母親が昭和二〇年四月に亡くなり、親代りで私より下の弟妹の面倒を見てる時代にあの原爆にやられ家は崩壊。長崎市西山町全体が一瞬にして、瓦礫の山と化したのです。家の中に居た弟、姉はガラスの破片で片身頭から足まで、破片がつきささり血だらけで、お化の様で泣きじくり、二〇才の私もどうし良いのか、本当に全身震えて、気が転倒、必死で看護に励みました。
防空壕の生活も水もれに悩まされそれでも、生きてて良かった感激でした。
爆心地まで出かけ、貸家住人(女性)の方を救護に行き、綺麗な奥さんが、爆風のため、鉄のさびが顔面肌につきささり、真黒な顔で、とても別人かと疑いました。私は母が居ない理由で徴用にかかりませんでしたが、私の女学校の学友は随分多くの生命を亡くしたのです。
あのおそろしい殺人機、原爆二度となき様、平和を祈りたいと思います。
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