「お母さん、えみちゃんを待っとったら遅刻するけん、先に行ったって言うといてね」八月六日、月曜日の朝の事である。毎朝誘いに来てくれる友達が時間になってもこない。当時私は、広島市内にある女学校三年生。学徒動員で市内にある飛行機部品工場へ通っていた。いつもは「気をつけて」と送り出してくれる母が、今日は休みなさいとひつこく言う。父までが、一日夏休みを貰ったらと母に同調する。学生と言えど夏休み返上の時代であった。学徒動員の歌の一節「国の大事に殉ずるは我ら学徒の面目ぞ」と誇らしく唄ったものである。かといって悲壮感などは無く、毎日友達に逢えるので日々楽しかった。結局、友達も誘いに来なかったので休む事にした。
当時、市街地では空襲による延焼を防ぐため建物疎開をやっていて、A町はB町の廃材を取りに行くようにと割当てになっていた。その日、両親は廃材とりに行く事にしていたが、朝になって母が何となく行きたくないと言い中止したので、父も家にいて庭で薪割りをしている。警戒警報も解除になってホッとした時間だった。朝とは言え夏の陽ざしは強い。私は縁側に座って裸の父の作業を見ていた。その時、強い陽射しの中に、更に何倍か何十倍かの光がパッと光った。私は反射的に空を見上げて驚いた。半円形の光がそのままの形で空いっぱいに広がって行く。一瞬の事だったと思うが、ハッキリと弧をえがいて広がっていった。見た事もない光景に、あらっー、お日様が大きくなっていく・・・???・・・次の瞬間ドーンと叩きつけられた。・・・どれくらいの時間が経ったのか・・・遠くで、母と私の名前を呼ぶ父の声が聞こえてくる。遠くに思えたのは、日頃教えられていたように、両手でしっかりと目と耳を押さえていたせいか。そっと目を開ける。砂ぼこりで良く見えないが、すっと立てたし、怪我もしていないらしい。母の声も聞こえる。家も建っている。が、周囲が明るくなって見ると、天井は抜け床は落ちてしまっていた。
三人とも無事で、ほっとしたものの、たまたま休みで宮島に海水浴に出掛けた兄の事が気になる。暫くすると、服も焼きちぎれ、皮膚も焼けただれた人達がゾロゾロ歩いてくる。
棒切れを杖にして皆黙々と歩いている。私は道端に立ちつくした。夢の中にいるのではないかと思った。兄の姿がみえて我にかえる。血まみれのタオルを手足にまいていた。市電に乗るため広島駅前にいて、長い行列が駅構内まで続いていたので光線を浴びずに済んだとか。市電にすぐ乗れていたら爆心地あたりだったろう。
近くの小学校で治療をしていると言うので行ってみる。もう多くの人が横たわっていて、比較的元気な人達は、ひどい火傷の人に油薬を塗ってあげていた。兄の外傷などは治療して貰えるような状況ではなかった。
家に帰ると、火が回ってくるから近くの山まで避難するといって、近所の人達が集まっていた。避難しないと言う兄に心を残しながら、近所の人達と山に逃げた。山麓の谷間の方には畑があって、さつまいもの蔓が少し伸びていた。今でも道端の畑などで、薩摩芋の蔓を見ると、必ずあの日のことを思い出す。山から見る夜景はいつまでも明るく悲しかった。夜が明けて家に帰った。焼けずにすんだ。応急修理をして住むことになる。
兄は傷も癒えぬ内に毎日会社に出掛けた。焼野原になった工場跡で、毎日毎日、遺体の火葬を手伝ったそうだ。命令とは言え、つらかったのだろう。やっと最近になって話してくれた。
我が家で一人屋外で被爆した父は一年半後亡くなった。病弱の為、動員に行かず学校に残った友達は皆亡くなった。冒頭の私を誘いに来なかった友達も工場に行く途中で亡くなった。母校の慰霊碑に名前が刻まれていて、私に何かを語りかけているような気がする。ただ、工場にいた友達は皆助かったので、私は一日の夏休みをとった罪悪感から、少し救われた思いがした。
誰でもそうであろうが、私は特別に悲しい事、辛い事は嫌いである。楽しい事ばかりを思い出して生きてゆきたい。毎年広島に帰るけれども原爆記念館には一度も行ったことがない。原爆の事も、後世に伝えるべきだと言う思いと、話したくない気持が常に交錯する。
今年は被爆五〇年忌の慰霊祭に初めて参列して来た。植物も生えてこないだろうと言われた大地には、木々も花々も色鮮やかに、道行く人々も生き生きとしている。平和の有難さをしみじみと感じた。
いつの日か、この地球上に、戦争のない世界平和の日が、必ず訪れることを念じながら、半世紀前に十四才の少女が体験し、感じたことを書きとめてみた。
当時 安田高等女学校三年生(現中学三年)
当時の学校所在地 西白島町
学徒動員先の工場は、西区三篠町三丁目高密機械
当時の自宅 仁保町東青崎三丁目
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