その日私は、三菱長崎造船所の事務をして居りました。突然窓の外が真赤になり、何事か?と立ち上った瞬間、轟音と異臭と粉塵が立ち込め、あわてゝ机の下にもぐり込みましたが、息が詰まり、もうこれで死ぬのかな、と思いました。
しばらくして静かになったので、あたりを見廻しますと机の上の物は皆吹き飛んで何もありません。大事な極秘書類も影も形もなく、私は真青になりました。上司が、かまわないから逃げるようにと云って下さり、近くの横穴壕へ避難しました。このビルは先日の空襲で窓ガラスは殆んど無くなっていましたが、少し残ったガラスのそばの人は血を流していました。
夕方近く女子は早く帰るように云はれ、船で対岸に渡り、電車が無いので歩いて帰りましたが、時々敵機が低空飛行で機銃掃射をするので、こわくて軒下を走って帰りました。
家に帰って見ると、戸も襖も障子も皆なぎ倒され、障子には火が付いたそうですが、ガラスも食器もコナゴナに割れていましたので、ザクザクと掃いて捨てました。
学徒動員中の下の弟は三菱電機から、無事帰って来ましたが、上の弟は製鋼所から帰って来ませんでした。
爆心地の浦上あたりから燃え広がった火は赫々と夜空を焦がし、翌日も、翌々日も、燃え続けました。
お隣のおばあさんも、お向かいの小父さんも次々と亡くなり、近くの小学校の校庭で疎開材木を積み重ねて死体を焼きました。チーズの臭いがしました。
今の平和な時代を有難いと思いますが、多くの人々の犠牲の上に成り立った事を忘れてはいけないと思います。 |