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平和の大切さ 
岡田 光子(おかだ みつこ) 
性別 女性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2012年 
被爆場所 三宅製針(株)(広島市上天満町[現:広島市西区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島女子高等師範学校附属山中高等女学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
昭和二十年当時、私は両親と三人の妹と一緒に佐伯郡大野村(現在の廿日市市)に住んでいました。父は藤崎建設という会社を経営し、母は家でまだ幼い妹たちの面倒をみていました。兄は出兵中のため自宅にいませんでした。私は十四歳で、広島市千田町二丁目にある山中高等女学校に通っていました。

入学当初は戦争の影響も少なく、普通の学生生活を送っていました。しかし一年生の途中から、「英語」は敵国語という理由で時間割表から消え、英語の先生も辞められました。軍隊式の体操や行進などを行う「教練」の授業が加わり、山中高等女学校では体育教官が軍服を着て指導していました。

さらに戦争が激しくなると労働力不足を補うために、「学徒動員」により、軍需工場などでの作業が始まり授業はほとんどなくなりました。私は、農家の手伝いや戦地から被服廠に届くほころびた軍服の修繕をしたり、三菱重工業の構内の病院の受付業務など、作業に従事する日々を送っていました。好きだった数学の授業もなくなり、勉強はほとんどしていません。
 
●昭和二十年八月六日
その日は、西天満町にあった三宅製針という工場に動員されていました。一学級約四十名を二班に分け、交替で工場の敷地内に防空壕を掘る作業を行っていました。私の班は工場内で待機していましたが、交替の号令がかかったので同じ班の数名が外に出て行きました。私は少し遅れてしまい鉢巻きをしようと手に持った瞬間、突然周囲は真っ暗になり、暗闇の中に閉じ込められてしまいました。何が起こったのかまったくわかりません。下駄が片方脱げていたので手探りで探し、とにかく脱出しようと窓や出口の位置を思い出しながら動いていたのですが、先ほどまで自分がいたはずの場所とはまったく様子が変わっていました。何とか外へ出るとそこは瓦が敷き詰められた屋根の上でした。工場は二階建てで先程まで一階にいたのに不思議に思いましたが、その時ようやく倒壊した工場の下敷きになっていたことに気づきました。

周囲は真っ暗で、何が起こったのかわからないまま座りこんでいると、近隣に住んでいた朝鮮半島から来た方の「アイゴー、アイゴー」と泣き叫ぶ声や、ガヤガヤと人々が動き出す気配がし始めました。だんだん明るくなってうっすらと浮かんでくるように同級生の姿が見えたので、「敵機にやられたんじゃね」と声をかけました。空から敵機がまいたビラか、爆発で舞い上がった紙片かわかりませんが、白いものがちらちらと落ちてきました。屋根から歩いて地上に降りると、周囲から火が出始めました。我に返った私はとにかく逃げなければと思い、同級生のシミズさんや他の友達と一緒に、倒れているヨコタさんの両脇を抱え、その時はもうあちらこちらから火の手が上がり、近くを流れる福島川を目指しました。朝だというのに辺りはなぜかまだ暗く、どちらに行けばよいかわかりません。勘を頼りに走っていると周囲の家屋がごうごうと炎を上げて燃え始め、その炎の明かりで方向を見定めるような状態でした。後ろからも横からも炎が迫ってくる中、負傷した友達を引きずりながら必死に川まで走って逃げ、そのまま水中へ飛び込みました。

私自身も全身真っ黒で、右足のモンペが焼け落ちてケロイドが残るほどのやけどを負っていたのですが、その時は痛みも感じず夢中で逃げました。

川まで逃げた私たちは、けがをしているヨコタさんを浮かんでいる舟につかまらせ、しばらく川の中で過ごしました。水中を漂いながら見上げると両岸とも一面火の海となっていました。たくさんの人が炎を逃れて川に避難していました。そのうち潮が引いてきたので、流れてきた布団をかぶって川床に身を寄せ、ずっと夕方までそこにうずくまっていました。

夕方頃、「潮が満ちてくるから岸に上がり、己斐の救護所へ行きなさい」とメガホンで叫ぶ声が聞こえてきました。流れ着いた雨戸を担架にして、ヨコタさんを岸まで運びましたがそれ以上どうすることもできず、彼女の自宅は近くの八丁堀にあったので、家族が迎えに来るのをその場で待つように言いました。その後捜しに来たお兄さんと会われたそうです。

一緒に逃げた他の友人たちとはそれきり会うことはなく、シミズさんも亡くなったと聞いています。

己斐に着くと、偶然にも大野村から救援に来ていた警防団に出会いました。その中に近所の方がいましたので、私は思わず「藤崎円三の娘です。連れて帰ってもらえませんか」と話しかけました。警防団の方は突然のことに驚いた様子でしたが、大野村へ向かうトラックに乗せてもらうことができました。
 
●被爆後の生活
トラックが大野村に着いたのは深夜十一時くらいでした。私は臨時救護所になっていた大野西国民学校に担架で運ばれ、やけどした足の手当をしてもらいそのまま一晩過ごしました。学校では次々と収容された被爆者が講堂を埋め尽くし、入りきらない被爆者は教室へと移されました。亡くなる人が続出したため遺品を残して、遺体はすぐに火葬場へ運ばれました。まだ終戦を迎えておらず、上空には米軍機が飛んできていました。

翌日帰宅しようとすると、当時、被爆者の体から「毒ガス」が出るといううわさが流れていたため、収容先から出ることが許されませんでした。しかし、ちょうど親戚宅で付添いをしていた看護婦に同伴してもらうということで、帰宅の許可が下りました。当時の混乱状況を考えれば、看護婦に付き添ってもらえたのは、大変ありがたいことでした。その方は、爆心地の島病院に勤務する看護婦でしたが、退院した親戚の人に付き添って大野村に来ていたため命拾いされていました。

自宅に戻ると、心配していた家族は安堵の涙を流し、再会を喜びました。驚いたことに、父は、私を捜すため被爆後すぐに広島に入り、福島川の周囲で私の名前を呼びながら捜して歩いていたと言うのです。避難している別の学校の生徒に聞いたり、布団をかぶっている人をのぞき込んで捜したけれども、見当たらないので、学校が指定していた芸備線沿線の避難場所まで足を伸ばして捜したそうです。父が晩年がんを患ったのは、私を捜して被爆直後の広島市内を歩いたせいではないかと思うことがあります。

自宅へ戻ってからも、私の体調は悪化の一途で寝たきりの状態でした。九月に入って、京都帝国大学医学部の原子爆弾災害調査研究班が大野陸軍病院(現在の廿日市市宮浜温泉)にいると聞き、看護婦に連れていってもらいました。医師から「白血球数が激減しているため、回復は無理かもしれない」と言われました。多くの人々が亡くなっていく様子を見ていた私は、自分もやっぱりだめなのかという思いがよぎりました。

その後もしばらく体調が悪い日が続きました。冬になり学校が再開したと知りましたが、休学するか悩みました。しかし、回復の兆しもあり、長く休むことも嫌で学校へ戻ることにしました。
 
●学校の再開
被爆により壊滅した山中高等女学校は、しばらく豊田郡安浦町の旧海兵団兵舎を仮校舎としていました。ほとんどの生徒は敷地内の寮で共同生活をしていました。しかし、物資は不足し食糧事情も悪く、まだ授業が行える状態ではなかったと記憶しています。同級生たちと顔を合わせても、被爆について語ることはありませんでした。被爆していない転校生もいましたし、当時の風潮として被爆者だとわかると結婚に支障が出るとも言われていました。私も母から被爆者であることを口にしてはいけないと聞かされていました。

その後私は、県立広島第一高等女学校に転校しました。被爆により全焼した同校は、焼失を逃れた広島市出汐町の旧被服廠に移転していました。現在は廃線となっていますが、宇品線を利用して通学していました。焼け野原となった広島市中心部から移転した県庁や他の学校が同じ地区で再開され、多くの人が通勤、通学のためこの電車を利用していました。今のようなちゃんとした車両ではなく、家畜を運ぶような無蓋貨車でしたが、毎朝満員で学生が鈴なりになって乗車していました。
 
●被爆の影響
学校を卒業した私は、洋裁学校へ通い始めました。その頃、昭和二十年九月に広島を襲った枕崎台風による被害状況の視察が行われていました。大野村では、大規模な山津波が発生し、私が治療を受けた大野陸軍病院も流されていました。被爆で療養していた入院患者をはじめ、病院に拠点を置いていた京都帝国大学医学部の原爆調査班員など、多くの犠牲者が出ました。被害があまりに甚大なため、林野庁が復旧を進めることになりました。

建設会社を営んでいた父は、林野庁の一員として復旧作業に従事していた主人と仕事を通じて親しくなっていました。それが縁で主人を紹介され結婚しました。被爆をしたことを口外しないように言っていた母でしたが、「(娘は)被爆者であるため長く生きないかもしれないし、子どももできないかもしれませんが、それでもいいですか」と結婚前に話があったと、主人から聞きました。

母の心配の通り、結婚後の体調も思わしくなく、白血球の数値も正常値には戻っていませんでした。現在のような被爆者への援護も行われず、医療費も随分かさみました。子宝に恵まれましたが、体調が優れないため、長女は姉に預けることが多かったです。次女の出産の際も体調が万全でないため、医師から止められましたが、二人目の子どもを望んでいた主人の思いもあり、産む決心をしました。次女は出産後すぐに医師のところに運ばれ、あまり元気でなかったと記憶しています。しかし、子どもたちは幼い頃からしっかりしていましたし、今では産んでよかったと思っています。
 
●次世代へ伝えたいこと
これまで私は、母に教えられた通り、被爆したことを隠してきました。子どもが足に残るケロイドを見て何か尋ねても、何も話しませんでした。しかし、話す機会があるならば、体験を残した方がよいのではないかと思うようになり、初めて当時のことを振り返りました。

思い返せば、当時の日本は、戦争へと突き進む時代の波に飲まれ、個人の自由はどんどん奪われていきました。普通の生活をすることが困難でした。希望を持って入学した女学校でしたが、作業ばかりが優先され、勉強できなかったことが今でも心残りです。楽しいはずの青春時代を全て戦争にささげてしまったことを思うと、そんな時代に生まれた巡りあわせを不幸に思います。

先日、東日本大震災で発生した津波が街を襲う様子をニュースで見ましたが、覆いかぶさってくるような津波とあの時の炎が重なり、当時の記憶が思わずよみがえりました。火と水の違いはありますが、生命の危機を感じたあの恐怖は忘れることはできません。

今後、若い世代がそのような時流の犠牲になることがないよう、平和であることが大切だと思います。

原爆について言えば、一旦被爆すれば人体にはずっと影響が残ります。私の母が心配していたように、結婚や出産などの人生の節目に影を落とします。そのようなものは作るべきではないと思います。

次世代を生きる人々には、平和に元気で生活できることが本当に大切であることを伝えたいと思います。 

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