昭和二〇年八月九日午前一一時二分。百雷の様な閃光が地下工場の岩肌を照らした。瞬時に機械のヒューズも光を発した。数秒後、ドドーンと猛烈な爆風に吹き飛ばされた。「すぐ近くに爆弾が落ちたぞ」と息をひそめていた。「師範生は急いで学校へ帰れ!」遠く伝令の声を聞いて外へ出た。建物は、跡形も無い。裸同然の母子がいる。目も鼻・口も判らない程黒ずんで焼けこげて大きくふくらんだ顔の異様さに息を呑む。道路ぞいの家々や町工場の猛火で道は通れない。田んぼの畦道を通って学校へ帰った。稲や草木の緑が一様に茶色になり、町は至る所で黒煙を吹き上げ、空一面を覆っていた。そのため宵闇の様になっていた。学校の寄宿舎は大火に包まれていた。
消火活動
「早く本館校舎への延焼をくい止めよ!」先生の命令で命がけで防火に当たる。私は、三階生物教室を担当した。紅蓮の炎は凡そ二〇メートルにも達し、三階建て鉄筋校舎に迫った。がれきの山となった教室内で防火用バケツの水をこぼさずに運び、窓枠がパッと火を吹くとサッと水を掛けた。頭から水をかぶって苦闘することしばし。やっと延焼はくい止めた。
救助活動
息つく間もなく次の命令が発せられた。「負傷者の救護に当たれ」と・・・先生方も必死の形相であり、大方は怪我を押して学生の指揮や救護に当たられた。小高い山の退避壕は二つあった。足の踏み場もない程負傷者でごったがえしていたが、大半は師範生であった。うずくまっている者、だらりと伸びて横たわっている者、火傷・切り傷・打撲が大半であった。後で知ったことだが火傷は原子力の劫火で焼けただれ、深い切り傷は秒速一〇〇メートルを超えるガラス片が肉体を切り裂いて深くはいり込んだものであった。「水をくれ、水・・・」大声を立てる者やつぶやく様に言う者もいたが、「がまんしろ、飲んで眠ったらそれっきりだぞ」と言うしかなかった。薬も包帯もなくどうすることも出来なかった。歩ける学友に付き添って道の尾駅まで送って行った。重傷者は急造の戸板で運んだ。
道の尾駅周辺
何百何十人という負傷者のうごめく様は、地獄絵そのものであった。「空から月が落ちて来るぞ」「そうだそうだ」と大騒ぎする人々がいた。よく見ると太陽が月の様に淡くなり、吹き上げる紙や燃えかすで落ちているように見られたからであった。
Y先生宅へ(山里の丘 爆心地より一・三キロメートルほど)
「私に手を貸して呉れ」自らも火傷やYシャツに血を滲ませた先生に三―四人で従った。講堂も、西浦上国民学校も屋根や壁が吹き飛び壊れていた。巨大な三菱船型試験場や三菱兵器工場の巨大な建て物は、鉄骨だけとなり飴のように曲がっていた。純心女学校わきの橋を渡って、丘へ登り火を免れてペシャンコになった家のそばの壕から先生の奥様やお子方を担架で運び出した。帰った時は夜も深くなり、街の火柱はまだ何か所も望見された。
〈八月一〇日、八月一一日分は略〉
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