原爆投下時にいた場所と状況
広島市白島東中町(旧町名) 木造平家建自宅玄関
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
昭和二十年八月三日高熱劇症肝炎で招集解除帰宅。逓信病院蜂谷院長の好意ある緊急治療で急速回復。五日夜退院。六日朝警報が警戒に切替ったので、病院えと出ようとした途端真向から被爆。頭、顔、両腕火傷、長男(八ヶ月)腕裂傷、火傷、妻(昌子)は当日無疵。急拠逓信病院え、応急手当もソコソコ、着のみ着の儘で逃避行、矢口の知己農家で一週間、次で親戚筋の加藤病院(玖村)え倒れ込んだ。本格的治療後約一年、広島市え仮住いを造り復帰した。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
私は比較的回復が早く、八月末から三井銀行広島支店勤務開始。妻昌子はアメリカ籍。在米の兄、姉から多量の救援物資送付もあり、着のみ着の儘から急速に回復した。
私は或る事績がトップの上聞に達する事があり昭和二十五年二月突如、本店え転勤、爾後東京定住。
好事多魔と謂うが、昌子が被爆後三十年で後遺症発症、東邦大学大橋病院入院。東京逓信病院蜂屋ドクター確認。肝硬変、冠不全、高血圧で、爾後羅病中。奇蹟的存命中。現在主治医鈴木茂ドクター(元東邦大現在独立開業)。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
ジャパンタイムスによれば、当時の原爆投下機エノーラゲイを中心に、来夏スミソニアン博物館で記念展示が計画され、アメリカでは在郷軍人八千人が反対の署名運動をした由であるが、広島市は「八時一五分で停止した腕時計」、「焼けたゞれた弁当箱」、その他展示計画あり。長崎は反対の意向。これはアメリカとしては戦勝記念。我が方が協力とは私は反対。被爆者の苦悩は戦没者の家族の気持を含め、総て同感と思うが如何であろう。 |