当時机に向った体に間接的な尖光を感じながらも兵器の設計に余念がなかった。ところがつぎの瞬間鉛筆を持った手が浮き上るような衝動を受け、近くに何か大事が起ったのであろうと云う悪い事態を予想していた。
当時私は爆心地から20キロメートル離れた吉浦(呉市吉浦町)の呉海軍工廠火工部設計係において室内で作業をしていた。状況から判断して到底爆弾位のものではなく広島市近郊で火薬庫の誘爆だろうと云う見方が強かった。数分後もくもくと上るきらびやかなキノコ雲に数枚のシャッターを切った。
吉浦の近くでないことは事実で当時の忙しい戦時作業であるのでその儘意に介せず就業していたが、午後5時頃になって負傷者が続々と帰ってきた。吉浦駅で衣服の引き裂けた血のにじんだ服装で、血の気の失せた人々が何を考えるともなくホームを歩いていた姿を見て、只事ではないと直感した。しかしまだ原子爆弾と云うことは判らなかった。
海田まで帰って広島市が大変だと云うことを知ったがどうすることも出来なかった。翌朝(8月7日)出勤し広島市に海軍工廠として特に火工兵器を扱っている経験者として救援隊を出すことになり、トラック3台に工員が分乗して広島市に向う一員に加えてもらった。今思えば的場町で単身トラックを下りたと思う。ガラス工場か? 瓶の破片が溶岩が流れたように溶けて夏の陽光に輝いていたのが印象的だった。それから焼くすぶる市内を広島駅方面に歩いて大須賀踏切から二葉の里に出たが東照宮の石鳥井が跡かたもなく吹飛んでおり、大きな松の木も焼け果てゝ幹のみを残している。常盤橋にさしかかった時、川遊びをしていた裸の子供等が泉庭の裏の川辺に散在して斃れており、此処等からは被爆その儘の姿がまだ片付けてなかった。橋上では素足で歩いている婦人に靴下をくれと云われた声がまだ耳に残っているようだ。それから常盤橋を渡ってからが大変だった。この常盤橋西詰(白島寄り)附近は市内の中でも当時の凄惨な生地獄の最も典形的なところで焼野ガ原の路上には死体とまだ生のある人間とが折重なって散乱し、中でも兵士であろう軍服が引裂けて赤黒く焼たゞれた背中の皮膚に夏の陽光が照りつけ熱さと苦痛に耐えかねてか隣の同僚の掛けているトタンの切端を覚束ない手付で引寄せて自分の体にかけようとし、また取られまいとして引戻し、おそらくは直射日光で熱くなっているであろう鉄板の切端を遮光のために奪い合う姿、しばし立止まって見ていたがどうしてあげることも出来ず、また死体をまたぐようにして歩き過ぎた。
その時の自分はそれは救援活動ではなかった。帰らない妹の捜索もあったけれども今考えて惨状の事態の意外さにたゞ無意識に歩いたに過ぎなかった。然し直接の被爆者でなかったためか比較的冷静に観察していたと思う
当時路地に数多く設備された防火水槽の中には火傷の激痛に耐えかねてか先を争って飛込んだ様子が見られ、一つの水槽に折重なってはいり、水面に頭や顔を出している。赤く血に染った水槽の水が小刻みに続ける断末魔の鼓動に小波を漂わせている。時折大きく息吹く呼吸が人間の死に到達する一里塚のように思われた。同じ路地に焼け果てた並木がある。直立不動の兵士が立ちかかっている。なにか警備についているのだろうかと思いながら前を通り過ぎ振返って見ると視線が動かない。立った儘の姿で被爆し、その儘硬直して木に寄りかかり倒れないままに息を引取っている。あたかも男のマネキン人形のような目は開いて呼べば答えるような容相である。戸外で火傷もせず放射線で?死んだのであろうか?
また爆発と同時に家から飛出したと思われる15、6才の裸の少年は戸口でうつ伏せに斃れ火傷一つしていない。腕時計が8時15分位で止っている。
具さに見ている内に白島の電停附近に来ていた。バスに乗った人が、その儘被爆し火災に会ったためか皆前向きに座ったままの姿で黒焦げになっている。バスも電車も焼け果てて骨格のみを残している。これから八丁堀方面へ出て行ったが、このあたりからは大分死体も片付けられてあったがキリンビヤホールの前の交さ点に胴がはち切れそうにふくれ上った馬の死体があった。本通りの惨状もものすごかったが下村時計店はコンクリートの建物に大きな亀裂が入って傾いていた。また福屋の裏側に当るところに曲りくねった鉄骨が異様な形で残っていたのが特に印象に残っている。本通りを通り過ぎて電車通りに出た。広島市役所もくすぶって中は皆焼けている。日赤に立寄ったが印象は薄らいでいる。それから宇品方面に南下したが御幸橋のらんかんが一方にたおれている。丁度橋上で知人の内藤さんに出会ったが子供さんを失われたのであろう。毛布を脇の下にかかえ、見付かったらくるんでやるんだ と泣きながら話しておられる。皆知人を探し、肉親を求めて沈痛な面持ちで無意識に歩き廻っている。それから県病院の庭内はまた大変である。大多数の被爆者が集められ外庭に一方に頭を向け、何列にも並べられている。顔や皮膚は焼けたゞれて面影を判別することはできない。肉親を探す人々でごった返している。看護婦が「見てはわかりません、名前を呼んで歩いて下さい、自分なら返事をしますから」とアドバイスしてくれる。多いい中には既にこと切れている人々もいる。身動きも出来ない12、3才位の少女に呼びとめられた。「おじちゃん、水を頂戴」と度々云う。「よしもって来てやる」とは云ったものの匁論水のあるところもわからなかったが当時火傷者が水を飲めばすぐ死ぬと聞かされており、一般的に水を飲ますべきではないと云う観念的なものがあり飲ましてはいけないと云う理性に押されてその儘になった。今にして思えばどうせ長くは生きなかったであろう所も名前も知らない少女ではあったが、水を飲ませてやればよかったと思う。
一日中歩き疲れて探し求めている妹の姿も見当らず、精神の衝動をおさえながら徒歩で十粁の道のりを海田に向って帰途についた。
その後学徒動員で京橋町でミシン縫作業をしていて被爆した妹はスコールの中を学友と牛田方面に逃げ、その家にお世話になって翌日帰って来たが、天井が落ちた時頭に傷をしていた。しかし幸いその後放射能の影響もなく現在元気で暮している。
出典 海田町原爆被害者会編 『原爆體験を語る』 海田町原爆被害者会 1970年 71~73頁
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