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葉鶏頭 
伊藤 基一(いとう もといち) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2000年 
被爆場所 広島工業専門学校(広島市千田町三丁目[現:広島市中区千田町三丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島工業専門学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
山口市の日赤病院で療養していた昭和二十年八月の下旬、女学校帰りに寄っては面倒をみてくれていた従姉妹の裕子が目を赤くして前日までとはまるで違ったムードを漂わせている。「何があったの?」と聞いても「いや何も…」と答えない。問い詰めると、先生に呼ばれ、「白血球が三分の一になっている、後一週間せいぜい十日と思われる。本人が欲しがる物があったら何を食べさせてもかまわない」と言われたという。「そうかそんなら酒が飲みとうていけんドブでもバクダンでもええから買うてきてくれ」と頼んで一人になると十六年の歳月が走馬灯となって回りはじめた。
 
山畑を管理するため新婚の父母は朝鮮に渡った。宝城という町で私が産まれる。胎内にいる間中母は焼酎を欲しがったという。
 
ヨチヨチ這っては消し炭を拾って噛る癖があってオンドルの焚き口に転げ落ち右手右頭に大火傷を負う。小学一年生の一学期は現地の日本人学校へ通ったが夏休みに一家徳山市北山へ引き揚げ、二学期から今宿小学校で勉強し、二年生の始めからは家が移り富田小学校へ転校した。
 
親達が歌う「国境の町、赤城の子守唄、勝って来るぞと勇ましく、花も嵐も踏み越えて、湖畔の宿」等を聞きながら通学し、世の中は遂に「轟沈轟沈、七ツボタンは桜に碇、月月火水木金金、紀元は二千六百年」の時代となり「真珠湾」の年に徳山中学校へ進学した。
 
はじめは周防富田駅から男女別々の車両の汽車に乗り遊郭の橫の細い道を通って登下校していたが、やがて富田の者は四粁以上の道を歩いて通学ということになった。
 
一年生は背丈の順で三組、担任はコエタゴ。初めて習った堆肥作りは臭いが面白かった。戦死された河野先生やヨボさんと共によく可愛がってもらった。二年は二組漢文の時間に「摂関」とは何かと質問され「摂政関パクー」と答えシマッタ!と思う。三年四組担任はサバーブ、英語は肩身が狭く軍事教練が次第にきつくなる。食糧事情が悪くなり家では芋かカボチャの薄いお粥、安下庄へ暗渠排水溝を掘りに行った時はお昼のオニギリを十四個余り、長穂へ稲刈りに行った時はオヤツのオハギを三十近くも食べた。四年は一組でサメだったが勉強もそこそこに海軍燃料廠へ動員され第四工場でドラム缶ころがしに追い回された。雨の日の僅かな休憩時間数人の友人と倉庫の中で寝ころがって思い思いの歌を唄ったのが懐かしい。塩の湖白く光る…
 
繰り上げ卒業で二十年四月には広島工専へ行く筈だったが動員がそのまま延長され五月に燃料廠空爆七月に市街焼夷弾空襲を受けて七月末、八月一日から授業が始まる広島の学校へ行くため広島駅近くの寮へ入った。

八月六日母が臍繰りで買ってくれたアルマイトの弁当箱に寮でコーリャンとトウモロコシを詰めてもらい路面電車で千田町の学校へ行く。授業が始って間もなく突然、空全体にいや、世界中に電光が走り真ッ青になったと感じたまま失神した。気が付くと倒壊した校舎の下敷きなり梁で下半身を押さえられ身動きが取れない。尾根づたいに逃げていた先輩が見つけてくれ三人程下りてきて梁を持ち上げ助けてくれた。お化けの格好でうろつく人の後についてゆくうち、顔と手が火傷で腫れ上り左目はつぶれてしまう。川のほとりに出た。水が欲しいのと顔と手が痛いので飛び込んだが、足腰がうまく動かずアップアップしていたら見知らぬ人が竹竿を差しのべ「これにつかまれ!」。コンクリートの建物の中に逃げ込んで眠った。熱いので目が覚め見まわすと、机、書類棚などがメラメラと燃えている。諦めかけていたら窓から濡れたドンゴロスが放り込まれた。それにくるまって階段を転げ落ち暁部隊に拾われて宇品港へ。白い油薬を塗られ首に名札をつけられて沖の金輪島の兵舎へ河岸のマグロの如く並べられた。
 
元気のある人は「兵隊さん、水を下さい」「おむすびください」と叫んでいた。声を出すのも億劫なのと恥かしく、うみで両目もつぶれ何も見えないのでじっとしていたら「何か食べられる」と女の人がやさしく声をかけてくれた。うなづくとおにぎりと水を少しづつ口に入れてくれ「頑張るのよ」と励ましてくれた。父は七日朝、己斐から歩いて千田町の学校まで行き見覚えのある弁当箱を拾って比治山、宇品と焼けた市電に泊りながら私を捜し、わからないまゝ十日富田に帰ったら「中井清子さん」から速達ハガキが届いていたそうだ。その人が私を介抱してくれた人―未だに消息が分らない―
 
ソ連の参戦のため、イカダで大竹に転送される。途中グラマン三機の機銃掃射を受ける。隣に寝ていた女の人に機銃弾が当った。「お父さん、お母さん、先立つ不孝をお許し下さい…。一つ軍人は忠節を尽くすを本分とすべし、一つ軍人は礼儀を重んずべし…」と言いながら死んで行った。大竹にようやく父母がたどりつき、担架で山口の日赤に入院したのが終戦の翌々日だった。
 
「割に良いお酒が手に入ったわよ!でもあんまり飲んだらダメよ」、裕子が帰ってきた。毎日ニ、三合飲みつづけた。五日目頃から回復の兆しが見えてきた。先生の言「アルコールが白血球の援軍になったかも?」
 
九月なかば退院。病院の橫庭の葉鶏頭(ハゲイトウ)が紅色づいていた。 

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