昭和二〇年八月六日、午前八時一五分、原爆がこの広島に落された時、満五才、私と弟は幼稚園に行くために準備をしていた。
父は隣室で、母は裏口から外に出ようと戸を開けた、その一瞬であった。「ピカ」と閃光が走り、その後どのようになったのか分らなかった。どれくらい経ってからか、気がついた時、私と弟は壊われた家の柱と柱との間にいたところを母親に助け出された。又、父親も倒れた柱の下敷となり自力では到底抜け出される状態ではなかった。
それから、どの位時間が経ったのか分らないが、母に助け出された父とともに、全員が五〇メートル先にある天満川へと逃げた。途中、道はすでに家屋が全壊し分らない状態であった。又、土手から石段を降りる時、たくさんの人が死んでおり、中には、八寸釘が目に刺り、かすかな声で「水をくれ」と叫んでいた老婆の姿が、五〇年経った今でも鮮明に思い出される。
それから数時間後、両岸は火の海となった。父と母は、流れて来た柱を川岸に立てかけ、その上に同じように流れて来た布団をかけ、水の中につかりながら親子四人は暑さをしのいだ。
それからは、川の水も引き、燃えきった町を通り、原爆が落ちる前に父が建てていた茶臼山へと行った。途中、水の引いた砂浜には、焼けこげた遺体が数多く見られ、その模様は本当に地獄絵のようであった。
それから、数日後、食べるものを求めて、父親と一緒に一面焼野原となった市内へと入っていった。丁度、神戸大震災の跡のような状態で、所々に煙がたち、異様な臭いは今でも忘れることはできない。……
広瀬町には、大きな缶詰工場があった。そこへ父と一緒に行き、上の方は黒くなっていても、下の方は生暖かいままで、ラベルの焼けていない缶詰を探し、カバンに一杯に詰め、引き潮を利用し川を渡って茶臼山に帰ったのを良く覚えている。
その後、段々と食料もなくなり栄養失調寸前に、父と私と弟は父の姉がいる竹原へ、そして母は三原の兄のところへと行った。
それから、数ケ月後、現在の所に町内では、二番目か三番目であったと思うがバラック建ての我が家ができた。それからは、親子四人元気に暮らしていたが、昭和六〇年五月、父を肺がんで亡くした。
その後、家族に原爆による後遺症は見られないが、原爆の恐ろしさは、被爆した人にしか分らないと思う。
今、フランスの核実験が行われているが、即中止を訴えたい。又、現在、語り部として苦労されている方々も高齢となり、段々と後生へ伝える人達が少なくなって行くの心配である。私も幼少の頃の思い出であるが、それなりにお話をするなど、語り部の方たちのお手伝いができればと願っている昨今である。 |