に二年の『今中』が居た。泳いでゐたらしい褌一本、背中はまるやけどだ。可愛想にあった。その時僕も手が少し焼けてゐるのを知った。中で「熱い熱い」と言うので不思議に思って見ると防空頭巾と弁当を入れた今流行の下げ鞄が燃えてゐる、ズボンが焼けてゐる、服が、シャツが燃えてゐる、顔が体が火ぶくれになったのがゐる、で僕は飛び出た。見れば牛田の倉庫が、ぼうぼうと燃え上ってゐる、で南をみれば全部煙だ。

僕は失った帽子を求めて随分探したけれど遂に無かった。泳いでゐた裸連中がまる焼けになってわめいてゐる。学校の中から怪我人が沢山出て来る、兵隊さんが(当時市内の校舎は殆んど兵隊が入ってゐました。)負傷して出て来る。忽ち川端は見るに見られぬ悲惨な状態となってしまった。田村工場の方から女学生達が血まみれになって走って来る。負傷した女の人が血まみれの赤ん坊を抱いて保護所へと走る。

何処へ一体何を落したのだらうと見れば講堂の天井が落ちて居る。門を入ってみると、僕が居たところに大きな階段が落ちてゐる。板が散ってゐる。講堂の中のものが飛び出たのであらう。よく死ななかったものだと思うと同時に僕の生運のあった事に嬉しかった。之で僕は生死の間を二度もかい潜って来たのだ。

考へてみれば僕は案外度胸が良いのかも知れぬ。先の大水害の時も今もはっきりとその真状を見、又覚えてゐる。後で聞けば誰もぴかりとしてから後をはっきり記憶してゐる者は少い。又見れば相撲場も倒れて寄宿舎がかやってゐる。食堂も第二校舎も第三校舎も皆ひっくり返ってゐる。さっぱり何処へ何が落ちたのやら分らない。そこで『吉崎』と『皆田』に出会った。『吉崎』は腰を打たれてひっくり返ってゐたのだとゆうし、『皆田』は第四校舎の窓辺に居ったのに気が付いてみるとその内側へ入れられて居ったと言って、顔をひどくはらしてゐた。それから『宗岡先生』に出会った。先生は無傷であった。待避壕へ入って居られたのださうだ。そして生徒の怪我を検べに川端へ出られた。僕等も一諸に行った。そこで『土岡』『沼隈』等四年の者に出会った。『沼隈』は顔面をひどくはらしてゐた。焼けたらしい。他人の帽子があちらこちらに幾つもある。又僕は校内に入った。あたり一面血が点々として続いてゐる。すると『宗岡先生』が「人の生埋めが居る、皆来い」と叫ばれたので僕も叫んだ。十幾人かの生徒と共に行ってみると食堂の下敷になったらしい。竹の壁を頭がつき抜けて耳から上が出てそこにこわれた瓦がのさってゐる。そして「ウー、ウー」と呻いてゐる。暫くして兵隊さんが四、五人来られた。そして「兵隊か」と大声で怒鳴る様に聞かれると、黄色い赤土の下から「兵隊だ」と返事をする。「しっかりせい!」「大丈夫だ!」と叫びに応へる。僕は急いで鋸を取りに行った。

それを『皆田』と『吉崎』とに渡して置いて「誰か生き埋めは居ないかーオーイ」と叫んで走った。けれども答ふるものはあたりの騒音だけだった。それでもまだ居るかも知れないと思ってなほ走り続けながら不図見ると、講堂の上の方から吹き飛ばされた雨樋の残りを伝って、ポツリポツリと雫が落ちて居る。「可笑しい」と思って嗅いでみたが何かよく分らなかった。そこで丁度、『皆田』と『吉崎』がそこに来合せて居たので帰る相談をした。で、あり合せの帽子を僕も『皆田』もかむって彼の弁当箱を探してやった。始めは可部線へ出ようかとも考へたが多分不通だらうと思って土堤伝ひに帰る事にした。川端へ出てみれば、近所の人々が或は、ふとんを被って川へ入ってゆくのが居るし又殆どの人々は大芝公園の方へと待避してゐた。

後続機が襲ひはしないだらうかと気になった。又ひょっとしたら祇園が、やられてゐはしないだらうかとも思ふ。若し今、やられてゐなくとも帰りにB29が来て祇園を狙ふとすれば却ってこのまま此処にゐた方が安全ではあるまいか、とゆう気も起る。で、暫く桜の下で話してゐた。牛田が燃える。鯉城の高楼が見えない。市上空全部黒煙だ。基町あたりが焼けてゐる。鉄橋を風呂敷包みを持った戦災者が西から東へ、東から西へと群をなして往き来してゐるのがいたましく見える。たった、二機で一寸の間にどうしてあんなになったのかと不思議で堪らない。

気が付くと僕の靴は踵が折れて歩行困難の様になってゐた。そこへ『宗岡先生』が来られたので三人で「帰ったのが良いでせうか」と相談した。で、結局帰れる所まで帰ることにして走り出した。「走っては続かん、歩かう」と言うと皆同意して歩いた。

学校の少し北迄来るとそこにある工場が崩れ落ちた。危いから土堤下を帰らうと川辺りへ出て少し行った時『隅田先生』が自転車で登校の途中だったのですぐ行って様子を知らせた。先生は「それでは僕は学校へ行ってみるから君等は『長岡先生』の家迄之を持って帰って置いて呉れ」と言はれて自転車を貸して下さった。「祇園はどうですか」と尋ねると「被害は無い」と言はれたので、早速三人乗りをして帰ったが少しして『皆田』が「三人では無理だ」と言ふので気の毒にはあったが僕が歩かれないので一人乗った。途中『沼隈』に会った。彼は「どうしようか」と言って心配してゐた。それもその筈である。“ポッキリ”と褌だけで家は三原だから気の毒にあったので、「家へ行かう」と言ったが来なかった。又二年の『吉村』に会った。彼は兵隊さんが上からかばって呉れたので助かったと言って無傷であったが、家は横川なので行くところが無いと言うから「来い」と言って連れて帰って居たのだが途中、余りに避難者が多い為彼は僕等を見失ったらしい。油谷工場へ行って居た二年生が一人を戸板に乗せて五、六人で担いで来るのに出会った。「しっかりせいよ」とお互に励まし合って別れた。長束では一軒焼けて居た。竹藪は何れをみても傷つけられた戦災者の群れで一杯だった。その中に『長岡先生』の家へ着いた。先生は教頭を訪れられたとあって不在。奥さんが一人お嬢さん(その□□女学校を出て崇中勤務)の運命を心配して居られた。僕等が「あれは学校へ来る途中で一寸頬を怪我をしたと言ってハンカチでおさへて居られたが元気で『大前』さんを探して居られた」と言ふと少しはほっとせられた様だった。

そのあたりの家は皆なガラスが飛び障子や箪笥等が倒れてゐたが家は大した事もないらしい。約束通りに自転車をそこ置いて帰ってゐると、三菱の職工さんが二人とぼとぼ下ってやって来たので彼等と話して居ると、下の方から一人全身やけどで唯脚絆だけつけた男が歩いて来るので良く見れば、崇中の二年生だ。「長岡へ行け」と言って帰った。その辺りまでまだずーっと道の上には黒づんだ血がぽたりぽたりと落ちてゐるし全身血まみれ、全身まるやけどと言った様な人々が多く、見るに見られぬ状態であった。まさしく阿修羅の巷である。真に地獄の生図である。一体誰なのだ、僕達をこんな目に合はしやがったのは?「野郎、やりやあがったな……」とやりばのない憤怒に燃え立ったのは、豈僕一人ではあるまい。それから少し帰って八木の『竹本君』と供になった。小南原の『山口』の小父さんが馬を二頭連れて「顔を少しやられたが馬が助ったので良かった。」と言って帰って居られた。西原の放送局の下の方まで行くと、トラックが一台止まってゐて二中の生徒が乗ってゐた。『的場』が居ったので「何処へ行くのか」と尋ねると帰るのだから早く乗れと言う。すぐ四人で飛び乗ってゐると沢山戦災者が乗られた。

砂塵を上げて走り出したトラックの背に立って眺めると、広島の上空には黒煙がもうもうとして渦巻いてゐる。「敵奴、具(とも)には天を戴かんぞ!」と男児の、大和丈夫の若き血潮は体力にたぎり立つのであった。腕を撫し、唇をかみして僕は心の奥で絶叫したのだ、「俺が居る、必ずや、この仇は撃ってみせる。友よ、無辜の同胞よ、安心して瞑って呉れ!」と。誰の目にも涙は無かった。血走った両眼がきつく、きらきらと光ってゐた。それから所々の救護所で下りる人を下ろしてトラックは祇園町の本通へ出て走った。今井病院で殆どの人が下りた。そしてそのトラックは此処から上へは行かぬと言うので僕も下りた。自動車に乗って居るとだんだんと落着いて来たのであらう、いろいろな事が頭に浮ぶ。「野上昭夫ちゃん」は『河野』へ行ってゐるだらうから怪我はあるまい」「崇徳の一、二年はどうしたらうか、『太田』は?『小野』は?…」「観音町三菱はどうだらうか、『佐久間』は怪我はあるまいか、『井上先生』は?」「『原田』さんはどうしたらう?昨日遊んだのが最後になりはしないだらうか?行けたら大芝兵器まで行ったのだのに…」「『野上義明』さんは丁度今日公休で良かった」「『重本』は?『前坊』は?…」等々、友の顔がとめどもなく僕の脳裡をかすめ去る……。」

こんな調子で僕は途中いろんな人に会ひいろんな事を話し会って、無事十一時頃我が家へと辿り着き幸運にも両親の心を安んずる事が出来たのですが、此の間の事を書き付けた僕の古い原稿は余りにも克明で余りにも長いので紙数の都合上、残念乍らここまでで割愛する事と致します。

唯、その日の原子爆弾に関する皆なの判断の結論は「確かにあれは新兵器である。」「殺人X光線に違ひない。ゴロゴロ雷が鳴るのはその電気作用の所為だらう。」「毒ガスさへ禁じられてゐるのに何故にそれ以上のものを使ひやあがったんだ。」とゆう様な事であった事を一寸附け加へておきませう。

戦死者の御冥福をお祈りして擱筆致します。
一九五〇年六月十九日
合掌

出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)三五五~三六八ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】

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