本川渡船(C′のSSW2.4㎞)有常正基氏談(気象技術)
着岸間際で西岸に向い腰掛けていた所いきなり水素瓦斯の爆発した中心へ放り込まれたような感がし、淡黄色の白熱の焔で温感があり、ポーンと底力のある音響を伴なっていた。極度に乾燥した感じと絶望感強く起り、船頭の河に飛び込むを見て自分も水中に潜り、精一杯我慢してから浮上がった。この時顔を火傷したなと感じたが大して痛みはなかった。戦斗帽は脱げなかったが眼鏡は無くなっていた。火傷は顔面殊に右側の方(爆心に向いた方)にひどく、首、右手首、右股など、当時衣類はカッターシャツの上に作業服を着ており、下はランニングパンツの上に同様の長ズボンを穿いていた。胴の部分は無事であったが、右足はズボンの皺の形通りの火傷をし、眼鏡の金具の影に当る所は火傷が軽かった。気象台に行く途中畑の棒杭等一部分燃えているのを目撃した。気象台に着き近くの病院に行き亜鉛華軟膏を塗布し貰う。1日くらい打のめされた感深く、2日目から水泡大きくなり、眼腫れ塞がる。3日目より発熱(39度4分)傷より膿(屍臭あり)出始む。肉が滑り落ちる感がした。手当は冷すと共に芋類塗布、油塗布を続けた。食慾あるも唇の火傷ひどく摂取困難を極む。意識は割合明瞭。5日目発汗、6日目より下熱、7日目頃より眼少しは開く10日目助けられて少し歩む。14日目頃顔面乾くも唇耳は猶化膿。1ケ月くらい後より頭痛、倦怠感、白血球数半分(3500)に減少していた。血液注射を行ない、39日目より約1週間輸血(日量30cc)50日目療養打切れるもなお疲れ易し。2ケ月頃ほゞ旧態に復す。
出典 日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編 『原子爆弾災害調査報告書』
気象関係の広島原子爆弾被害調査報告 附録三 体験談聴取録(抄)
日本学術振興会 1953年 132頁
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