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運命の八月六日 
伊藤 宣夫(いとう のぶお) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 j広島市宇品町[現:広島市南区] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 暁第16710部隊 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 昭和十九年六月、県立遠野中学校にも学徒動員が発令となり、私達五年生は大橋の釜石鉱業所へ勤務させられました。その動員中、陸軍船舶特別幹部候補生、当時人間魚雷と称する特攻隊を志願し、昭和二十年二月一日、現市長菊池正さんの実弟菊池正道君と共に、遠野駅頭を歓呼の声に送られて出発し、花巻駅で松田愛之助君と一緒になり、一旦一関駅へ下車、夕刻県下の出征兵士の合同壮行会が盛大に開催されました。これは出征する吾々にとって物凄く士気昂揚となり、その意気たるや天をも突く勢いでした。

二月三日、香川県高松経由で小豆島へ着き、二月十日入隊式が挙行され、同月二十五日広島の陸軍船舶通信補充隊、当時は暗略のため、暁第一六七一〇部隊に転属し、通信の訓練を受けました。その間、広島周辺の宿泊演習もあって、現地の国防婦人会、女子青年団の皆さんから大変なもてなしを受けました。殊に帰隊前夜には演芸会を催してくれ、これもこの世の見納めかと思いながらも、楽しいひとときを過ごした事は、今でも忘れる事は出来ません。

七月三十一日の命令により、八月一日から五日間、宇品町陸軍船舶司令部への派遣命令で、班長以下六名中に私も入り、司令部内の岸壁にある防空壕内に通信器材を設置し、実際の訓練をする事となりました。派遣中に空襲があり敵の艦載機グラマンが胡麻(ごま)を散らかした様に空一杯に襲来し、呉軍港目掛けて焼夷弾攻撃や機銃掃射を浴びせ、街は猫の子一匹通らない灰色と化し、四方から高射砲で応戦するが中々命中せず、たまたま命中するとピンクと紫の煙がパッと上がり、敵機は木っ端微塵となり、ヒラヒラと海中へ落ちて行く光景を見て、戦争をしている実感が沸いたのでした。

八月五日で交替予定でしたが、その夜の命令で六名中三名が残留となり、明日交替で来る三名と共に引き続き訓練する事で、その残留三名のうちに私が入ったのでした。

八月六日早朝に、同期生三名が交替の為千田町の特幹分遣隊から到着。朝食の為宿舎へ行って間もなく、B29飛来の報がラジオで放送になり、警戒警報が発令され、けたたましいサイレンの音が響き渡りました。それから数分後、空襲警報が発令され再度サイレンの音が一段と高く響き渡り、さらに数分後、B29三機が金属音をたてながら一天雲一つない澄みきった青空に一万米以上の高度で飛来してきました。

その頃は時々B29が飛来してくるので余り気にもしませんでしたので、そのまま飛び去って行くんだろうと思っていました。

私は班長以下三名で、防空壕へ避難し入口付近で空を眺めておりました。B29は広島上空より大分市街の方向へ飛び去ったので空襲警報解除となり、警戒警報に切り替えられたので、市民は安堵の胸を撫で下ろし、ドヤドヤと避難した防空壕から路上へ出て参りました。私も壕から出て司令部へ電文を持ち、岸壁の路上を小走りに走っておりました。丁度その時、午前八時十五分十七秒世界史上初めて原子爆弾(当時新型爆弾)が、広島市民三十万人の頭上五八〇メートルで炸裂しました。その瞬間、突然「キラッ!」と稲妻の様な閃光が走り、市民は一斉にアッ!ウオー!という恐ろしい叫び声と罵声をあげ、それが一つの塊となって耳を劈(つんざ)き、続いて大音響と猛烈な爆風が瓦や木片を空高く吹き上げ、木造家屋はガラガラと将棋倒しに倒壊したのです。どうなることかという恐怖と驚きのまま、直ぐ側にあった防空壕へ入りましたが、爆風の為壕はグラグラと揺れ動き、土砂が崩れて来たので入口付近でしゃがんで時を待ちました。

間もなく揺れが止まったので外へ出て見たら、遥か市内中央付近一帯は灰色に包まれ、我が部隊がある中心部の比治山下や、吾々三期生の特幹隊がある千田町も、灰色の煙で全然見えず、一瞬、これは大変な事になったと思ったのでしたが、ふと吾に返り、俺は今、船舶司令部へ電文を持って行く途中だった、と思い、防空壕から飛び出して一目散に走り「伊藤候補生電文を持って参りました」と怒鳴るようにして叫び部屋に入りました。

部屋の中は爆風でガラスの破片が足の踏み場もないほど散乱し、将校達の顔にも突き刺さって、顔中血だらけになって右往左往していました。

間もなく、司令部内のトラック十数台が救援の為、物凄いエンジンの音を立てて出動して行きましたが、一時間余り経って帰ってきたトラックの荷台には、被爆患者が山積みになっていました。全員が血だらけとなり、頭髪はボーボーと突っ立ち上がり、或いは垂れ下がり、衣服はボロボロと断ち切れ、男女の区別もつかず、唯々オロオロと両手を幽霊のように前に垂れ下げ、殆どが素足です。大勢の人たちが救いを求めて来たのですが、どうしたらよいのか突然の事で見当がつかず、こっちも慌てるばかり、仕方なく小魚の乾物に使用している大きな掘っ立て小屋の土間に、筵(むしろ)や毛布を敷いて横臥させるのが精一杯で、受傷した人々は「ウンウン」唸るばかりで、忽ち修羅場と化してしまいました。余りにも一瞬の出来事であり、何の手当ても出来ずにただ励ましの言葉しかなく、次から次へと増える火傷患者に大わらわでした。

市内を見ると、灰色の煙の中から、四方に火の手が上がり始めました。全市が壊滅状態となっても、みんな瀕死の状態であり、誰一人として消火活動どころでありません。火は遠慮容赦なくドンドンも燃え広がっていきました。

その頃、空が一変して晴れから曇りとなり、あたりが薄暗くなって来たかと思ったら、市内の方から大粒の雨がボツボツ降り始め、一時ザアッと俄雨が降って来ました。

間もなくあちこちに晴れ間が見えて小降りとなり、陽がさして雨が止みましたが、先程「キラッ」と閃光が走った市内中央付近の上空に、変な雲が立ち上がりました。最初は余り気にもしませんでしたが、よく見ると雲はムクムクと動き、時間が経つにつれて異様な形となり、やがて大空に「キノコ」の形をした巨大な雲が浮き上がり、それに真夏の太陽が照りつけると、何ともいえぬ美しさでした。後でわかった事ですが、これが原子爆弾投下による原子雲であり、先程降った雨は原爆特有の黒い雨だったのです。

私は患者の合間を見て、班長のもとに帰りました。中村班長は「比治山下の船舶通信隊と千田町の我が特幹隊が心配なので行って来る」と言って出掛けましたが、数時間後に戻り、「四方に火災が発生し、電車や電柱が倒れて電線がズタズタになっており、危険で行けないので引き返して来た」との事でした。

掘っ立て小屋は殆ど火傷した被爆患者で足の踏み場もない位で、「呻く、唸る」状態は全くこの世の生地獄でした。

その夜、「器材を徴収して、直ちに広島駅前の二葉山に急行し、第二総軍との連絡をとるべし」との命令があり、午後九時頃器材を背負って出発。班長以下六名の特幹生が一晩中行きつ戻りつしながら火の海と化した市内を黙々と目的地に向かいました。

あっちでもこっちでも、家がドドンと音をたてて崩れ落ち、その度に火の粉がパアッと立ち、火の中で上半身、或いは下半身が焼けている人、道路にも点々と死体が転がって、時々吹いてくる風に人間が焼ける悪臭や、建物の焼ける熱風など、否応なしに鼻をつんざき、焼け跡からはボボッと青光りしながら異様な燐の臭いが立ち込め、一面惨憺たる光景でした。広島は河川が多く流れ、橋も多いのですが、その橋という橋には火傷を負った市民がいっぱいで、私達が歩いて行くとあちこちから手をのばして、「兵隊さん助けて!」「水!水!水を頂戴」ととりすがられるのですが、励ましの言葉以外どうする事も出来ません。今でもあの残酷な生地獄を忘れる事が出来ません。戦争は罪なき国民を巻き添えにし、一度しかない人生を死に落とし入れ踏み躙ってしまう。その時私の頭脳を、戦争はどんな事があろうとやるべきでない、止めた方がよいとの思いがかすめ、ふと、ふるさと遠野を偲び、親兄弟を思い浮かべたのでした。

全焼した広島駅や、燃え盛る貨車など見ながらやっと目的地の第二総軍司令部に到着しましたが、将校達は頭に負傷し皆包帯をしていました。時刻は午前三時頃と思います。宇品出発以来、色々な障害にあいながら長時間もかかり、やっと着いたのだからどうっと疲れが出てすぐに眠ってしまいましたが、「ハッ」と思ったらすぐに朝。朝の食物はジャガ芋の塩ふりです。その日はまだしも、来る日も来る日も通信任務中、即ち八月十日頃まで毎日このジャガ芋の塩ふりばかりで、ゲップの連発で大変でした。

広島の街は三日三晩燃え続け、私達は任務につきながら眼下にその光景を見ましたが、焼け残った建物は鉄筋コンクリートの外観だけ、街は完全に物寂しい焦土と化したのでした。その間、八月九日、長崎にも同じ新型爆弾が投下されたニュースもありましたが、広島より被害が少ないとの報で、よかったなあと胸を撫でたのでした。

十一日に宇品に戻り、船舶訓練部で被爆患者の看護を命ぜられました。患部に蛆が沸き、殊に耳の中から取り出す小さな蛆は、割り箸の先端を細く削ってそれで取り出すのですが、患部にさわると痛がるし、なかなか大変でした。毎日の様に死者は後を立たぬ状態で、水を欲しがるので飲ませると、次々に死んで行く。軍医からは絶対に水を飲ませるなと指示がありましたが、不寝番で申し送りがあるので、どうしても助からない者には最後の水を与えて息を引き取らせたものでした。

亡くなると一先ず円筒型の塔の、その下部の部屋に取り纏めておき、午後になると付近の倒壊家屋へ鋸を持って行き、手当たり次第柱を切って運搬し、夕方、陽が沈みかかる頃、運んできたそれを積み重ね、遺体を横臥させ油をかけて火を点じて荼毘(だび)に付すのです。毎夕十~十五体はあったと思います。その時間帯、広島市内のあっちからも、こっちからも黒い煙が濛々と立ちました。一晩中かかって遺骨にし、明け方少し仮眠し、やがて遺骨を拾い名札をつけて安置所へ持って行き、引受人を待ちながら、毎日線香を絶やさず拝んでおりました。

八月十五日正午、終戦の「玉音」が放送されましたが、余りにも言葉の意味と声が聞き取り難く、何が何だかわかりませんでしたが、集まった人の中から戦争終結の声も聞かれましたが、大方の人々は、まだまだ戦争は続くので「一層努力せよ」とのお言葉に違いないと判断したものでした。その晩から宇品港には赤々と電灯が灯っても尚且つ敗戦とは誰ぞ知る、全く信じられませんでしたが、翌十六日から米国の飛行機が大きな翼で低空を飛ぶのを見て敗戦の事実を認めざるをえませんでした。
毎日毎日、被爆患者の看護という戦いが続きましたが、八月も末頃になると患者の死亡も少なくなり、また軽度の患者の退院もあったりで、私達も宿舎を近くの学校に移しました。そんな時です。新型爆弾に被災した者の頭髪が抜けるという噂が広まり、新しい恐怖感に襲われた私達は、朝起きるとお互いの頭髪を引っ張り合って発病していないことを確かめ合ったりしました。また歯茎から出血するという後遺症も発病して宿舎中を震えあがらせたのですが、実際、頭髪が抜け落ちたり、歯茎から出血する人もあり、直ちに入院しても数日後には決まって死亡通知が入って来るのでした。

私は幸いそれらも無事に過ぎて、九月八日頃、復員命令が出て、終日荷物を梱包し、夕食後焦土と化した市内をただ黙々と歩いて広島駅に向かい、午後八時半過ぎ、有蓋貨車に乗せられて一関出身の元渡辺見習士官引率のもと、帰途についたのでした。

九月十一日頃、ついに遠野に帰郷。駅には誰もいませんでした。私は支給になった荷物を背負って家路についたのですが、当時の物資不足の中、私の持参した品物はすべて貴重なもので、今の時代からみて特に明記しておきたいと思っています。

戦争ほど人間を不幸にするものはありません。原爆を体験した私にしてみれば、戦争は絶対にしてはならないと思います。私は幸運にも故郷に帰ることが出来ましたが、多くの戦友が傷ついて死んでいくのや、数千数万の人々が、むごたらしく死んでいくのを見て来ました。戦争による不幸や、悲惨な運命をこの目で見つめて来ました。もう戦争はこりごりだというのが私の実感です。これからは平和な世界を作らなければならない…。永久に戦争のない平和な世界の到来を切に念願するものであります。
                                             (広島・宇品町で被爆)
                                             (遠野市在住)

出典 岩手県原爆被爆者団体協議会編 『岩手の被爆者は願う』 岩手県原爆被爆者団体協議会 1995年 pp.91-98
                                                                    
                                                             

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