物心着いた頃、毎日の様に出征する人を家族、隣組の人達と「バンザイバンザイ」と見送りました。私は大きくなったら兵隊さんのお嫁さんになるんだと思ってました。国民学校では空襲警報の度に息をひそめ、防空壕で過す事が多かったです。
五十年前の八月六日当時、広島駅の裏側(瀬戸内高校)近所に住んでおりました。(両親、姉、二人の弟と私)家族六人被爆者です。
父親は教師でしたので、中学生を引率し比治山辺りに建物疎開に行き数名の死者を出した責任、軍国教育を民主教育に変える終戦後の生活に心痛しておりました。
当時、第一県女一年生の姉も、あの朝元気よく「いって来ます」と(土橋の建物疎開)出て行ったきり、どこで亡なったのか今だに何も解りません。両親は市内を初め廿日市、大野、古市から可部、海田、どこかに収容されてると、因島、江田島と毎日さがしておりました。その後、両親も亡なりました。
自宅にいた私は飛行機の爆音を聞き(その時、空襲警報でなかった)二人の弟と外に出ました。
真青な空に三機の飛行機、キラキラと見え弟はバンザイバンザイと手をふっておりました。その時「ピカー」と光り地面に横倒しになりました。次に目にうったのは、自宅のカベが落ち柱が「く」の字にまがり、中から母が頭から血を流しながら出て来るのが見え、私の家に焼夷弾が投下されたと思いました。弟は腕や足がみるみるやけどでひぶくれ、泣きさけんでいました。頭髪は逆立ち衣服ははがれ、性別が解らない程火ぶくれてる人達と山のふもとに避難しました。私は嘔吐がはげしく苦しかった事は忘れてません。その夜ゴーと市内が大火で空が真赤になりこわかった。その後、夕やけを見ると、その時の事を思い出し、何も考えられなく家の中に入ります。私の心の中に悲しい、暗い、重たい形のない物が今だに残ってます。
東練兵場で沢山の死体を焼いたり、雨が降った日はリンが燃えてたり、死体と一諸に過したり、歯ぐきから出血し頭髪がぬけ、国民学校には一日も出席出来ませんでした。
もう二度と同じ事をくり返さない環境を作って行かなければとペンを走らせました。
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