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頭髪もなく状袋一枚 
岡田 三郎(おかだ さぶろう) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 中国軍管区大野陸軍病院 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
故 岡田達志の父 岡田三郎

私の長男達志は、広島一中第一学年十一学級生徒で、性質至って温順、どちらかと云えば女性型で、歩むのも多少内股でした。学校の成績も、小学校の時は、いつも一、二番を下がらず、真面目にやっていました。希望は、一中を目ざして、相当の強勉強をやったらしいようです。いつも二階でコツコツと机に向かって勉強していました。幸いにして、一中にパスした時は、本人はもちろん、受持の先生、母親も、非常に喜んでおりました。
 
私は、昭和十九年に、衛生下士官として召集を命ぜられ、大野陸軍病院に入隊しましたので、一中に入学する手続等は、みんな母親や受持の先生が心配して下さったのです。入学合格の時は、非常に嬉しかったと見えて、わざわざ電話で知らしてくれました。私も非常に嬉しく、その晩は、戦友と酒保で祝盃をあげたほどでした。
 
達志は汽車通学でしたので、私は毎朝、通学列車が通過の時は、本部の二階から、それとなしに見送ってやりました。
 
四月から五月になり、六月になり、B29も上空に飛んで来る。新聞によると、小さくはあるが、各所に焼夷弾を落されて相当の被害があるらしいが、皆目判らない。不安ながらも、日々家内安全を祈りつつ軍務に精励していました。
 
嗚呼、忘れも致しません。八月五日が日曜日でしたので、一日外泊許可を受けてわが家に帰り、久し振りに畳の上で、達志と、一中の話や学友の話など、いろいろと話をしました。お前の将来の希望は何かと問いますと、陸士か海兵を志願すると、軍人を希望していました。私の兄が陸軍少将で、工兵学校の校長をしていましたので、叔父さんみたようになると云っておりました。八月五日の夕食もともに兄弟らと面白く愉快に談笑裡にすませて、十時頃寝に就きました。
 
翌朝八月六日は、私も帰隊しなくてはなりませんので、ともに五時少し前に起きまして、達志は五時三十分の通学列車に乗る仕度をして、朝食もともにしました。私は六時に帰隊すればよいので少々間もあることとて門口に見送っていますと、一旦行って参りますといって出て行きましたが、何か忘れ物をしたか、また門口へ帰って来ました。しかし、別に忘れ物をしたのではないらしく、そのまま出て行きました。これが最後の別れとも知らず、笑って別れました。
 
間もなく私も隊へ帰って朝食を取っておりますと、あの恐ろしい原爆のセン光と大音響です。広島と大野は約七里ありますが、被害こそなけれ、相当の恐怖にかられました。東の空を見れば、茸形の煙は空イッパイになり、どんな事態になったのだろうかと心配して電話を掛けてみても、廿日市警察署ぐらいしか通話出来ず、ようよう十時頃、相当の大型爆弾を広島に落されて、被害が大きく、負傷者も多いから救護班を出してくれと云われるので、患者自動車に衛生兵を乗せて救護に向かいました。
 
ところがもう廿日市方面は負傷者で大混雑していました。直ちに己斐駅前に救護所を設置して、負傷者の手当を致しておりましたが、火傷、外傷と次から次と跡をたたず、実に言語に絶する悲惨で、なんともたとえようもない惨害です。
 
私は二、三時間、負傷者の手当をしていましたが、達志が気にかかるので、軍医に許可を得て、途中、火の中をくぐり、一中に行って見ました。すると、校舎は焼け落ちて、一年生が四、五人、プールの中で、「兵隊さん、なんとか助けて下さい」と泣いて頼まれます。肩も焼けただれ、水の中に入れば苦しく、出れば焼けつく熱さで、まったく生地獄でした。私一人ではどうしようにも手のつけようもなく、「兵隊さん、助けて」と泣いて頼む声が、今も耳にこびりついています。
 
一年生の岡田達志を知っていますかと問いますと、十一学級の岡田君は知っていますが、何処へ行かれたか、みんな散りぢりバラバラになったので判りません。あそこに先生がおられますから聞いて下さいと、ある生徒が云われますので、飛んで行って見れば、もう先生は呼吸はなくなっておられました。
 
私は、達志の通学区域が鷹野橋から、西観音、己斐駅までときまっているから、もし、災害等があったら、あの通学区域の線を探せと申していたので、そればかり行ったり来たりしていましたが、とうとう夜になり、火災もますます大きくなり、空しく救護所に帰りました。ところが、ここも負傷者が一町ぐらい列をなし、応急処置を待っていました。私は、達志のことは気にかかりますが、軍律厳しい中で勝手なことも出来ず、もしかしたら見つかりはしないかと、いろいろ気をつけましたが、とうとう見つからず、朝四時に患者を自動車に乗せて病院へ帰りました。
 
家に電話をかけて達志の消息をたずねましたが一向判らず、家内もいろいろ手を尽したが手懸りなく、とうとう八月九日になって、宇品沖の鯛尾の暁部隊の兵舎に収容されていることを、妹が知らせてくれたものですから、早速モーター船で行って見れば、もう死亡して、白木の箱に納められていました。
 
なんたる悲惨なことでしょう。二、三日前まで喜々として愉快に勉強していたものが、死体もなく、一箱の姿になってしまうということは、どうしたことだろう。その死後、遺体は似島にうつしたとのこと、受取に行って見れば、最早、兵士がどこへどうしたやら判らないということで、空しく帰ったような次第。
 
せめて死体でもあればと思いますが、白木の箱の中には暁部隊の状袋一枚、爪もなければ頭髪もなく、泣いても泣き切れません。暁部隊の二階の窓から、郷里の方を眺めて、どんなに帰りたかっただろうか、広島市内が夜になって真赤に火災を起しているのをみて、どんな気がしただろうかと思えば、ひとしお不憫でなりません。七日の昼に淋しく死んで行ったのですが、兵隊に聞けば「チクショウ、チクショウ」と云って非常に残念がって死んで行ったそうです。

出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)一六二~一六五ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 

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