国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
尊い犠牲の上に 
和泉 典子(いずみ のりこ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 広島女子専門学校(広島市宇品町[現:広島市南区宇品東1丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島女子専門学校 保健科 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
当時十六歳の私は、父・小林易吉、母・キヨノとの三人家族で広島市千田町二丁目に住んでいました。しかし、父は体が弱く、その頃は佐伯郡砂谷村(現在の広島市佐伯区)にある母の実家に疎開していたので、千田町には母と私の二人が暮らしていました。

昭和十六年四月に県立広島第二高等女学校に入学しましたが、学年が上がるにつれて、戦況がだんだん厳しくなり、それぞれの家に防空壕が掘られ、学校でも防空演習といって防空壕への避難やバケツリレーの練習などが行われるようになりました。そして、三年生になる頃には、学校で勉強をすることも少なくなり、勤労奉仕で陸軍の兵器補給廠や被服支廠など軍関係の施設に駆り出されていました。四年生になり、卒業する頃には、皆実町二丁目にある広島地方専売局に行っており、同級生の中には、卒業後そのまま勤める人もいました。

女学校を卒業した私は、昭和二十年四月に広島市宇品町十三丁目にある広島女子専門学校(現在の県立広島大学)保健科に入学しました。広島女子専門学校に入ってからは、きちんと授業があるので毎日学校へ通っていました。
 
●八月六日
その日もいつもと同じように、広島女子専門学校に行っていました。授業は八時三十分に始まりますが、その前にみんなで講堂に集まり朝礼を受けていました。

B29の爆音が聞こえ、「敵機が来た」と思う間もなくピカーッという閃光を感じ、ドーンという大音響を聞きました。先生の「退避」という声を聞き夢中で校庭に飛び出して、いつも訓練で教えられているとおり目と耳を手で押さえてうつ伏せになりました。しばらくして木造の講堂が崩れ落ちましたが、幸い皆屋外に避難した後だったので大けがはなく、私もガラスの破片が突き刺さって左手首を負傷したくらいでした。夢中だったのでよくは覚えていませんが、後に被爆者が収容されたと聞きましたから、すべての建物が崩壊したのではなく一部は残っていたのだと思います。

そのうち、皆が正面玄関の近くにある防空壕に向かって走り出したので、私も後に続きました。一時間ぐらいたった頃でしょうか、先生から帰宅の許可が出たので、近所に住む友人と二人で自宅に向かいました。その途中、服はぼろぼろに焼け、顔はやけどで皮がむけてどす黒くなり、髪がじりじりになった子が無表情のまま歩いてきました。建物疎開に参加した中学生と思いますが、私が「しっかりするのよ」と励ましても黙ってうなずくだけでした。

千田町二丁目辺りの家はすべて潰れており、私の家も同様に崩壊していました。友人の家にも行ってみましたがやはり同じでした。そこで友人とは別れ、再び我が家に戻り母を捜しましたが、そこに母の姿はありません。母の仕立ててくれた大好きなワンピースが道路に落ちていましたが、あまりの状況にぼう然となっていたので、手に取る気にもなりませんでした。学校では、「爆弾が落ちた」とは思いましたが、こんなにひどい状況になっているとは思いもしませんでした。
 
●母を捜し求めて
それからは、母を捜して歩き回りました。御幸橋の辺りを捜し、人に「病院に行ってみなさい」と言われて、千田町一丁目の赤十字病院や女子専門学校の隣にあった陸軍共済病院にも行ってみましたが、母はいません。「死体置き場の方に行ってみなさい」と言われ、病院の死体置き場にも行きましたが、皆髪は焼けて縮れ、顔も黒く焼け焦げ、目も唇も腫れて、人の姿とは思えない状況で、誰が誰だかわかりませんでした。仕方がないので、また御幸橋の辺りに戻り一夜を明かしました。街の中では、熱かったのでしょう、家の前に置いてある防火水槽につかったまま亡くなっている人も大勢いました。夜、市の中心部の方を見るとあちこちから火の手が上がっています。赤々とした火が千田町一丁目から二丁目に向かって延焼するのを見ながら「ああ、我が家の方が焼けているのではないか」と思いました。

翌日、「千田町方面の被爆者はトラックに乗せられて似島に収容された」と耳にし、宇品港から船で渡りましたが、そこにも母はいませんでした。似島では亡くなった人を部屋にポンポン投げ入れたような状態で、死体が山のようになっていました。死体を動かして捜すわけにもいきませんし、皆、服はぼろぼろで顔も腫れあがり、見ただけではとてもわかりませんでした。帰りの船もなくなり、見知らぬ人の家に一晩泊めていただき、翌朝宇品港に帰りました。宇品港に帰ると貼り紙に亡くなった人の名前や負傷者の収容先が書いてあり、それを見て母が金輪島に収容されていることを知った私は、すぐに船で島に渡りました。
金輪島に着くと、大勢の負傷者が兵舎のような場所に何も敷かないまま、隙間なく寝かされていました。皆やけどをして年齢や性別も分からないような状態でしたが、名前のわかる人にはそれぞれ名札のようなものが置いてありました。母は名前を告げることができたのでしょう、その名札を見てやっと母を見つけることができ、思わず涙がこぼれました。母は、家の横の小路を掃除している時に被爆したそうで、衣服を着けていない顔や首、そして両腕をやけどしており、後にケロイドとして残りました。治療といっても医療器具や薬品といったものはなく、やけどをしたところに油を塗るのが精一杯です。私は、兵隊さんのところに行っては油をもらい、何度も母に塗りました。

大勢の負傷者が苦しんでいましたが人手が足りず、私の母のように家族が看護している人はよいのですが、そうでない人は、やけどで赤く焼けただれたところにウジ虫がわくような状態でした。母の近くに寝ている人のウジ虫を割り箸で取ってあげたこともありました。「水をください」と言われても、「水を飲ませてはいけない」と言われていたので、苦しみ、亡くなっていく人をただ見守るだけで、どうしてあげることもできませんでした。

二、三日たった頃に、今度は金輪島が爆撃されるというので佐伯郡大竹町(現在の大竹市)に船で移動しました。途中、突然「敵機襲来」という声がし、「ザザザァー、ザザザァー」と機銃掃射を受けた時は、逃げる場所もなく、船底で震えるだけで生きた心地がしませんでした。今でも大変怖い思い出として記憶に残っています。

大竹に着くと大竹国民学校に運ばれ教室や講堂に分かれて収容されました。当時のことですから食料もあまりなく、母が「梅干しを食べたい」と言うので近所の農家にお願いにいったこともありました。もちろんお金は持っていなかったのですが、快く分けていただきました。その親切とおいしかった梅干しの味は一生忘れることができません。

こうして、母と私は大竹町で玉音放送を聞き、終戦を迎えました。
 
●終戦、そして家族の再会
終戦の翌日、帰ることができる人はそれぞれ帰るようにと言う指示があり、母が動けるぐらいに回復していたので、砂谷村にある母の実家に向かうことにしました。汽車で五日市駅まで行き、そこからはトラックかバスかよく覚えていませんが、木炭車に乗って帰りました。

砂谷村には父が疎開していましたが、それまで無事を知らせることもできなかったので、大変心配していたと思います。親戚の人たちが広島市内を捜しても様子が分からなかったので、父はもう二人とも死んだものだと思っていたそうです。そうしたところに私たち二人が帰ったので、大変驚くとともに皆で夢のような再会を喜び合いました。

その後は、広島市の様子が分からないのでそのまま砂谷村で暮らし、母や親戚の人に手伝ってもらいながら、荒地を開墾してさつまいもなどを作っていました。
 
●戦後の生活
そうした中、十一月になって、学校から授業の再開を知らせるとともに復学をすすめる手紙が届きました。その手紙を受け取り、私はもう一度広島女子専門学校に通うことに決め、仁保町丹那にある寮から通学しました。昭和二十三年三月に卒業した後、砂谷村の中学校に勤務する話があり、両親も近くの方がいいというので、結婚までの六年間勤務しました。

私は幸い爆心地の近くに入っていないためか、後障害はなく健康に過ごすことができました。五十歳ぐらいから気管支ぜんそくを患っていますので、「これは被爆の影響かな」と思っているぐらいです。
 
●平和への思い
被爆の時、もし私が通学前であれば家屋の下敷きになり、そのまま焼死していたかもしれないと思うと、今現在、生かされていることを幸いと思います。

私の卒業した県立広島第二高等女学校の三学年下では、一クラス四十人が学徒動員で雑魚場町の建物疎開の作業中に被爆し、一人を除いて全員がなくなったと聞いています。生き残った一人の方の体験記には、変わりはてた姿になった友人や逃げ惑う人々、一瞬のうちに変貌した街並みなどの様子が書かれており、それを読んだ時には後輩たちの悲惨な運命に悲しみが込み上げてきました。夫の両親や妹も原爆で亡くなっていますし、私の友人にもたくさん亡くなった人がいます。そうした人たちの生きたかったという気持ちが様々な体験記にも残っています。

また、あの当時は、私と同世代の男性が特攻隊に行き、飛行機や魚雷に乗って大切な命を自らの手で散らせていきました。そのことをテレビで見ると、身につまされてかわいそうで、本当は生きたかっただろうと思います。

今の若い世代に、こうした数多くの尊い犠牲の上に今日の平和があることを知っていただきたいと思いますし、戦争や原爆という悲惨な事実を忘れずに長く後世に語り伝えていき、人類が再び過ちを繰り返さないことを、そして再びあのような戦争を起こすことがないよう願っています。
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針