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戦争がなくなれば 
大場 孝子(おおば たかこ) 
性別 女性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 東洋製罐(株)(広島市西天満町[現:広島市西区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 安芸高等女学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●当時の生活と思い
昭和二十年、安芸高等女学校四年生となった私は広島市楠木町一丁目に父母と暮らしていました。父は材木の卸の仕事をしていました。また、自宅に近い打越町には祖父母と、いとこの柏木征夫が住んでいました。征夫は当時三歳のかわいらしい子で、祖父母がとてもかわいがっていました。

家から川を隔てた真正面に陸軍病院があり、そこにいる兵隊さんと手旗で連絡をとり、検閲にかからないよう手紙を出してあげることがありました。舟で川を渡り手紙を受け取りに行くのですが、その時手紙と一緒にお菓子ももらっていました。戦争中の数少ない楽しい思い出です。

高等女学校三年の終わり頃から、私は動員学徒として東洋製缶で働き始めました。また、不足している看護婦を補う目的で高等女学校から選ばれて、空襲警報が鳴ると看護の補助をするために避難場所へ向かっていました。
 
●八月六日
八月六日は朝からとてもいい天気でした。その日は西天満町にある東洋製缶で働く日でしたが、なかなか職場に行く気がしませんでした。家を出たり入ったりしていた私に、父が「間に合うのか」と声をかけてきました。私は「間に合うよ」と返事をして、それでもまだ家を離れられず、最後に父が「桃を買って帰るから」と言い、私が「持って帰ってよ」と返事をして家を出ました。それが父との最後の会話となりました。虫の知らせだったのか、その時父に「元気でいてよ」と声をかけ、直後に「何であんなことを言ったのだろうか」と思ったことを覚えています。

職場に着くと警戒警報が鳴ったので、私は看護婦の補助をするため避難場所の三篠国民学校に向かおうとしました。しかしすぐに警報は解除され、避難場所に向かう必要がなくなったため作業場に戻りました。もし、あのまま警報が解除されず三篠国民学校に向かっていたら、私は助かっていなかったでしょう。

作業場に戻って、地下足袋から靴に履き替えようとしたその時、ものすごい光に包まれました。作業場が工場内ということもあり、何かがショートしたのかと思いました。光った方向と逆の出口へ皆が一斉に向かったその時、足元に温かい空気がふわっとやって来て、「なんだか気持ちいいな」と思った途端、体が宙に浮いてひっくり返り気を失いました。

何分後か何時間後か分かりませんが、意識が戻ると真っ暗闇のがれきの中であお向けになっていました。がれきの上で人が駆け回っている気配を感じた私は、その下に人がいることを知らせようと、履いていた地下足袋を脱いで、近くのがれきをたたきました。訓練時に、潜水艦内から助けを求める時は重たい物でたたいて音で知らせろ、と教わっていたからです。工場内だからハンマーなどがありそうですが、真っ暗の中生き埋めとなっており探すことも動くこともできず、履いていた地下足袋を使うしかありませんでした。

私がたたく音が上にいた人に伝わり、「下で音がするぞ」と言う声が聞こえました。「助かった」と思った矢先、「ほっとけ、自分たちが危ない」と別の声がしました。その時の私は外の様子が全くわからなかったので、「あぁ、神も仏も、義理も人情もないものだ」と感じましたが、それでも音を出して助けを求め続けました。再び誰かに気づいてもらえたのですが、やはり「ほっとけ」と聞こえました。しかし、「そう言わずに掘るだけ掘ってみよう」という声がして、ザラザラという音の後、しばらくすると外へと通じる穴があきました。あいた穴からすっと光がさしこみ、同時に下から真っ黒い煙が入れかわりました。それはまるで天岩戸の扉が開いたかのようでした。

光が入り明るくなったことで、周りの状況がわかってきました。「うーん、うーん」と聞こえるうなり声の方を見ると、鉄筋の梁で腕を押さえつけられている人を見つけました。腹や足ががれきに埋もれ、動けなくなっている人もいました。道具がないため鉄筋を切ることもがれきをのけることもできません。彼らは「ノコを持って来てくれ」「手を切ってくれ」「足を切ってくれ」と叫んでいましたが、どうすることもできず、「助けに来てあげるから」と言って私は外へと抜け出ました。
 
●看護・救護
抜け出てみると、周りもがれきだらけでした。幸いにも私は、自分が操作していた大きなドリル盤によりがれきの直撃を受けずに済み、大きなけがはありませんでした。しかし外には大やけどや大けがをした人たちが大勢いました。その中の一人に頭がぱっくりと割れた男性がいましたが、応急処置をする道具がありません。その男性がたまたま持っていた三角巾を使って、大きな傷口が少しでも外気にあたらないように頭に結びつけました。男性は「ありがとう」と言って去っていきましたが、おそらく助からなかったと思います。傷口からは脳が見え、話ができたのが不思議なくらいの大けがでした。

がれきの下にはまだ同級生が埋まっていましたが、救出しようにも道具が何もなかったため、無事だった同級生二人と工場の疎開先であった己斐の山へ向かいました。途中で渡った川の水は真っ黒で、魚が酸欠のためか苦しそうに岸辺でパチャパチャ跳ねていたり、膨れあがった死体がプカプカ浮き上がったりしていました。己斐の工場にいた同級生五、六人と一緒に、倒壊した家から戸板を二枚調達し東洋製缶へ戻ったのですが、がれきは既に焼けていて何もかも無くなっていました。助けに戻ると約束したのに助けられず、情けなかった思いは今でも忘れることができません。
 
●家族の状況
焼け野原となった東洋製缶を後にして、土手沿いを歩き中央橋を渡り、楠木町の自宅に向かいました。しかし楠木町の方は焼けて何もなく、打越町の祖父母の家もやはり崩れていました。中広町を通った時に畑のキュウリが目に入り、「食べたらおいしいだろうな、やけどした人に塗ったらいいだろうな」と思いましたが、他人の物をとる気にはなりませんでした。

何日後かはよく覚えていませんが、母が打越町に来たことで再会でき、家族の様子を聞くことができました。母は自宅で被爆し、崩れた家屋の下敷きになりましたが、大きなけがもやけどもありませんでした。一方父は自宅近くの職場で木材を調べている最中に被爆し、屋外にいたため全身に大やけどを負いました。二人は我が家で所有していた小舟に乗り、父が舟をこぎ、親類のいる安佐郡祇園町(現在の広島市安佐南区と西区)まで逃げました。母を助けたい一心で舟をこいだのでしょう、祇園町までたどり着くと父は息絶えてしまい、手はやけどでずるずるだったそうです。

父が亡くなったと聞いても、私は「そう、死んだの」としか感じませんでした。自分が助けられなかった人たちに対して情けなく、申しわけなく思う気持ちや、これからどうやって生きていくかで頭の中はいっぱいで、寂しいと感じる余裕などありませんでした。ただ、父に助けてもらったと母から聞いた時は、「よかったね」と心から思いました。

祖母はヒヨコのえさになる草を取りに中央橋付近の畑へ行った時に被爆しました。大やけどを負い、避難所のある三滝の山へ逃げましたが、数日の後亡くなりました。被爆後、私は祖母に会えないままでしたが、母が父に助けられ無事だったことをとても喜んでいたそうです。

祖父は日本通運に勤務し、荷物を運んでいる最中に被爆しました。祖父がどこで被爆したのかはわかりませんが、配達用の馬と一緒に被爆し、その馬を連れて帰ってきました。八月六日から四日程たっていたと思います。祖父が帰ってきた時、祖母は既に亡くなっていました。祖母が亡くなったことを祖父に伝えると、「おばあさんは死んだんか、わしも死ぬ」と言い、本当にあくる日に亡くなってしまいました。祖父は首にやけどを負っていただけに見えたのですが、放射線のせいか、祖父と祖母の夫婦の縁なのか、後を追うように死んでいきました。
 
●被爆後の暮らし
近所に住んでいた森田さんと協力して、がれきから持ち寄ったトタンと畳で寝泊まりできる空間を作りました。寝泊まりできると言っても畳は焼けてぼろぼろで、夜になるとトタンの隙間からは星が見えてしまうほど簡素な作りのバラックでした。そこに母や森田さんと住みましたが、狭かったため交替で寝ていました。

防空壕に入れていた食糧が無事だったので、拾ってきた釜や鍋を使っておかゆを作ったり、ヤミ市を利用したりしました。原爆が投下される前は、祇園町や観音町にいる親類から野菜などをもらえていましたが、原爆が投下された後は、放射能を恐れてか分けてもらえなくなってしまいました。

バラックで生活を始めてから数日後、森田さんの娘さんが、いとこの征夫を見つけ連れて帰ってきました。征夫は打越町の家で被爆し、近所の方が祇園町まで連れて逃げてくれたそうです。そのまま祇園町の竹やぶで避難生活をしていたところを偶然見つけ、打越町まで連れて帰ってきてくれたのです。それからは私、母、征夫、森田さん親子の五人でバラック生活を続けました。征夫は被爆の際に崩れた家屋で右眉の上を大きく切っており、その傷痕は今でも残っています。

私自身もがれきを整理した時に足をけがしましたが、征夫やほかの人に比べれば大したけがではありませんでした。薬もないためつばをつけるくらいしか方法がなく、化膿してもそのままにしておくしかありませんでした。それでもけがはいつの間にか治っていましたが、今度はひどい下痢や紫色の斑点に苦しみました。斑点が出ると体がとてもだるく、何十年たった今でも斑点とその時のだるさにしばしば悩まされています。
 
●戦後の生活と今の思い
昭和二十一年春に高等女学校を卒業した私は、その年の五月に見合い結婚をしました。結婚後も、バラックを建て直しながら打越町にそのまま住み続けました。お金も何もない生活で楽ではありませんでしたが、隣組や近所で助け合って生活していたので楽しくもありました。助け合って生活することはとても大切なことです。今はそういうつながりが薄くなっていて、何とかならないものかと思います。

後世に何か残したいという気持ちはあるけれど、果たして残したからといってどうなのだろうとも思います。でも、原爆がどういうものかはやはり後々まで残さなくてはいけません。平和、平和とただ言うだけでなく、戦争反対、原爆反対とも訴えていかなくてはいけないと感じます。戦争がなくなれば原爆もなくなるはずです。

最近は心臓が悪く、また糖尿病も患っているため、通院が欠かせなくなりました。病院の先生や息子からは手術をしなさいと長年言われていますが、ずっと断り続けています。私は原爆に遭って、一瞬で亡くなった人や長く苦しんだ人、そして自分を始め助かった人など様々な人を見てきました。助けてあげると約束したのに、多くの人を助けることができませんでした。そういう経験をしたからなのか、死を怖いと思わないのです。死んだら天国に行くとか、はたまた地獄に落ちるとか言いますが、私はそうは思いません。今笑えれば天国です。体の調子が悪い時もありますが、そんな日でも「大丈夫だ」と思うようにしています。今日一日を大切にしたい、それだけです。 

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