広島師団司令部の報道班員であった私は、あの日、司令部の命令で、高田郡の吉田へ出張していたが、広島空襲の報にとって返し、太田川の岸伝いに大芝土手にたどりついたのは、原子爆弾の炸裂後4時間もたっていたであろうか。
ボウボウの髪、ふくれあがった顔、めくれて垂れさがった皮膚、全裸・半裸の姿、この世とは思えない惨状である。路傍には、火傷で手も足も顔も脹れあがった人々がうずくまっている。「水、水、水をください。」と、うめいている人もあるが、多くは声もなく動きもない。すでに死んでいる人もあるようである。
郊外へ郊外へとのがれていく避難者をかき分けるようにして、私は市内に入っていった。ようやく基町にたどりついたが、陸軍病院や輜重隊はどこへいったのだろう跡形もない。広島城の天守閣も消えて無くなっている。傍の溝の中には、白衣や褌のままの兵士が、頭を突っこんで死んでいる。溝の黒い水を求めて、腹這いでやっとたどりついて、そのままこと切れたのであろう。
ふと、われにかえった私に、傷ついた無残な格好の兵士たちが、あちらこちらから寄って来た。まともに歩けない人たちばかりである。私がまともな服装で負傷もしていないのをみて、救助を求めに来るのであった。
「いまに衛生兵が来る。今しばらく辛抱してください。」
どうすることもできないで、そう叫ぶ私の声はうつろであった。
報道班の私は、このとき肩にカメラ(コンタックス)をさげていたが、どうしてもシャッターを切る気になれなかった。
翌7日になって、この未曽有の被害状況を後世に残さねばならないと、ようやく決意し、廃墟の町々をフィルムのある限り写しつづけた(第一巻グラビア写真、その他)。
出典 広島市役所編 『広島原爆戦災誌 第五巻 資料編』 広島市役所 1971年 988~989頁
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