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日記 
今井 泰子(いまい やすこ) 
性別 女性  被爆時年齢 26歳 
被爆地(被爆区分) 広島(間接被爆)  執筆年 1945年 
被爆場所  
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
一九一九年(大正八年)三月東京に生まれる。昭和十八年に医師の今井次雄と結婚して京都で暮らす。昭和十九年末に夫が軍医として召集され広島陸軍病院に配属されたため広島市内の二葉の里に下宿することとなった。その後昭和二十年五月に次雄は折尾(現在は福岡県北九州市八幡西区)の部隊に転属したため、泰子は広島市の北約九キロの緑井にあった夫の実家である今井病院に疎開することとなった。

五月十八日 金 晴

御出発になってからもう二週間も経ってしまった。御発ちの晩のことは、つひ此の間の様に、はっきりと思ひ出される。営門の前でしっかり手を握って、元気を出して留守番なさいとおっしゃったあのお声は、まだはっきり耳の底に残ってゐる様な気がする。出すまいと思っても胸は苦しく目の底が熱くなってとうとう見せてしまった涙を拭いて下さった優しいお手も、今は見る事が出来ない。海を越えた九州の地にいらして本当に戦争が終るまでは帰っていらっしゃる事はあるまいと考へるともうそれだけで、余りの情けなさ、寂しさに、身の置き所もない心地がする。何卒何卒御無事で御元気で再び戻って下さいますやうにとただただお祈りするばかりである。昨日も私宛に御便りが来て御元気の御様子。給養はよくなり運動はよしで、食思(しょくし)甚だ良好の由、何よりと私までうれしく安心した。ところで私があまり寂しがるので、神様は有難いお授け物をして下さったのである。今朝、お父様に診察していただいたら、今度は大丈夫とおっしゃった。嬉しかった。これで私もお留守の間の張合が出来、又一人前になれた様な気がする。皆さんが喜んで下さる。早速、手紙でお知らせした。東京へも木島さんへもお手紙を書いた。緑井にゐれば、お父様やお兄様はついてゐてくださる上、お母様やお姉様から仕度を教へていただくことも出来、空襲の点からも比較的安全であり、ほんとうに申分ないが、唯、お留守のことだけが心配である。戦争のことだけが案ぜられる。どうぞどうぞ戦争が好転してくれて、立派なよい子を無事に産むことが出来ますやうに、御守りくださいませと祈りに祈るばかりである。今日から日記を更めて誌し初めることにした。日々反省をし、又種々予定をたてて用事を進め、又後々の思ひ出や参考にしたいためである。昨晩高州素雄さんが御いでになり、いろいろ東京のお話を伺った。今日もまだご滞在である。

五月十九日 土 雨

近ごろはよく降って毎日はっきりしない上に、寒くてまだ三月ごろの陽気である。手足が冷めたく寝られない日が多い。いつになったら五月らしいよい気候になるのだらう。寒くて雨が鬱陶しく降ると、たださへ勝れない気分が一層滅入って悪くなる。七日以来二週間余り、ろくに御飯を頂けないので、身体はだるく、いつも胸がむかむかして気持ちが悪い。殊にお腹がすいて来ると一層ひどくなるが、さて御飯のことは考へるのも嫌といふわけで、全く閉口である。けふは素雄さんとお母様が明日御帰京になるのでいろいろ御馳走をしたのでお手伝ひした。入浴後種々お話して十二時就床。

五月二十日 日 晴後曇

朝早く素雄さんとお母様はお帰りになった。東京へ手紙を御ことづけした。お天気も少しよくなったので八木さんへ後始末にゆかうと思ってゐたが、お父様の防空頭巾を、お頼まれしたら夕方までかかってしまって、遂ひに止めにした。今日また御葉書いただく。便りがないので心配して下さって、去年新緑を訪ねて方々へ行ったことや、浴衣のことなど書いてあった。度び度び御便りを頂くと、何となく身近にゐて下さる様な気もし、それから又、お腹の中に二人の血のつながりが結ばれてゐると思ふと、何となく力強い気もする。今頃手紙がついて嘸(さぞ)びっくりしていらっしゃることだらう。そしてどんなに喜んで下さる事か。

五月二十一日 月 雨

五月雨が一日降り続いたので、今日も又広島へゆけず。今日の様に雨が降ると、一層気持ちがわるくて頭が重い。御飯が勿体ない話だけれど不味くて頂けないもので、身体がだるくて足が重くてお二階へ上るのでも這って上るくらゐである。寝たり起きたりで半病人になってしまひ、大分顔などは細くなって恰度(ちょうど)よくなった。東京からの御手紙にあった様に、肥れるときに肥っておいてよかったと今にして思ふ。

五月二十二日 火 雨

今日もまた雨で止めにした。恰度梅雨のやうに毎日よく降り、温度が低くて手足などは冷い。けふは白絹でブラウスを裁って縫った。夜までに殆ど出来上った。お風呂をいただく。

五月二十三日 水 晴

久しぶりに五月らしく晴れた。朝堀場のお姉様が梅林まで切符を買ひに行って下さり、お昼は堀場で御馳走をお招ばれし、午後から堀場のお姉様と広島へ出て、夕方八木さんへついた。をば様も話をきいて喜んで下さった。福岡から葉書一枚と東京から三枚来てゐた。いろいろお話して、寒いのでおこたへ寝た。

五月二十四日 木 晴

今日も晴れたので早速洗濯と衣類のせいりをして、夕方までに大分かたづけた。をば様がお酢のものやおすしを美味しく作って下さるので、此方へ来てから御飯がすすむ様になったが、その代りいろいろ用事をするので少々疲労気味で、今日は目まひがしたり頭が痛くなったり熱が出たり、いろいろ故障がおきてしまふ。裏の柴田さんも奥様とお子様を備後十日市の方の山の奥へ疎開させるとおっしゃる。戦争もいよいよ切迫するばかりで、沖縄もいつまで続くか本当に心配なことである。本土へ上陸して来たら私など一体どうなるのだらう。御一緒に死ぬのなら諦めもつくが、別れ別れになって心細く死んでゆくことを思ふとたまらない気がする。午後から折尾と東京へ手紙をかいた。

五月二十五日 金 曇後晴

頭が痛いのと身体がだるいのとでけふは何も出来ず。夕方から床についてしまふ。お風呂もどうしようかと思ったが、思ひ切って入ったら気持ちがよくなった。折尾と中浜さん木島さんへ御手紙を出す。此の分では中々かたづきさうもない。

五月二十六日 土 晴

今日も洗濯をし一寸掃除をしたら、もうがっかりしてしまったので、お昼は抜きにして昼寝をした。三時ごろ配給があって、今日から又当番なので柴田さんと出てした。帰って夕方のしたくなどあれこれしたので、荷物の方は一向かたづかず。夜はもう蚊が出て中々眠れない。二階に一人で寝ると、いろいろな事を思ひ出してなほのこと眠れない。お抹茶を頂いて、夜をば様と四方山のお話をした。

五月二十七日 日 晴

今日は気分もよかったので、朝から整理をはじめて夕方までに食器類、雑品類をすっかり箱につめた。一日では難しいと思ってゐたが、配給当番も代って頂いたりしたので、思ひの外に捗どってうれしかった。東京へ御手紙を出し、夜は又折尾へお手紙をかいた。

五月二十八日 月 晴

今日も洗濯の残りをかたづけ、二階を掃除した。済んで疲れたので一休という処へ貝の配給で、大須賀まで取りに行って、帰って配給したらお昼になってしまった。午後は少し着物の整理の残りを始末したが、又大根の配給で四時半ごろまでかかってしまった。当番の時は本当に何も出来ないので困る。夕飯後お菓子をこしらえて、今日は疲れたので早寝をした。けれどもやはり種々のことを思ひ出して、中々眠れなくて困った。かう身体を使ひ気を使ふと赤ちゃんに悪い影響を与へはしないかと心配になる。

五月二十九日 火 曇後晴

朝のうち、いまにも降りさうだったが、後には晴れてよいお天気になった。をば様が緑井へいらっしゃるおつもりだったが、降りさうなので止めになさったら晴れた。配給がいろいろあって忙しく、一日何だかごたごたして、他には何も用事が出来なかった。夜は一寸涼しくなったが相変らず蚊が多くて閉口した。報道によれば東京へ五百機来襲の由、御無事であればよいがと本当に心配である。

五月三十日 水 晴

早昼を召上ってをば様は緑井へいらっしゃった。そのあと夕方の仕度をしてから、恰度柴田さんで疎開の荷物を御出しになるので、御忙しかったので兵隊さんのおやつを作るお手伝ひをしたり、何やかやでごたごたし夕方は又配給が三つもあり多忙を極めた。それでもさうひどく疲れもせず、すっかり終り台所もきれいにした處へおば様がお帰りになって、折尾から来てゐたお手紙と東京からの葉書を持ってかへってくださったので早速読んだ。喜んでいらっしゃる御様子や、私のことを種々と思ひやって下さる御心が、全文に滲み出てゐる様な気がして、温い温い沁々としたものが胸に一杯になるやうな感じがし、思はず涙が出た。何度も何度も繰り返して読みながら寝たら夢を見て、夜半に目が覚めて又思ふこと一しきり。

五月三十一日 木 曇

配給当番の最後の日でお米の配給があるはづだったので、英気を養ってをいたのに、今日は何の配給もなしで一寸気抜けの体だったが、それでも楽でよかった。朝のうち折尾へお手紙をかいた。午後も何もせず寝たり起きたりしてとうとう一日過ごしてしまった。夕方御手紙を出しに行った。ポストが鶴羽根神社の前なので、度々散歩に来たこと等思ひ出して感慨無量になる。夕飯後、新聞を読んだりしてからお風呂を頂いて緑井に電話をしたので、十時半まで待ったが余り遅くなるので酒井さんに取消して頂いて、夏みかんをいただいて寝た。又繰り返してお手紙をよむ。

六月一日 金 曇後晴

身体がだるくて辛かったが洗濯をした。此の間中一寸食欲が出た様だったが又不可くなり、御飯がどうにも入らないのが困る。午後から学生さんが緑井へ野菜をとりにゆくので、荷物を持って行ってもらった。帰ったら、木島さんの奥様からの葉書を持って来てくれた。木島さんも十一月末の御予定の由。私たちはどうして、かうも何から何まで同じなのかと、おかしくもなり嬉しくもなる。早速御返事をかいた。夜酒井さんの御子さんが疫痢におなりで、大さわぎだった。二時頃までお手伝ひした。

六月二日 土 雨後晴

梅雨に入ったやうに降ったが、午後からは晴れて夏の様な風が吹いた。酒井さんのお子さんがまだ、お悪くて御飯をして上げたり、何や彼やで一日ごたごたした。午後一寸横になったら、昨夜よく睡らなかったためか、すっかり寝こんでしまひ、夕方まで寝てよい気持ちになった。折尾から八木のをば様と柴田さんへ御端書が来た。朱字で面会禁止と書いてある。がっかりした。折角元気を出してゆかうと思ふのに残念でたまらない。

六月三日 日 晴

明日は緑井へかへるので、布団を乾したり荷物をまとめたりした。配給を取りにゆくとき、杉本さんとかいふ方に御目にかかった。宮島のをば様がいらっしゃった。朝は本堂の前の草とり、午後は仏間のお掃除とけふは少しお手伝ひも出来た。夜折尾と東京へ御手紙をかいた。いよいよ今日で一ヶ月は経った。

六月四日 月 晴後曇

午前中、布団をつめたり残りのものをまとめたりして、午後すぐ帰るつもりだった處 をば様が往来のけになるとおっしゃるので今日は止めにした。それでおふとんはもうつめてしまったので下で寝た。

六月五日 火 晴

朝のうちお掃除等をして午後といっても恰度正午頃八木さんを出た。折尾と東京へ手紙を出し横川で十二時四十二分の電車にのり、久しぶりに緑井へかへった。いろいろお話をしたり堀場へ行ってお手伝ひしたり又裏のたたみをしまふのや竹の皮をしまふお手伝ひをした。夜 天長節に写した写真を見せて頂き折尾へ送るやうに袋に入れて仕度をした。折尾から一枚東京から三枚葉書が来てゐた。お茶を飲んだら眠れなくなってとうとう一睡もせず、起きてほどきもの等した。

六月六日 水 晴後雨

朝早く洗濯を沢山すませてから、局へ写真を持ってゆき、組合にお金を預けた。帰って、居間、二階、茶の間のお掃除をし、それからアイロンを又沢山した。午後もその続きをして、夜具のえり等も洗ってきれいになったのをつけて、実にさっぱりした。夕方、御飯のしたくをお手伝ひし、お風呂に入って髪を洗ひ、今日は本当に方々きれいになって気持ちよい。

六月七日 木 雨後晴

お兄様にとうとう召集が来た。朝、役場から知らせて来てはじめ、十一日に岡山へ御入隊といふ事だったが広島になったので、一日ゆっくりなされることになった。局へ郵便を持って行ったり、お掃除をしたり、洗濯をしたりアイロンかけもした。四時ごろ、速達を出すのに古市局では駄目なので、広島駅前まで持ってゆくことになり、四時半に家を出て、五時すぎ梅林を出る電車にのり、駅前を経て六時半に八木さんへついた。をば様とお話しながら御飯をたべ、お風呂にも入って床に就いたが、のみと蚊に攻められて、とうとう殆ど睡れず閉口した。折尾からをば様宛葉書が来てゐた。

六月八日 金 曇

又涼しい。朝柴田さんも十日市へ疎開のため出発なさる。お掃除や御飯のかたづけをすませ、九時に出て十時には緑井へかへる。昨日、往復を買っておいたので早かった。裏のそら豆を取って皮をむいたりしてから、ブラウスを直し、夜具のえりつけをした。次々と人が来たり何かとごたごたして忙しかった。それに美ちゃん、佑ちゃん、正ちゃん、それから喜久子さんとお熱を出した方が多勢で、そのため又忙しい。折尾から長い御手紙いただき嬉しかった。夜早速お返事をかいた。今日は安眠出来た。

六月九日 土 晴

御飯の後かたづけ、茶の間のお掃除、二階の掃除と雑巾がけ、洗濯、と午前中にし、午後は長じゅばんの上を縫ひ、つくろひ物をし、節子さんのものとお姉さまの處のものとアイロンをかけ、それから台所で蕗をゆでたり、豆をむいたり、ゆでたり種々お手伝ひをした。前よりは疲れなくなったけれども、まだ疲労し易くて、疲れるとすぐ食欲に影響するので困る。暫く便りが来なくて心配していた。東京からもお葉書が来るし、折尾からもお手紙が来て、素晴らしい歌まで書いてあるので吃驚した。昨日書いた御返事に又書き足した。東京へも書く。

六月十日 日 曇後晴

朝から忙しく種々お手伝ひした。堀場のお姉様、節子さん喜久子さんもお手伝ひにいらっしゃった。成生のおば様や看護婦さんも今日は病院の休日なので手伝って掃除や炊事に一日忙しかった。三十人程のお客様で十時ごろに終ったので私たちは御飯をいただき後かたづけをして寝た。

六月十一日 月 曇後晴

十一時半すぎの電車でいよいよ御出発になる。皆で駅までお送りした。堀場のお姉様、お姉様、浩三さん、伸生さん等隊まで送っていらっしゃる。愈々寂しくなって、お父様もお忙しくなる。夕方までに、奥田のをば様方も皆御かへりになって、尚寂しくなった。

六月十二日 火 雨

暦の上でも梅雨の入り。実際のお天気も梅雨らしくじめじめして、朝からむし暑く暗くよく降った。朝、雨の降る前にお母様と畠へ行って豆もぎをし、帰って局と新川へそれを持ってゆき、それから又豆の皮むきをした。午後は蔵の二階へ、階下にあった衣裳箱を上げて整理し、おやつにかき餅を焼いた。藤井の宏太郎さんが出張の途中、御よりになり夜御馳走をした。節子さんや武ちゃん正ちゃんと一しょにお泊まりになった。山吉先生にも召集が来た由、いよいよ大変な事である。

六月十三日 水 曇後雨

午前掃除、午後は清ちゃんに絵を見せて上げたりし夕方、佑ちゃんの着物のあげをして上げた。宏太郎さんは明朝三時の汽車なので今晩は八木へお泊まりの為、二時ごろ御出になる。節子さんも正ちゃんを連れていらっしゃった。これから九州へいらして帰りに又御よりになる由。夜鼻緒作りをし、お風呂に入り皆で賑やかに話して寝た。

六月十四日 木 晴後曇

朝早起して洗濯を沢山かたづけた。それから鼻緒作りやら、もんぺを裁たりと思ってゐたが、富国製油会社へ石鹸をとりにゆく事になり、お姉さまと二人で、野菜を沢山取って来てリュックサックにつめて、それを持って十時すぎ家を出た。会社へつくと電話がかかってすぐに八木さんへゆく様にとの事で大いそぎで行ったら、途中でお母様が佑ちゃんをおんぶして、十日市に立っていらっしゃった。八丁堀で一しょになって行ったがもう間に合はなくてお兄様は隊へおかへりになったあとだった。それで恰度昨日からお泊まりの節子さんと私は石鹸を持ってかへり、お母様お姉様は、面会にいらしたが、とうとう駄目で七時ごろ御かへりになった。今晩あたり福岡へいらっしゃるらしい由。

六月十五日 金 雨

今日の面会証が来てゐるので、若しかしたらと、いふわけでお姉様と行ったが、矢張り昨夜御出発になったあとで駄目だった。それで八木へよってお昼をたべて、石鹸を持って帰った。昨日が旧暦の端午の節句だったので、黄粉のおだんごが出来て美味しく頂いた。堀場、局へお使にゆき、それから夜はよだれかけを裁ったりした。東京から八木へ封書一通、葉書一通来てゐて封書の方は、お父様お母様、茂ちゃんからので懐かしくよんだ。

六月十六日 土 曇

朝上衣を裁ちはじめたら、お掃除や、節子さんのお洗濯、アイロンかけのお手伝ひ、豆もぎなど、次々と用事が出来て、中途で止めたので、夕方と夜として、やっと裁ち終へた。けふは、昨日のお父様のお誕生日のおのばしで、お赤飯やおにしめ、焼魚、お膾、青豆、おひたし等御馳走ができた。折尾から長らくお手紙が来ないで、心配してゐたら、今日お父様の處へ来た。御両親様を思ふお心が切々と沁み出るやうなお手紙だった。又けさはお父様に診察していただいたら、一寸小さい様だが確かにあるとの事でまづ安心。

六月十七日 日 晴

殆んど一日かかったが、上衣が縫へて一仕事がかたづいて嬉しかった。夜十一時までやり遂に仕上げた。今日は中々よいお天気で暑かったので、洗濯も大分かたづけた。恩給証書が見つかったので折尾へお手紙を出した。宏太郎さんが八木へお泊りになるので、昨日から節子さんが行っていらしたが今日はお母様がことづけるお野菜を持って夕方からいらっしゃった。夜など急に静かで寂しい様だった。

六月十八日 月 曇

お母様がお留守なので食堂、居間、外、玄関、二階の掃除をした。午後は、堀場のお姉さまと喜久子さんとで、学校へ農繁期託児所の打合せ会に行った。恰度、農家の縫物の奉仕があってミシンをかける人がなくて困っていらっしゃったので、子供服を一着縫って上げて四時半ごろ帰った。お母様と節子さんはお昼頃御帰りになる。夕方は御飯ごしらえのお手伝ひをし、夜八木と、恩給についての問合せの返事を一〇四部隊とに書いた。

六月十九日 火 晴

もうすっかり夏らしいお天気で、爽やかな青空には一点の曇もなく、照りつける日射しも眩い様である。朝、洗濯をし、局へ郵便を持ってゆき、それから畑へ行き、大根を取って来て切って乾し、二階の部屋と浩三さんのお部屋と次の室と茶の間をお掃除し、雑布がけもし、それから敷布を一枚ミシンで縫って、ブラウス等にアイロンかけをしたらお昼になった。随分よく仕事がかたづいて嬉しかった。午後は鼻緒を二つ作ってすげて家の下駄が二足出来た。それからお風呂をたき、夕方の仕度をお手伝ひした。夜はお裁縫、これもだいぶ能率が上ってうれしかった。折尾から暫くお便りがない。如何していらっしゃるか心配である。恰度この前来てから今日は十日目である。私の方からは五日、十日、十七日と三回出してゐる。

六月二十日 水 曇後晴

掃除を方々してから、もんぺを裁って縫い初めた。どうも中々うまくゆかないので、堀場のお姉様のを拝借して来て縫った。折尾からお父様宛、葉書が来る。私には一向来ない。又面会禁止とかいてある。東京からもお父様とお母様から、長い御手紙を頂いた。明日から託児所で又八木さんへもゆかなければならないので、夜遅くまで種々用意した。

六月二十一日 木 晴

愈々夏らしいお天気である。まず、朝は喜久子さん登喜ちゃん、成生さんの文子さん、ともちゃんと託児所へ行った。けふは最初の日で子供の数も少なくする仕事もないので早くかへり、それから仕度をして十一時四十分の電車で節子さん、武ちゃんと御一しょに広島へ出た。八木さんへは一時に着いた。それからをば様とお話したりして、もんぺの続きを縫ったり夜具を乾したりした。今日あたり、随分暑く、流石の私も汗が出た位である。

六月二十二日 金 曇

朝早くから警報が度々出てゐたが、八時すぎに空襲となる。呉方面へ多数侵入し、広島にも投弾したのが物凄い地響きがし、家鳴り振動した。恰度、三月十九日の広島の初の空襲の時の様だった。あれは支那から御帰りになって、私も八木さんへ引移った翌々日で、饒津方面に負傷者があるときいて、心配しながら帰ったら無事で安心したと、元気でお帰りになってお話になったことを、今さっきの事のやうにまざまざと思ひ出す。久しぶりに折尾と東京へお手紙をかき、木島さんの奥様へも葉書を出した。夕方鶴羽根神社の前のポストへ出しにゆき乍ら、散歩に来たことを又思ひ出した。緑井にゐるよりは、八木さんへ来ると余計に思ひ出が多い。夕方、など南向の四帖半の格子窓に依りかかって、本をよんでいらっしゃる様な気がして、思はず御飯ですよと呼びかけたくなったり、明るい月夜には、遠くの方からこつこつと靴の音を響かせて今にも只今といって帰っていらっしゃるような気がしたりする。京都の思ひ出も多く、入口の戸を明けて窮屈さうに身をかがめて入っていらっしゃった格好や、朝顔を洗っていらっしゃる時に覗くと、大きな目をして見せて下さったこと、御出かけの時に、おきまりを忘れかけて、催促されて戻っていらしたこと。恰度今頃には、白絣の袖をまくり上げて蠅をたたいて廻っていらしこともあった。柱によりかかって本をよんでいらしたお姿や、朝清々しい気分で食卓の前で、新聞をよんでいらしたお姿も、彷彿として浮かび出てくる。それから又薪わりや、電気直しや、緒をたてる事などもして下さった。目をつむると、それらの様子がまざまざと見える様である。二階に上ってみると、すっかりお床を上げて綺麗に掃除がしてある事もあった。台所に座りこんで、手伝って下さったこともあった。御飯を炊いたり、お茶を沸したりする様な事さへして下さったこともあった。何處かで待合はせる時や、二人で歩くときの楽しい気持ちも、今では味はふ事が出来ない。あの当時、何とも思はなかった当り前の事が、今ではもうどんな事をしても駄目だと思ふと、何でもっと楽しんでおかなかったとさへ思う。あの眼鏡の奥の優しいまなざしを、整った隆い鼻を、引緊った口元を、そして背の高い元気の溢れたお姿を再び見せて下さる日は何時の事か。沖縄の戦況も日増に悪い方に向ふばかり。沖縄を敵手に委ねたら内地の交通網を寸断されるは必定。面会出来る日も此の分では来さうもない。赤ちゃんを入れた親子三人が笑って元気な顔を見せ合ふ日がただ一日も早く来るやうにと、祈りに祈る許りである。

六月二十三日 土曜日 雨

朝から晩まで、小雨が降ったり止んだりしてゐて中々涼しかった。昨夜また蚤で、寝られなかったので、今朝は寝坊した。もんぺを縫ひ、大分出来て来た。配給当番は午前キャベツ午後ビールで又お醤油も買ひに行ったりした。八木さんにゐると本当に何をみても思ひ出す事ばかりで心経衰弱になりさうだ。早く緑井へかへった方がいいかもしれない。去年の十月に召集におなりになった時は余りの打撃に極度に緊張して殆ど涙も出なかったが今度は内地であり、割合に近い所であるといふ幾分の慰めがある代り、空襲で殆ど面会にゆく事は不可能だと思ふと又居ても立ってもゐられない気持ちになる。柳井へ出張の時は一ヶ月などと何と長い事だろうと思ったのに支那の時は二ヶ月でそれも一日千秋の思いで待ってあの御帰りになった日の天にも上るやうな嬉しさ。ところが今度こそはいつ御帰りになるか全然見込がないとは。実に情なくて、お帰りまでどうして待ってゐられようかと思ふ。子供が出来て張合は出来たけれど、その子供を一番に見て喜んで下さる方がゐて下さらないと思ふと本当につまらない。何をしてもちっとも張合がない。此の儘の生活がずっと続いたら病気になりさうだ。

六月二十四日 日 雨時々曇

昨夜から歯が痛み出し、余り痛むので今日は到底お裁縫も何もする元気なく終日寝たり起きたりし乍ら、濡れタオルで冷したりした。こんなに痛む事は近来ない事で、矢張赤ちゃんへカルシウムを取られるために急に悪くなったものかも知れない。おかゆやお汁だけしか食べられなくなり、是では又身体が弱る。夜をば様が浜田さんへゆくから一緒にゆきませうと仰しゃるので少し歯痛も収ったので御一しょに行った。

六月二十五日 月 晴

夜中に又歯が痛み、今朝は歯がすっかり浮いてしまって、かみ合わせたらとび上るほど痛い。水のやうなものしか食べられない様になってしまふ。午前、町会事ム所へ異動の手続をしに行ったら防訓で留守なので帰って、夜具等をつめたり荷物を作ったりして午後行くと、群部へ転出するには警察の証明がゐるとの事で、駅前の派出所へ行ったら東の本署へ行く様にとの事で、又猿猴橋の所までゆき、これで漸く終かと思ったら、今度はお米の配給所まで行かされ、帰って、もう一度判をもらひにお米の配給所まで行って、それから市役所の出張所まで行ったのでとうとう五時になった。それで夕飯をすませて六時に八木さんを出た。切符に並ぶ覚悟だったら市電も好都合、省線も切符をくれた人があって大助りで七時半ごろ帰宅。夕食、入浴、洗髪。歯の痛みは余程よくなった。

六月二十六日 火 曇

朝五時半に起き、たまってゐた洗濯を皆かたづけて仕度をして朝食を済ませ託児所へ行った。玲子ちゃんと一しょにゆく。それから託児所で炊事のお手伝ひやらお守りやらで一日働き後かたづけをして六時すぎ帰宅。裏のテニスコートの跡の處を耕して、お母様お姉様が看護婦さんとお芋を植えていらっしゃった。折尾から来てゐた写真を見せて頂く。久しぶりにお目にかかった様に懐しかった。お手紙にあるやうによく肥っていらっしゃる。お手紙は暫く来ないが早く来るといい。

六月二十七日 水 小雨

梅雨らしいお天気が続く。けふも託児所へ行って一日お手伝ひする。疲れてしまって帰って何もする気力がなくなるが、さうも言って居られず、夏布団の綿を入れて仕上げ、食後のかたづけを御手伝ひした。お兄様からは、けふはじめて御葉書が来た。赤間へ行っていらっしゃる由、すぐ近くだからお会ひになる機会もあらう。山吉先生は八本松へおいでになるとか。俸給を留守宅払のため郵便局から振替払出票が来る。それで夜お手紙をかいた。東京からも葉書を頂いた。

六月二十八日 木 晴

今日も清々しく晴れて、明るい夏らしい日だった。朝、局へよって折尾へのお手紙をお願ひした。今日も一日託児所で御手伝ひをして、今日も保姆の数が少なかったので随分忙しくて、それに三日つづいたので、疲れが出て帰ったらもうがっかりした。然しもうあと二日だから、まあ最後まで続けよう。お風呂へ入って寝たのは十二時すぎ。写真を又取出して眺めてゐたら、種々な思ひで胸が一杯になって、写真に話しかけ乍ら涙が出て出て仕方が無かった。余りそっくりなので、見てゐるとほんたうに何ともいへない気持ちになって来る。

六月二十九日 金 雨

けふは梅雨らしい雨降り。喜久子さんと登喜ちゃんと託児所へゆく。今日は子供の数が、十一人といふ少なさで仕事も大してなく楽だったけれど、やはり疲れが溜ってゐるので帰ったら頭が痛くなる。毎日託児所だけで一杯で他の用事を一寸もしない。もんぺも縫はなければならず、冬着の用意。赤ちゃんの仕度と用事は山程あるのに少しも出来ない。託児所が済んだら大車輪でやろうと思ってゐたが又八木へゆかねばならないので二三日つぶれるだろう。折尾からもう二十日もお便りがない。此方からは五度も出してゐるのに、一体どうなさったのだろう。此の間九州の爆撃があったりしたので一層心配でたまらない。早く来ればいいのにと毎日楽しみに帰ってみても一向来てゐなくてつまらない。

六月三十日 土 雨後晴

朝かなり激しく降ってゐたので、お父様の長靴を御借りして行ったら、帰りにはからからのお天気になってしまった。けふで愈々(いよいよ)託児所も終り、五日間無事につとめ終って何よりだった。肩の重荷をおろした様な気がすると仝(どう)時(じ)にがっかりもして、又風邪をひいてしまふ。六月もとうとう終ってしまった。早いやうな短いやうな。然し一向張合のない日々である。せめて御かへりの日がわかってでもゐたら、も少し張合もあらうものを、何時までかうして待つのかと思ふと情ない。

七月一日 日 曇後雨

朝八幡様へ妻の会で、堀場のお姉様とお姉様と三人で行って帰ってからは、お母様の還暦のお祝ひでいろいろ御馳走を作った。それでずっと立って忙しかったので、夜はとても疲れた。折尾から二十日ぶりでお手紙を頂きとても嬉しかった。忙しかったのでとうとうそのまま持ってゐて夜開いたら、私の事を思ふ切々のお心の一杯にあふれた歌ばかり沢山書いてあって、読み乍ら又泣いてしまって風邪が悪くなる。写真をみては泣き、手紙をよんでは泣き、赤ちゃんが泣虫なのか知らないが、近頃涙の大安売みたいである。でも泣くと少し気持が収る。
一体戦争はどうなるのか。戦争次第で私共の運命が決るのだ。

七月二日 月 晴

昨夜といふよりは今暁の呉空襲で、救護班の出動を命ぜられ、看護婦さんたちがゆき、午後からは緑井でもおむすびの炊き出しを隣組でした。そのために病院の方も忙しく宅の方も何だかごたごたした。朝、救護班の事で葉書を沢山書いて、郵便局との間を何度も往復したりした。又今夏初めての暑さで座ってゐても汗が出る位だった。恰度風邪をひいてゐて、咽喉は痛く身体が一層だるい。お米の配給がいよいよ此の方も窮窟となり、お米が四割であとが馬鈴薯と豆なので、今日のお昼は馬鈴薯の粉ふき。朝と夜は大根飯。ひまひまにもんぺを縫ったり、アイロンかけ、洗濯なども大分かたづけた。夜入浴、又十二時すぎに警報発令、近頃は毎晩である。

七月三日 火 晴

異動の手続きをしに、八木さんへゆき夕方帰ったが大変な混雑で、家へついたのは九時だった。お風呂に一寸入り、御飯を頂いていろいろお話をして、寝ようとすると又々空襲警報で種々用意をした。

七月四日 水 晴

梅雨も明けたと見えて、毎日夏らしい暑い日が続く。けふは朝方々を掃除の後、もんぺを縫ってお昼までに仕上げた。午後は豆の整理でさやから出したり乾したり、乾いたのを瓶に詰めて土蔵へ収めたりした。枇杷の冷いのをおやつに頂いておいしかった。組合にお使に行ってからお風呂たき、御飯のしたく等活躍した。夜はたまってゐた手紙かきをした。

七月五日 木 晴

朝局へ 折尾と東京と、中浜さんへの手紙と他に、お父様からのお頼まれの手紙を持ってゆき、帰って洗濯、それから掃除やお昼のしたく、午後はアイロンかけに服なほし、ほどきもの等。夕方のしたくも喜久子さんと二人でお手伝ひしたので、七時に御飯になる。食後入浴、台所の後かたづけをして一寸よだれかけを縫ったが、余り蚊が多いので止めにして寝た。

七月六日 金 曇夕立

朝から、どうも手首が痛くて仕方がないので、湿布をして頂いた。此の間から痛かったが、その中なほるだろうと思ってゐたがいつまでもよくならなくて困る。方々のお掃除をし外も掃いた。それから二階へ机を一つお借りしたので、その上をいろいろに飾ったりして、部屋に落着きが出来てうれしかった。夜早速その机で此の間の写真をみて鉛筆の肖像画をかいた。松本のをば様が広島へいらしたので何かと忙しかった。

七月七日 土 晴

もう一足飛びに秋が来た様に涼しくて、凌ぎよかった。お母様は麦すりにいらっしゃるし 松本のをば様はまだお帰りにならないし、佑ちゃんは病気なので、一日お台所や何かで忙しかった。他の用事は一向捗らないがどうも仕方がない。それでも夕方は看護婦さんたちに手伝ってもらったので大層早くかたづいた。然しお風呂が中々なのでよだれかけや服のゑりつけ等して捗どる。入浴後皆でいろいろ話し乍ら枇杷や何かでお茶を頂いて寝た。

七月八日 日 晴

朝洗濯をし、それから掃除や何やで忙しかった。馬鈴薯の供出で四十二貫も出す由。そんなに出したら、何もなくなってしまふ。午後もアイロンかけやら御飯のしたく。松本のをば様がお留守の上に、馬鈴薯の皮むきといふ仕事が一つ殖えたので、何だか一日中台所にいる様である。夜になると疲れて何もするのが嫌になってしまふ。手が左も痛くなり、又昨日今日あまり立ちつづけるので腰や足まで痛くなる。困ったものである。慢性になると大変だから早くなほしたい。

七月九日 月 晴

梅雨も本格的に明けたらしい。然し此の二三日大層涼しい日が続く。今日はあまり手が痛いので湿布をして、又左の眼が腫れたので是も湿布をして眼帯をしたため、何かするのに不自由で洗濯もせず掃除と台所のお手伝いに一日暮らす。松本のをば様がまだおかへりにならないので毎日とても忙しい。夕食の用意だけに四時半から七時半までほうちょうを持って、切りに切って大奮戦と後で皆で笑った位。八時半に夕飯が終って後しまつに十時までかかり、それから枇杷を頂いたりして話して十二時寝た。夜又お父様が一寸診て下さったら大分大きくなって手によくあたるようになった由である。何か心配な様な嬉しいやうな気がする。心を引しめてよい子を生むやうに心がけなければ不可い。胎教といふことを夢にも忘れてはならない。

七月十日 火 晴後曇

暫く続いたお天気も、午後からくづれて夜は雨となる。朝は例により方々の掃除、それから土蔵の二階で帯の布やらいろいろ探しものをして昼食のしたく、昼食後は後かたづけ、それから少し帯を縫ひ、又夕方はお風呂たきに台所、すんで後かたづけ。何だか一日台所仕事に追はれてしまふ。かう忙しくては困ったものである。早く松本のをば様が帰って下さるとよいと思ふ。入浴後も帯を縫ったが大変な蚊で閉口、床に入ってからは又のみに攻撃される。今日は病院の休日なので、お父様、浩三さん、清ちゃん、信ちゃん、元ちゃんが夕方から川へあみうちにお出かけになり、九時すぎ御かへりになる。清ちゃんへ浴衣を一反差上げた。手はまだ痛くけふは指も痛いが、眼の方は殆んど全快。報道によると東京へ艦載機八百来襲の由、御無事を只管(ひたすら)祈る。

七月十一日 水 雨

朝から小雨が降ったり止んだりしてゐたが、午後から夜へかけて随分よく降って、又大水にならなければよいがと、皆を心配させる程だった。洗濯、掃除、台所と相かはらず忙しかったがその合間に、簡単帯を縫ひ上げアイロンかけをし、又夜はお父様にお頼まれの巻紙作りをした。すっかり済んで気懸りだったのが重荷が下りたやうで一安心。けふは鮎を頂いて珍しかった。

七月十二日 木 雨

よく降り続いて、今日などは一日かなり強い降りだったので、川の水が殖えて、又洪水になりさうだといふ事だった。収穫した玉葱の整理をお手伝ひしたり、つくろひ物をしたほかは例のとほり台所のお手伝ひと掃除など。夕方喜久子さん、登喜ちゃんと畑へ行ったら雨にふられてびしょ濡れになった。お茄子を初めて頂いたが長茄子でとても美味しかった。夕飯の時停電で閉口、夜折尾へお手紙をかき又小包を作った。

七月十三日 金 晴

昨日の雨も収まり、晴れてすがすがしいお天気だった。けふも台所と掃除とで一日暮れる。かう忙しくては全く困ったものである。昨夜警報で、お手紙かきと小包作りを中止したのでそのつづきをし、夜すっかりひもをかけたりした。御頼まれした石鹸と本の他に煙草とボタンとそれから「明けてくやしき玉手箱」を入れて差上げられて嬉しい。開いてどんな顔をなさるだらう。

七月十四日 土 曇

朝喜久子さんが歯医者へおいでになる時に小包と手紙を局へ持って行って頂いた。洗濯をして冬の羽織も洗った。松本のをば様がまだお戻りにならないので相変らず忙しい。東京のお父様お母様から長い長いお手紙を頂いた。また茂ちゃんからも絵葉書が来て懐しくよんだ。八木さんの裏の柴田さんの奥様からもお便りいただいた。

七月十五日 日 晴

午後から国民学校で、日休慰安の学芸会があったので、皆いらっしゃる。私もあとから用事をすませて行ってみた。終の方の信ちゃんの狂言と、玲ちゃんの中江藤樹の母の劇が中々よく出来た。最後の隣組で賑やかに笑って、海行かばの合唱をして終った。帰って夕方のしたくに忙しく、夜はかたづけてすぐ床には就いたが、警報が度々出る。種々の思ひ去来して眠れず。松本のをば様御かへりになる。

七月十六日 月 曇小雨

朝から身体がだるくてだるくて何も出来ない様だったが、掃除などをした。松本のをば様が御帰りになって少しは楽になった。お米の配給は又馬鈴薯六割であとはお米と麦。午後皆さん沈没なので、喜久子さん登喜ちゃんと堀場へゆき、暫く遊びおやつを頂いて、かへりに畑へよっていろいろ取ってかへり、それからお風呂たき、御飯のしたく、食後入浴洗髪。けふは折尾からも長いお手紙をいただき、東京と茂ちゃんからも端書を頂いた。

七月十七日 火 小雨

又梅雨のやうによく降り出して、大水の心配をさせられる。朝東京へ出す手紙を喜久子さんに出して頂く。相かはらず方々の掃除と台所のお手伝ひに一日暮れる。毎日同じやうな事ばかりくり返すので、あきて来るがどうも仕方がない。昨年の今ごろは一人で淋しい事もあったが、楽しい事も多かった。食物の心配は多かったが、仕甲斐があって日々が張合のある生活だった。親鳥に抱かれて眠る雛鳥のやうに委せきった安心しきった楽しさがあった。一年たった今にはそれがない。賑やかではある。生活の心配は一つもない。然し、どうしても気苦労がある。そして頼りかかってゆく柱がない。それが何よりも心細く悲しくて、夜一人になって考へると、どうしても自然に涙が出る。昨日のお手紙を暗誦するくらゐに何度も何度もくり返して読んだ。見識といひ批判といひ、文章の順序やあやといひ無駄が一つもなくて、そして、何處となく落着いて品があり、読む人に一度でよくわかり、字もよく揃ひ間違ひもなく、そして露はには出てゐないが、底を流れるしみじみとした愛情がよむ私の心にもはっきりと伝ってくる。こんなよい立派なお手紙を書いて下さる方なんて、一寸見渡した處一人も見当らない。あんなに立派ないい方なのにと思ふと、嬉しさと恋しさに尚更たまらなくなる。早くかへって下さるといいとそればかり毎日思ふ。赤ちゃんのよだれかけに刺繍した。

七月十八日 水 曇

まだ余りはっきりしないお天気ではあったが、洗濯やらアイロンかけをし、午後は一寸刺繍をした。おやつのあとすぐ畑へゆく。夜かたづけてから馬鈴薯むきをして、冷いトマトを頂き皆でいろいろ話して十二時就床。

七月十九日 木 曇後雨

きょうは合間仕事に、刺繍と手紙かきをした。田中さんといふ元の先生がおいでになり、夕方いろいろ御馳走を作る。松本の清ちゃんもいらした。毎晩警報が出て忙しい。入浴、さっぱりして二時就寝。割合早くお風呂が済んだので、下の部屋でお姉様、喜久子さんと夜なべをしてからトマトを頂いたりし、それから又、折尾へお手紙をかいたりしたのですっかりおそくなった。

七月二十日 金 曇小雨

まだ梅雨のやうなお天気つづきで涼しいのはよいが、今日など折角洗濯をしても、さっぱり乾かない。又歯が痛く、手の痛いのもよくならないので困る。やはり一日台所などで忙しかった。ふきんを二枚ぬひ、又よだれかけも合間合間にしてとうとう仕上げた。奥田の伸生さんにも召集が来た由である。

七月二十一日 土 曇

朝 喜久子さんと歯医者に行き、帰ったらすぐ広島へお使にゆくやうにとのことで、袋町国民学校へ県医師会の用事でゆき、帰りに八木へよって宏太郎さんの御動静をうかがひ、恰度写真も出来てゐたので受取ったり等して四時ごろ帰宅。それからお手伝ひをし、夜折尾と東京へ写真を送る手紙をかく。

七月二十二日 日 晴

午前中、お母様、お姉様、喜久子さんは畑へお芋を植ゑにいらしたので方々のお掃除をしてから、お父様のお頼まれの瓶を出して並べる仕事をした。午後はおふろたき、台所など、のみにひどくさされたり、手が痛かったり、歯が痛かったり、それでよくかめないので胃が痛かったり故障だらけで困る。いよいよこの日記帳も終る。この日記を書きはじめた時の心持ちを忘れぬやうにしよう。

七月二十三日 月 晴

暫らく続いた梅雨の名残りのやうな陰気なお天気から開放されて今日はすがすがしい青空と燦然と輝く太陽が如何にも夏らしかったが、風は夏といふよりも、初秋を思はせるやうに冷く、朝夕は肌寒さを覚える程だった。朝歯医者に喜久子さんとゆく序でに局へよって折尾と東京へ写真を送り、又組合等にもお使いに依って帰った。それから例により掃除をし洗濯をし台所のお手伝ひをし、午後からは一寸つくろひ物を二つ三つと鼻緒をなほしたりして又夕方の仕度。奥田の伸生さんがお子さんを連れていらっしゃって夜お泊りになった。八月二日二部隊へお入りになる由である。

七月二十四日 火 晴

朝早く洗濯も沢山済ませて歯医者へゆくつもりだっが、空襲警報になったので中止した。お父様から医師会の御用事を頼まれ、謄写版を刷ったり宛名を書いたり配給物の計算をしたり、種々の用事でとうとう一日かかった。折尾から昨日来てゐたというお手紙を頂いた。二日付で七日の消印になってゐる。此の前頂いたのより先に出てゐるのに随分遅れたものである。山上展望、沖縄悲噴の歌、両方ともよいが山の上のが私の気持ちにもぴったり一致して。又 言葉の調子も頼しく何度もくり返してよむ中に暗誦するほどになった。沖縄の方はお気持はよくわかるがもう一工夫欲しいと思う處もあり、等と生意気な批判をしてもさてどうしたらよくなるのかは私にも解らないが。今日は一日中警報が出たり解除になったりして、報道によれば中国四国九州へ延二千機の小型機の来襲だった由である。

七月二十五日 水 曇後晴

歯医者から帰ってから掃除五室して洗濯を沢山した。けふはお姉さまが奉仕で山に行き(松脂とり)なので何かと用事が忙しかった。午後一寸気分が悪く冷や汗ばかり出るので一休みした。それからお風呂焚きや夕方のしたくをし、食後また医師会の用事をした。藤井の宏太郎さんがおいでになってお泊りになった。

七月二十六日 木 曇後晴

朝一寸、医師会の用事をかたづけてから、梅林へ切符を買ひに行ったら二時間も待った。帰って昼食の後、又役場や局や畑や組合や、けふはお使ひにばかり忙しかった。お父様が診察して下さって順調の由。小さい様だったのが恰度よい位の大きさになった由である。それで妊婦届けを役場へ出した。夜、茂ちゃんと柴田さんの奥様へお返事を書いて寝た。

七月二十七日 金 晴

朝飯前に、掃除と洗濯を済ませ食後、局と役場へ行って妊産婦手帳や衣料切符等いただき、歯科者に行ったらもう遅くて駄目だった。帰って又掃除を五室してから、アイロンかけやミシンかけをした。お昼は代用食でパンだった。午後は一休してから、服のゑりをつけたり鼻緒を直したりした。夕方のお手伝いをずっとして夜は折尾へお手紙をかいた。もう暫くお便りが来ない。十三日にお出しになって以来まだ来ない。もうまもなく半月になる、どうしていらっしゃるか心配だ。又長いいいお手紙が早く来るといいと思ふ。小包も送らなければならないが、拳銃の皮帯といふのが見つからないので、まだそのままにしてある。早く専問に探さう。

七月二十八日 土 曇

朝早く畑へトマトを取りに行った。食後すぐ歯医者にゆき、帰りに妊婦用のネルや石鹸紙の配給を取って九時すぎ帰宅。お母様も宏太郎さんを送りに広島へおいでになった。朝から午後まで艦載機が次々と来襲、広島では三機撃墜で江波と新庄と宇品へ墜ちた由。落下傘で降下した敵を逮捕してくれと放送してゐた。家鳴り震動したり、警報がひっきりなしに出ても、別にここではあまり関係がなくて例により掃除やら、アイロンかけやらをし、またつくろひ物をしたり、鼻緒作りをしたりした。おやつに玉もろこしを頂く。入浴後、堀場のお姉様や節子さんもいらして賑やかだった。手術が沢山あって終るのを待って種々お手伝ひし十二時すぎ就寝。

七月二十九日 日 曇

もう土用も半ば過ぎたといふのに、いつまでも梅雨の様にはっきりしないお天気で、曇ったり降ったりしてゐる。今日も大分敵機が来襲したが広島は矢張大したことはなかった。日曜なので歯医者が休みだから早く方々掃除をすませ洗濯をして、鼻緒を四足分作り、又アイロンがけ等もした。夜警報が又出たので仕事も出来ず早く寝た。

七月三十日 月 曇

歯医者から帰って例により掃除など。今晩は帯祝をして頂いて、赤の御飯に鮎の尾頭付き、堀場から頂いた肉、南瓜の煮物、おなますでビールの祝盃を挙げて頂き嬉しかったが、ただ一番大切な方が御いでにならない事が何としても心残りだった。素雄さんが静岡へ御転任で喜久子さん登喜ちゃんも近い中にそちらに御いでになる事になる。又淋しくなる事だろう。今日のお祝いの事などを夜お手紙に書いた。今晩は警報も出ず静かである。

七月三十一日 火 曇

歯医者にゆきかけたら用事が出来たりして、朝から何だかごたごたした。お父様は朝から船越へいらっしゃった。医師会の配給もまだ終らないし何だか用事が次々と出て来て忙しい。折尾へ長いお手紙を出した。もう随分長く御便りがない一体どうしていらっしゃるだろう。今日はお兄様からは三通も来たのに。又東京からも英ちゃんだの茂ちゃんだのからも三通も来たのに。早く御便りが来るとよい。今日は中々むし暑かった。明日はもう八月、御別れしていよいよ三ヶ月経った。

八月一日 水 晴

八月に入ったら急に夏らしく晴れて、暑さが厳しくなった。朝早く、八幡様の妻の会にお姉様方とゆき、帰って歯医者に行った。それから掃除や洗濯をし午後は東京へ手紙をかき、アイロンかけをした。夕方からお母様は明朝の伸生さんの御送りのため八木へ泊まりにいらっしゃった。夜手術の最中に空襲になるやら、お産があるやらで此方まで忙しく、終ってからお父様に御飯を上げ、医師会の用事をしたりし、十二時すぎに寝た。けふは東京からも一通、折尾から葉書二通封書一通も来た。御元気の様でまづまづ安心した。

八月二日 木 晴

いよいよ暑くなった。歯医者から帰ってお盆を洗ったり、医師会の用事をしたりした。お母様がお帰りになった。午後余り疲れて睡眠不足でふらふらするので暫く寝たらよくなった。折尾へ送る荷物の用意をして、夜小包に作った。失くなると不可いので、二つに分けることにして一つ取りあへず作った。けふは朝ゆきがけに東京へ手紙を出した。夜になって涼しい風が出て気持ちがよかった。

八月三日 金 曇後晴

朝小包を出し歯医者に行って帰って掃除。けふは喜久子さんと雑巾がけもして、お父様のズボン下をなほし、午後は手紙かきと小包作りとアイロンかけ、夕食のしたく。電話の事でお母様は広島へいらっしゃった。いよいよ暑さも厳しく夜になってもむし暑い。蚊やのみにも攻められて閉口である。夜お手紙を書き上げて入浴。十二時すぎ床就した。

八月四日 土 晴

四時に起き、梅林へ切符を買ひに行った。夜明けのすがすがしい空気を快く感じ乍ら、月見草の続いている道を歩いてゆくのは、楽しかった。だんだん空が明かるくなって月が消え星が消え、東の方が美しく紅色に染まって、大きな太陽が上り初め、七時に切符を買って帰るころにはもう赫赫と照りつける日ざしに汗ばむ位だった。帰って朝食。すぐに局へ小包と折尾へのお手紙を持ってゆき、又帰って広島へいらっしゃるお母様のお手伝ひをいろいろした。で歯医者は休んで、それから又掃除やら洗濯やらをした。午後は少し休んで医師会の仕事をし、夕食のしたくをお手伝ひして、夜も医師会の仕事をした。今日は随分暑かったので、寝る前にお湯で流したら大層さっぱりした。

八月五日 日 晴

特に何をするといふ事もなく一日すぎてしまった。お掃除や台所のお手伝ひや、医師会の用が次々と忙しかったので、他の用は少しも出来なかった。もう赤ちゃんがよく動くので、種々の用意も早くしなければと思ひつつ、忙しさに取紛れてゐる。けふは広島へ、堀場のお姉様と病院のお姉様がいらっしやったので、一層多忙を極めた。

八月六日 月 曇

来るべきものが遂に来た。朝八時半ごろ、朝食が済んで茶の間に居た時、白銀の尖光がパッと光ったと思った途端、地ひびきと共に家がゆれ電気の傘が落ち、ガラスが飛散し、壁土がザラザラっと音を立てて落ちた。思はず、お母様と佑ちゃん登喜ちゃんに、喜久子さんと二人でふとんをかぶせてゐるうちにもう収ったので、気がついてみると空に五色の物凄い入道雲が出てゐて、B29の爆音はもう聞こえなかった。診察場や洗面所や二階の窓ガラスは滅茶々々にわれ、しまっていた雨戸はそりかへり、押入の天井は吹き上げられ、たたみの上は壁土とほこりでザラザラとなった。大変な事だったと言って皆で寄って話したり、掃除に大童になってゐたら、その中に罹災者のけが人が続々とトラックで運ばれて来た。その人たちの話によると、唯一発で広島中の家が殆ど滅茶苦茶につぶれ、中心一帯には大火災が発生し、二三里四方の家は潰れ、パッと光った尖光にあたった者は、衣類はさけて焦げ皮膚は大火傷を負ひ、家に潰され焼かれた人は数知れぬさうである。その火傷は、皮が一皮はげてぶら下がり赤い真皮が露出し、おそく来た者は血が出たり、うみを持ったりしていた。又その場所は凡そ二倍位に腫れるので、顔などは大きくなって、全く目もあてられない様になっている。打撲傷・裂傷も数知れず何十人づつ収容されるので待合室は勿論の事、診療場も玄関も、門から玄関までの砂利の上にも、自動車小屋やタンクの下まで患者がごろごろと寝て、うなり、わめき、泣く有様は全く此の世乍らの生地獄としか思はれない。従って台所の方もお茶をわかしたり炊出しをしたり、又此方の炊事も忙しく、何所も彼処も戦場のやうである。夜十二時すぎまで、お父様は看護婦さん五人を助手に奮闘なさったが明日の事もあり、徹夜は出来ないので、一時すぎお休みになったので私たちもやすんだ。八木さんもつぶれて焼けたらしいとか、私どもの荷物もとうとう取りにゆかない中に焼けてしまった。まあ、あの様に酷いけがをしないですんだと思へばだが、いるものばかりを本当に残念なことをしたものである。

八月七日 火 晴

昨日は爆弾の起した入道雲と、火災による黒煙で嫌な色に雲っていた空は、今日は幾分よくなり、夏らしく又暑い。けふも又朝から何度も警報が出て度々壕へ入る。泣き面に蜂といふとほり、けふは又広島で機銃掃射をやられたさうである。思うに敵は広島を格好の試験台として原子爆弾と殺人光線の新兵器を使ってみたものであらう。そのために広島を今まで残しておいたのかと思ふと、全く口惜しい。今日も朝から、受付や何かで、昨晩から七度三分許りの発熱のため一層体が苦しいが、寝ても居られず働く。罹災者は次々と押しかけ、又その人々をたづねる家族の者も続々とつづくので、門から玄関の間は大へんな混雑で、又重傷者たちはごろごろと待合室から診療場、此方の居間の方まで侵入する程で、昨日、手当の出来ないで残った人が七十人余もゐるのに、朝から昼まで、百人余りの患者が押しかけて大変な騒ぎである。もう薬も他の材料もなくなったので、遂に受付を断ったが、それでも手當は夜までにしきれず、残された人の中には自動車小屋やタンクの下で屍体となったもの、待合室で死んでゐたものなど十指に余る程であった。警戒警報解除後の突発事であり、敵機は、爆音を消して降下して来たため、全然予告なしのことだったので、被害は一層甚大だったわけで、今までの焼夷弾や爆弾とはすっかりその様相が違ふわけである。ピカッと光ったのと、たたきつけられたのと同時、火事が出たのも、家が潰れたのも自分の衣服がさけて燃え出したのも、皆同時なのだから防ぎやうもない。然し話をきいてみると家の中に居たりして、下敷になったものは打撲傷を負った代わり火傷はなく、戸外で白光にあたったものは悉く火傷を負ってゐる。その火傷は多分レントゲン光線の様に非常に悪性のものらしく、その腫れ方は只事ではなく、手当のすんだものでもかたはしから死んでゆくのをみると軽い人でもその傷がいつになったら癒るか疑問である。とに角ひどい事をされたものである。上陸をむかへうつ事など此の分では望まれない。上陸してくるより先に此方が全滅してしまふ、一刻も早く此方からも、のるかそるかで出撃しなければ駄目である。一体どうなるのか考えてゐると心経がどうにかなりさうで、居ても立っても居られない。夜も夢を見ては目がさめ、一寸した爆音にもハッとし、相変らず熱が七度を下らない。折尾へも東京へも無事をおしらせして、又今度の爆撃の特徴を、知らせて上げたいと思ふが通信も不通でどうする事も出来ない。

八月八日 水 晴

電気がつきモーターが動き、水が出るやうになって幾分便利よくなったが、まだ通信は不通。電話も通じない。情けない事になったものである。八木さんも全焼の由。をば様は、おけがをなさったが生きてはいらっしゃる様子。荷物の事など考へると気が滅入って来る。けふは午前中で大体患者を学校等へ運び、午後は大掃除をして、方々漸く元通りとはゆかないがどうやら片がついた。お風呂も沸かしたので、入浴し汗を流して寝ようとしたら、又空襲警報におびやかされ、夜中うとうと夢ばかり見た。

八月九日 木 晴

朝歯医者へ行ったがまだ休み。身体がどうにもだるいので、寝たり起きたり。熱は相変わらず七度、赤ちゃんへも嘸悪い影響を与へただろうと思って、泣きたくなる。東京や九州へも、あの爆弾を落しはしないだろうか。一体どうしたらいいのだろう。心配で心配でたまらない。十時半頃から午後四時頃までずっと寝たので、大分よくなった。

八月十日 金 晴

今日も歯医者は休み、帰りに役場へよったらいろいろな用事が出来、お昼ごろまでそれで忙しかった。午後はリュックサックに名前を書いたりしてお母様のお手伝ひで手術着をなほしたり洗濯をしたりした。夜皆が集まり、賑やかに話して十二時就寝。赤ちゃんがよく動くやうになった。赤ちゃんが産まれるころ、世の中はどんなになってゐる事だらう。昨日の大本営発表でソ連がいよいよ満州、朝鮮へ侵入してきた由。もうどうなる事か、前途を考へると余りの事に夜半にさめて又一しきり考へる。

八月十一日 土 晴

明日が日曜で歯医者が休みだからと行ってみたがけふも駄目だった。帰ってから洗濯をお母様の分を沢山して午後はアイロンかけをする心算だったが、炊きだし米や隣組一括の立替米や、罹災者の応急米を取りに行ったり、預けたりするのに夕方までかかったので何も出来なかった。する事は沢山あるのに毎日こんな事で忙しくて一向出来ない。今後も度々空襲があれば本当に何の用も出来ないだろう、今日は又長崎へ新型爆弾を使用したとか、この調子でやられると日本の都市は忽ちなくなってしまふ。一体これからどうなるのだろう。

八月十二日 日 晴

立秋になっても毎日暑さ厳しく、それに此の間からの衝撃やら疲労やらで御飯が少しも美味しくなく少ししか食べられなくて困ったものである。一日に何度も警報が出たり解除になったりして、以前は澄ましてゐたが今後はさうはゆかないので、毎日それだけでも気忙しい事になった。今日は十二日。お手紙を出したいが通じないのでは仕方がない。お父様の散髪をしたり、診察着や布団カバーにアイロンをかけたり等して一日経った。満州でも激戦中の由。東北地方も大空襲を受けた様子。鶴岡や日光も危なくなって来た。離れてゐると空襲の度毎にどうだったろうかと、心配になる。勝ち抜く日迄皆が無事で生き残って欲しいと、いつもいつも思ふ。

八月十三日 月 晴

けふは何となく疲れて、熱っぽくて仕方がないので、午前はつくろひ物と医師会の仕事。午後は石鹸を切って箱に収めたり、鼻緒を作ったりお使いに行ったりしただけで掃除もお台所も怠けてしまふ。ソ軍は綏芬河、東寧、ハイラル等まで侵入して来た様子。空襲も大分受けたらしい。関東地区へは五百機とか。赤ちゃんがよく動く。赤ちゃんと、赤ちゃんのお父ちゃまと、三人になるまで、三人揃ふまでどうか無事でゐたい。死ぬのなら三人一しょに吹き飛ばされてしまふのならいい。別れ別れになって、此の間のやうな火傷をして酷い姿をして死ぬのはどうしても嫌だ。

八月十四日 火 晴

朝から、お姉様と子供四人、喜久子さん登喜ちゃん堀場のお姉様、清ちゃん信ちゃん、元ちゃん武ちゃんといふ大勢が山へ薪取りに行った。お盆なので、お墓へもおまゐりして、薪を車に一杯積んで帰った。それからお昼まで洗濯をして、午後は一寸休んでから、お風呂炊きと台所をした。夜は鼻緒作り。皆集まって葡萄酒をのんだり、桃を頂いたりした。かうして賑やかに暮らしてゐると、忙しく毎日々々経ってゆくが、かうしてゐて結局どうなるだろう。先日の空襲のやうに、いつどういふ事が起るか解らない。戦争の前途を思ったら本当に悲しくなる。京都や八木さんにゐた時の事など次々と思ひ出して、空襲管制の暗闇の中で涙がひとりでに流れてくる。空襲以来通信も途絶えて、どうしていらっしゃるかも心配である。小包もどうなったらう。

八月十五日 水 晴

遂に悲しい、口惜しい日が来てしまった。逃れる事の出来ない運命の様な予感はしてゐたが、それが、かうも早く来るとは思はなかった。何といふ残念な事だろう。何といふつまらない事だらう。日本は遂に、米、英、ソ、支の四ヶ国に対し降伏したのである。八年に亘る長い戦ひは一体けふの此の日のために、苦しくも続けられたのかと思ふと実に情ない事である。何故、最後の一人になるまで戦はないのかと疑ひたくなるが、然し

天皇陛下は、朕は是以上、国民の苦しむのを見るにしのびないと仰せられたさうである。此の御仁慈の前に、国体を護持する事が許された事だけでも感謝しなくてはならない。正午から重大放送があるといふので家中がラヂオの前に集り、前古未曽有の玉音の詔書を謹んでうかがひ、次いで内閣の告示をきいた時は、こらへ切れない口惜し涙が拭っても拭っても溢れ出て、胸は張りさけるばかりだった。広島の爆撃とソ連の参戦が、遂に敵の上陸を待つことを許さなかったのである。原子爆弾の威力、物質の力の偉大さ、私どもは今日のこの煮えかへる様な胸の中に、この事を強く強くやきつけておかなければならない。北海道、本州、四国、九州のみを残して、多年の努力の結晶である、朝鮮も満州も台湾までも、皆かへさなければならない。政治と経済の自由を与へられるといふ事も、奴隷化しないといふ事も、どの程度までの事か。いざとなったら、何を言ひ出されるか解らない。軍は武装解除され、軍需に関するすべての事業は停止され、軍需でない産業に従事させられるといふ事である。余りの事に、皆茫然として為す所を知らず、ただ午後の半日を無為に過ごした程だった。今後、世の中がどういふ風に変るか、皆目見当がつかない。敗戦国の情なさ、唯、驕れる敵の思ふ通りにならなければならない。かう手も足も、もがれてしまっては、十年や二十年は身動きも出来まいと思ふ。日本が負けるとは、昨日までは、まだ一すぢの望みがあったものを。実に何といふ残念な事だろう。三千年の光輝ある歴史に黒点を印した。私共国民の責務は大きい。然し、国の富も、力も何も彼も失った今、私どもにはどうする事も出来ない。隠忍自重、再起の日を子や孫の時代に念じて、努力するほかはない。先だって来の度々の九州の爆撃に御無事でゐて下さったとしたら、再び元気なお顔を見せて帰って頂ける。それは嬉しいが、帰っていらっしゃる御心の中を思ふと、何とも言はれない心地がする。東京も今日まで無事でゐたとすれば、まづまづ有難いが。さて、英ちゃん、昌ちゃんの心中を思ったら、何といったらよいのか、察するに余りある。小磯の伯父様も、生きてはいらっしゃれまい。あれを思ひこれを思ひ、思ひ余って、又涙となる。今日の悲しい日永久に忘れまい。

八月十六日 木 晴

相変らず日は照り空は青く晴れ蝉は鳴いてゐて一向に、負けたといふ感じがしない。空襲もぴったり止んで間が抜けた様である。お父様にお頼まれして薬の整理でとうとう一日かかった。夜は皆で又、戦争の話。実に何とも胸の収りがつかないやうである。

八月十七日 金 晴

歯医者と組合に行ったら十一時になってしまふ。それからずっとリンゲル瓶の整理を昨日に引きつづいてやり、三時すぎに漸く終わった。治ちゃんがお風呂を炊くのを手伝ってくれたので、時々見にゆきながらおむつ縫ひをした。雑巾がけやら台所のお手伝ひをして夕食入浴。けふ鶴岡の宗ちゃんから速達が来た處をみると、郵便も少しづつは通じるらしいので、夜手紙かきをした。今日あたり一番暑かったやうである。

八月十八日 土 晴

お母様は八木へ、堀場のお姉様は広島の方々のお医者廻りに、松本のをば様と治ちゃんは後かたづけにそれぞれ広島へいらっしゃった。掃除と洗濯とつくろひ物をした。夕方物凄い夕立がありそれから俄かに涼しくなった。夕食後又お父様のズボン下を繕って、済んでから暫く話して十二時就寝。

八月十九日 日 晴

節子さんが広島へいらしたので洗濯をしてあげて、それから診察着等にアイロンかけ、午後はおむつと雑巾を縫った。夜、東京への手紙を書き上げた。いよいよ此の冬は、飢饉で餓死する者も多かろうとのこと。一体どうなるのか。赤ちゃんが無事に育ってくれるだろうか心配である。

八月二十日 月 晴

五時ころ、お兄様が突然に御帰りになった。一番後まで残されるので一度休暇を貰って御帰りになった由。二十三日には、又九州へ御帰りになるさうである。朝食後、喜久子さんと歯医者に行ったら、帰りにお兄様が自転車でいらっしゃって、今度は素雄さんが、いらっしゃるとの事で大急ぎで帰った。お洗濯を方々のをして上げたりお風呂炊き夕食のしたく、雑巾がけ等働いたら、夜熱が又出てしまふ。電気が点かなくて月の光でお風呂に入って寝た。

八月二十一日 火 晴

午前は薬局の手伝ひをした。看護婦さんに病人が出て忙しいので。でも一寸面白かった。午後折尾から写真と一しょにお手紙届く。東京からも、一ヶ月ほど前に出たのが漸く着いた。折尾からのはお父様が開封なすったのでそこに皆集ってゐたので、大いにいぢめられ、ほふほふの体で二階へ逃げて、それから何度もくり返してよく読んだ。胃が痛くて仕方がなかったけれども、お姉様は、かぶれで熱が出ていらっしゃるし、治ちゃんとをばさんが夕方から広島へいらしたので一人で台所でまごまごしてしまふ。夕飯は頂かず、作って後かたづけをしただけ。でも却ってそのため良くなった様である。此の頃暑さに疲れと一しょに胃腸も弱ってゐる處へ、昨日あたり余りお水をのみ過ぎた所以かも知れない。夜は大分涼しくなった。

八月二十二日 水 晴

雨が降らなくて毎日とても暑い。東京の夏も、京都の夏も、立秋を過ぎたらずっと凌ぎよくなったのに、此所ではいつまでもなかなか暑いことである。午前薬局の手伝ひ、午後は医師会の仕事、夕方は台所のしごと、夜は浩三さんのお手伝ひをして謄写版刷り。すんでから遅くまで集って種々お話した。疲れがまだなほらないのに、お嫂(あによめ)様が何もなされないので、私がどうしても忙しくなり、無理だと見えて今日は七度二分になる。

八月二十三日 木 晴

朝、お兄様は、又九州へ御帰りになる。薬局のお手伝ひを少しやってから、大体整理のついた處で、支度をして八木さんへお見舞いかたがた野菜を持って行った。広島は全くひどい惨害を蒙って居て、瓦のかけらと壁土との、一面の焼野原がどこまても続いてゐるばかりだった。をば様も、もうおけがはよくおなりになってゐた。帰ってから夕食のお手伝ひをしてから夕食、入浴。胃が痛くて痛くて又熱も出て苦しい。

八月二十四日 金 晴

十時半の電車で素雄さんは御帰りになる。それでおべんたう作りをお手伝ひした。茶の間、居間、二階、玄関などのお掃除をしたり、浩三さんに割って頂く木を運んだり、大分働いたら夜は又七度を越す。胃もまだ痛いが追々良い様だ。お嫂様がまだよくおなりにならないので何かと忙しい。今日は十六夜、毎日晴れてよい月夜である。愈々連合軍は二十六日から上陸して来る。明二十五日からは飛行機も飛ぶさうである。どんな苛酷な償ひを要求して来る事だらうか。働いても働いても皆賠償に取られて、生活は戦時よりもっともっと苦しくなる事を覚悟しなければならない。せめて食糧だけでも、今迄位に維持されないと、国民はだんだん衰へてしまふだろうが、大切な朝鮮台湾を取られてはそれも心細い。敵はどうしても、日本民族を地球上から抹殺するといった、初めの言葉通りにやるかもしれない。実に困った情けない事である。

八月二十五日 土 晴

少し降ると涼しくなるだらうのに、毎日よいお天気で暑い。暑いだけでも身体がだるくて、疲れる。然しけふは午後からは大分涼しい風が吹き、夕方から雨となったので凌ぎよかった。午前中は洗濯を沢山して、午後はおむつを縫ったり、ほどき物をした。夜は嵐となった。

八月二十六日 日 曇

けふも幾分涼しかった。朝、局へお使ひに行って、帰ってから、掃除とお菓子作りお昼のしたく、午後は又御飯じたくが忙しかった。松本のをば様がお留守だし、お嫂様はまだなさらないので。赤ちゃんのじゅばんを裁って縫った。昼間は出来ないので、夜なべを十二時までやった。往診や手術等でお父様も、夕飯をその頃召上がった。

八月二十七日 月 雨

今度はよく降り出した。朝、歯医者と役場へ行って、帰ってから掃除などをし、午後はじゅばんを三枚仕上げ、ほどき物をし、夕方のしたくを手伝ふ。右腕にかゆい物が出来たのが、中々かゆくて困る。昨日上陸の筈だった連合軍は、嵐の為に四十八時間延期の由。

八月二十八日 火 曇

今日は薬局のお手伝ひを午前中したので、歯医者などは休んだ。患者が多くて十二時まですんでも、まだ四、五十人の人が順番を待って、待合室にごろごろしてゐる始末で、全くお父様も大変である。早くお兄様や山吉先生が御戻りになればよい。それはさうと折尾からも東京からも一向お便りが、ないがどうしていらっしゃるか心配である。まあ大抵は御無事ですんだのだろうと思ふが、余り来ないので気にかかる。六日の空襲について、心配していらっしゃるに違ひないのにあれ以来一通も来ない。その前に来たのが送れて此の間届いたが、日数がかかるとしても、もう一ヶ月になるし、通信網は回復しているのだから、もう来てもよい時分である。けふは邦子ちゃんのお誕生日で赤い御飯を頂いた。右腕のかゆいものが益々ひどくなり、芯がづきづきする様で表面はかゆく熱を持ってゐるので夜注射をして手当をして頂く。少し夜なべをして西瓜など頂き十二時就寝。盛男さんがもうお帰りになった。飯塚だから、折尾からも、もうまもなく御かへりか等と噂したが、盛男さんのおっしやるには、弱い者ばかり二十一人しか帰さなかったのだから、まだなかなか帰れまいとの事。御便りが来るかどちらか早く御様子を知りたいと思ふ。昨日の新聞によると、広島は七十五年間人畜が住めない由。ウラニウムといふもののため、全然不毛の地と化したのだといふ。それを研究に行くのも決死的行為といふ話。それでは広島の町へゆくだけでも、その害毒を受ける事だろうし、若し患者に接触したりしても伝染するものだったら、私たちも今に頭髪が抜け、高熱を発し、下痢をして口から血を吐いて死ななければならないかも知れないのである。又パッと光ったあの光線にあたった者が皆不可いとすれば、勿論私たちも免れてはゐない。庭の木なども、次々と赤くなって枯れてゆく。畑のものや、稲などはどうだろうか。若し害を受けてゐるとすると、此の辺もやはり不毛の地となってしまふ。全く恐ろしいものを広島へ落したものである。文字通り殺人爆弾である。

八月二十九日 水 晴

今日は、又逆もどりの暑さだった。朝歯医者に行ったら、又罹災患者が多くて、十時までかかってしまふ。帰ってお昼まで薬局の手伝ひをし、午後からはのりつけ、洗濯をし、つくろひ物をした。東京から葉書二枚、お兄様から一枚頂く。東京も無事らしくてまづ安心。右手が、けふはかゆさと痛さとで下にさげてゐられない位。続いて注射をして頂く。

八月三十日 木 曇

昨日いらした小西さんも、お帰りになった。歯が欠けたので歯医者にゆかうと思ったが、薬局が忙しいので手伝ふ。午後も三時近くまで手伝ひ、それから薬の封筒はりをして、西瓜のお八つを頂いたらもう五時。かう忙しいと中々自分の用事どころでない。夜はおむつカバーを裁って少し縫った。

八月三十一日 金 雨

一日よく降ったので、今度は水の心配。涼しいことは涼し過ぎる位。喜久子さんが具合がお悪かったので、歯医者へは一人でゆく。雨で患者さんが少なかったので、けふは手伝はず。その代りアイロンかけを沢山した。午後は診療着をつくろふ。夜はじゅばんを少し縫った。俸給が七・八・九月分が来た。御便りは相変らず来ない。一体どうしていらっしゃるだらう。早く御帰りになればいいと思ふ。原子爆弾のウラニウムの毒は案外激しいもので、広島へ住むのは勿論、通っても不可いらしい。死体の整理に奉仕に行った人たちも、今になって死ぬさうである。実に恐しい事である。

九月一日 土 雨後曇

朝、役場や歯医者へ行って帰ってから薬局の手伝ひをし、午後も又、役場へ罹災者のお菓子を取りに行ったり、薬局を手伝ったりして、おさつの初物をお八つに頂いてお風呂炊き、掃除、入浴。それから又隣組の用事で忙しかった。佐々木さんから白粉やクリームをもらったので、治ちゃんへ頒けて上げた。けふはもう九月、急に涼しい様だ。葡萄も色づいて来たし、風が冷くなった。もう七ヶ月である。用意も早くしなければ不可い。それにしても早く帰って下さるといいと毎日思ふ。

九月二日 日 雨

けふも雨、日曜日だけれど、病院は却って忙しく薬局の勤務三時ごろまで手伝ふ。それから少しお裁縫等した。今日も手が余りいたいので、何もよく出来ず、お手伝いもしなかった。早く手がなほらないと困る。だんだんひどくなり、注射も余り効果が現れて来ない。患者さんが大部分ウラニウムの毒のため、敗血症などにかかってゐる人ばかりで気の毒ではあり、私たちもあんなになるのかもしれないと思ふと本当に情ない。夜はお裁縫をし、西瓜を頂いてねた。

九月三日 月 雨

もう一週間も雨が続く。今後は少し晴れてさっぱりしてくれたらいいと思ふ。たださへ陰気になり勝ちな此のごろ、一層憂鬱を増すばかりだ。看病をしただけで死んだ話など聞くと、何所か遠くへ逃げてゆきたい位である。九州からの御帰りがおそいのは、却って此の意味からいったら良いかもしれないと思ふ。東京から速達が十二日に出たのが漸く届いた。いつも乍ら委(くわ)しいお手紙で、くり返し懐かしくよむ。九州からもお父様宛十五日発の葉書が来た。手が益々ひどくなって、全部膿んで痛い。何時になったら療るのか情なくなる。やはり白血球が破壊されて癒らないのだとしたら私たちも、もう駄目だ。考えると悲しくなる。一体どうしたらいいのだろう。

九月四日 火 雨

けふも又雨、朝役場、局、歯医者、等へゆき帰宅後は、引つづき薬局勤務。今日は受付、会計、薬作りをする。手術が四人もあるといふので、計算もすっかりしたら、ぴったりとあって実に気持ちがよかった。薬も少しは作れるやうになって嬉しい。コーヒーと西瓜のおやつも美味しかった。終ってお風呂たき、ヒューズ直し、電気直しをやり、入浴、夕食。夜なべにじゅばんを縫ひ、お姉様や、喜久子さんと四方山の話をして寝た。お母様は、堀場のお姉様と坂へ伸生さんのお見舞にいらして、お母様はお泊りになった、手が、けふは痛みもかゆみも幾分かうすらぎ、快方に向ふらしい様子が見えて来て嬉しい。東京から葉書が届く。

九月五日 水 晴

久しぶりで青空が見られて気持ちがよい。洗濯をしてから薬局へ出勤。午後お裁縫をしていると突然昌ちゃんが来訪。お見舞かたがた来てくれた。種々お祝や、お見舞を持参、いろいろ東京の話を聞く。お父様はお臥みとのこと、がっかりなさったためだろうと御気の毒でたまらない。浩三さんと御一しょに夕食を早くして下さる。終って又いろいろ話した。随分やせて顔が変ったのにも吃驚した。

九月六日 木 晴

広島爆撃以来一ヶ月である。早いやうな、又、ずゐ分その間、種々な変化があった事を考へると、長くもあった一ヶ月であった。けふは洗濯をし薬局を一寸手伝ひ、昌ちゃんと、五日市へ小野さんをお訪ねした。難波さんは全滅なさうだが、小野さんは皆さん御無事で、をば様にお目にかかり種々お話して夕方帰った。電車を待つ時間ばかりかかって本当につまらないやうだった。夕食後、皆集り四方山の話をして東京と九州へ手紙をかいたら二時になった。

九月七日 金 晴

朝洗濯をしてやり、荷物を作る手伝ひをしおべんたう作りなどした。皆さんも手伝って下さり、十一時四十分頃電車に乗る時にも、皆さんで送って下さる。元気で帰途に就いた。午後庭山さんの奥様が診療を受けにいらしたので、暫らくお話した。夕方東京からと静岡からと速達二通来る。入浴夕食の後コーヒーをのんだりした。

九月八日 土 曇

歯医者へゆき洗濯をし、じゅばんを仕上げ、午後はおむつカバーをしあげ、たき木の整理をした。大分用事がかたづいたので嬉しい。松原部落の合同葬があって三十八名だった由。緑井中では二百名ぐらゐになるだろうか。上里さんもかへり、お手伝ひに若い男の人が一人、又支廠の人が二人来てくれてゐるので、私も薬局の方を手伝はなくてよい様になった。この機会に赤ちゃんの仕度でも、どんどんしておかうと思ふ。手も昨日ぐらゐから大変よくなった。一年前の今日は、点呼のために広島へ京都から帰った日。一年間の相違を考へると、全く感慨無量。

九月九日 日 雨

又雨で洗濯も出来ないので、ガーゼ切りやら、診療着の修理やら、何時おかへりになってもよい様に下着類の修理やらをした。おやつにおさつをいただいたのが、とても美味しくて何だか勿体ない様だった。一向近頃お便りがないけれど、どうしていらっしゃるだろう。もう休戦以来一ヶ月に近いし、爆撃からは一月以上になるのに、一通も来ないとは心配である。やはり残務整理等でお忙しいのかしれないが、御元気ならいいけれど、余り長く来ないので近頃は、何かにつけて心配でたまらない。早く御帰りになるか、それともお便りだけでも来るといいと、毎日待ってゐるのに遂に今日も来なかった。御元気なお顔を一日も早くみたいものである。

九月十日 月 晴

病院の休診日。お父様は御出かけになり、随分久しぶりで、待合室や診療場が閑散としてゐる。看護婦さんたちもけふは一日ゆっくり休養出来ただらう。朝、沢山洗濯をすませ、朝食後は掃除をし、それから産着を赤い方を縫ひはじめた。庭も掃除。午後は産着を袖を縫ってから、お風呂たき雑布がけ。夜も産着を縫った。

九月十一日 火 曇後雨

朝洗濯をすませ朝食、それから歯医者へ行って役場等にも寄り、帰って産着を縫っていると、八木のおば様と宮島の春子さんがおいでになった。午後随分雨が激しく降った。堀場へお使ひに行ったりして帰って台所のお手伝い、夜、おば様方がお泊りになったので皆集って話した。今日もまだお便りも来ず。此の日記帳を終るまでに、お帰りになるかと思っていたのに、駄目らしい。連合国軍は続々進駐して来るし、戦争責任者は捕へられるといふし、食糧は益々欠乏して来るといふ話だし、戦災者は続々死んでゆくし、寄れば悪い話ばかりで全く嫌になる。早く帰って下さらないと頼りなくて、又気が変になりそうだ。

九月十二日 水 曇時々晴

去年の今日は点呼の日、そして十二日の記念日、今日もお手紙も来ず。お裁縫をしながら、電車のつくたびに、まだかまだかと眺めるのにまだ御かへりにならない。早く早くと日に日に思ひがつのる。御元気でさへあればいいけれど、一ヶ月も音信がないのでは全く気にかかる。早くお元気な顔がみたい。殆ど毎晩夢には見るけれど、現実でなければつまらない。今日は産着をしあげて、それからおむつカバーを縫ひにかかった。

九月十三日 木 雨

よく降る雨で、夜は又強風となってガタガタと鳴る音と、空襲でガラスを破られた窓から吹きこむ風の凄さに、安眠を妨げられる程だった。朝から薬局を手伝ひ、午後はおむつカバーを縫った。お昼頃から足のつけ根が心経痛でとても痛くて、歩くのにも立上るにも不自由で困った。それはまだよいが、お父様が久しぶりに診療して頂いたら、逆児とのこと、そして大へん小さいさうだ。もう七ヶ月の半ばなのに六ヶ月の終頃の大きさだとおっしゃるので、発育が悪いのではないかと心配である。それに位置の異状は又自然に直る事もあり、簡単に直せるのだから、心配ないと言うものの然し矢張り心配である。それにつけても早く帰って下さればいいのに。本当に此の頃心細さがつのって何かに頼りたい、何かによりかかるものがほしい気持ちで一杯である。東京からと、木島夫人からと葉書が来たのに、相不変九州からは来ないし。今晩、八木のをば様や浩三さんをお呼びになって、ビールですき焼をなさった。浩三さんがいい気持ちで一ねむりしてお起きになった時の声が、余りにそっくりだったので、何だか急に又、思い出されて仕方がなかった。

九月十四日 金 雨

今日も一日雨降り、お父様からお頼まれの手術用のおほひを喜久子さんがお縫ひになるのを手伝ひ、三十九枚夜仕上がる。又手術帽子を裁ち、おむつカバー三枚を仕上げ、枕を三枚縫った。足もまだ痛いので、主にお裁縫ばかりしたため大分捗った。今日お兄様からお葉書で、二十日過には御帰りになれるだろうとのこと。次雄君も略々その頃かという事だった。是で、やっと少し見透しがついたものの、御本人から一度も何とも言って下さらないとは、一体どうしたことだろう。

九月十五日 土 曇

手術帽子を四つ縫ひ、おほひに番号を書き、通院証明書を刷り、薬局を手伝ひ、おむつカバーのボタンかがりをし、これで一日暮れた。大分捗ったのは嬉しかった。

九月十六日 日 曇後雨

朝のうちは、お庭を掃いたり、玄関を掃除したりし、それから枕のそばがらを乾したら、お昼ごろから雨になってしまった。午後鼻緒を三足分作り、一足八木のをば様へ差上げた。夕方雑布がけをし、入浴洗髪。夕食後は浩三さん、節子さん、堀場のお姉様もいらしたので、皆でいろいろ話して十二時すぎ就寝。けふも遂に御便りなく、一体いつになったら御様子がわかるのか、本当に心配になって来た。速達を出してからでも、十日になるのだから、もう何か御返事が来てもよい頃と思ふ。此の分では鶴のやうに首が長くなりさう。

九月十七日 月 雨

昨日から降り続いた雨が一日激しく降り、台風と一緒になって嵐となったが、夕方からいよいよ洪水になるかもしれないとの予想がだんだん大きくなった。その嵐の最中に古市橋の沖田さんから電話がかかり、海田へ憲兵隊編成要員として行かれたから、来月十日頃まで解除にならないが、二三日中に一寸休暇で帰られるかもしれない。荷物は私が預って古市橋へ降したから、取りに来るやうとの事。その中に、又川内の出身といふ兵隊が立寄り、今日帰られるでせうとの事に、終電車まで待ったが遂におかへりにならず。私だけ一人嵐の音をきき乍ら、電燈も消えた暗の中でまつ中に、いよいよ堤防が切れさうだとの警報。それで、皆さんを起して水あげにかかったが、間もなく堤防は切れ、どんどん水が来はじめ土間へ入り、縁側を越し遂に床上三尺以上にも達した。二時ごろ漸く少しひき初めたので、三時ごろから、おくらや、二階等で夜を明かした。

九月十八日 火 晴

昨夜の大水でどうなさったかと随分心配したら、十時半頃、汽車が不通の為海田市から徒歩でおかへりになった。五ヶ月ぶりでお元気なお顔をとうとう見る事が出来て、何ともいえず嬉しかった。本当に御無事でよかった。ただ大水が出たりして、忙しい時にお帰りになるとは残念だった。水のあとかたづけがこれから大変である。けふも一日たたみを乾すやら、泥を取るやら、大さわぎだった。堀場、藤井の皆さんも二階がないので此方へ来ていらっしゃるので、三十何人の大家族で実に大混雑である。此の日記帳が終るまでにお帰りになるやうにとの、祈りがかなへられて、最後の日に、お元気なお顔をみることが出来たのは何よりうれしい。お留守の間のいろいろな事が二冊の日記帳から懐しく懐しく思い出される。
  

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