昭和二〇年四月より軍属として中国軍管区司令部参謀部通信班に勤務しておりました。学徒動員の女学生五〇名くらいと私達女子の軍属一五名くらい昼夜三交替でその任務についていました。
場所は広島城のすぐそば。二五〇キロ爆弾が直接命中しても大丈夫と言うくらい頑丈で大きな地下壕の中でした。ここは三つの部屋に別れ一番奥が指揮連絡室、次が情報室、通信室と並び私は情報室で大阪の中部軍管区司令部との電話連絡と指揮連絡室から出される警戒、空襲等の警報を警報板のスイッチを押して各部所に伝達するのが任務でした。私達の班は五日の夜は夜勤で六日の朝交替の予定でしたが夜半から何度も空襲警報が発令され仮眠もろくにとれないまま朝になり又八時前にも空襲警報が出て交替は大巾に遅れていました。
でも間もなく解除になり、ほっとしていましたら又発令とのことで急いで警報板のスイッチを押しはじめ半分くらい伝達し終った時、後の窓から何千個とも思えるフラッシュ様の光・・・・続いてドドーオンと言う大音響と共に竜巻の様なものすごい風が入って来て私は吹き飛ばされて少の間気を失っていた様で気がつくと机の下に倒れていました。何が何だかわかりませんでしたが大変なことが起ってしまった・・・・・と廻りを見ると今まで働いていたお友達も兵隊さん達の姿もありません。つまづきながら、やっと外に出て見るとあんなにいいお天気だったはずなのにうす暗く息もつまるほどの土煙でした。目をこらして見ると司令部も聳えていた広島城の天守閣もなく市街の方も暗く煙ってよく見えませんが火の手もあちこちに上っていた様に思います。
持場は死守せよと言はれていました。ともかくと壕にもどると担当の電話が鳴っています。受話器をとると女の人の声・・・・・「広島がやられたさうですがどんな状況ですか」私「何が何だかよくわかりませんが全市全壊の様です」続いて参謀の方が出られ・・・「時刻は・・・音は・・・市の状況は・・」私「はっきりした時刻はわかりませんが時計が八時十五分で止まっています。音はひとつ・・・全市全壊の様です」参謀「音がひとつだと・・・それで全市全壊・・・そんな馬鹿なことがあるか・・・・」大きなどなり声が返ってきました。何か言はなくてはと思っているうちに電話はきれてしまひました。「壕の中に誰かいないか・・・・早く逃げないと火が廻るぞ・・・」とさけぶ声に我に返ってすでに炎のかかる出入口から四つん這ひになって這ひ出し二、三人の兵隊さんに誘導され必死で郊外へ逃げました。
以上は十七才の私が原爆投下直後中国司令部に於いて体験したことです。でも私は交替が遅れたために壕の中におり大した怪我もせず無事でしたが母は町内会の勤労奉仕で・・しかもその日都合のわるくなった方の代りに小網町に建物疎開の後片づけ作業に行き爆死致しました。
本当に紙一重の差で生と死の運命の別れ道・・・・・
昭和十九年に父が病死し祖母はいましたが・・・一人になった私は恐しい思ひ出・・・母との別れなど・・・・・いやなことはみんな忘れたい・・忘れてしまい度い只その思ひだけで叔母の弟であった主人と親戚や祖母の反対を押し切り結婚して北海道に来ました。
今思うとずい分思い切ったことをしたものだとも・・若かったから出来たのだなとも思いますが、広島から逃げ出したかった・・・・・一途な思いを今はなつかしくさえ感じます。
原爆の投下がなければ母も死ぬことはなかったでしょう。祖母と私と三人でどんな人生を送っただらうと時々思ふことがあります。
とにかくあの日から私の人生が大きく変ったことだけはまぎれもない事実です。
|