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大洲 英司(おおず えいじ) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1991年 
被爆場所 東練兵場(広島市尾長町[現:広島市東区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第二中学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

四六回目のあの日を迎えた。あの日とは、何がおきた日であったか一日一日記憶が薄れてゆき、ただ単に亡き友の冥福を祈る日として過ごしてしまっている感がする。それはそれとして欠かしてはならない大事な行事ではあるが、多少でも記憶のある内になにがしかの記録を残しておかなければと考える。明日では駄目。今、今すぐにだ。

昭和二〇年、当時神戸に住んでいた。三月頃からであったろうか空襲が激しくなり、B-29が毎夜の如く来襲、焼夷弾により街はみる影もなき有様となっていった。我家にも焼夷弾の傘が落下し屋根を壊されるとゆう被害を受け、次は直撃を受け炎上するのではと戦々恐々空襲警報解除の通報を待つ毎日であった。このような状態に耐えることができず(当時このようなことを言った場合、直ちに非国民として罰せられたであろう)郷里広島に疎開することを決定、五月帰郷することができた。

帰郷後一〇日ほど過ぎた頃であったろうか。神戸より手紙あり、住んでいた家に焼夷弾の固まりが落ち、未だ空家であった為、完全に火のてがまわるまで誰も気がつかず結局周囲一帯全焼したとの報告を受け、あと数ヶ月に迫った自分達の運命も知らず良かった良かったと話し合ったことである。

八月六日、連日の学徒動員はこの日東練兵場の開墾作業に従事することになっていた。転校後、日も浅く友人も多くない私は風邪気味で熱があると言う前田君と雨宮君を誘い広島駅裏の東練兵場集合場所に到着した。

時間ははっきりと覚えていないが集合の合図があり、各組べつに整列、点呼を取りはじめたとき空襲警報が発令された。

我々は、現在新幹線のコンコースの当たりであろうと考えるが、当時機関車の避難壕ができていた中に飛び込んで、平素教えられていた通り両目、両耳を手で押さえ地面に腹ばっていた。

時間の記憶が薄いので、何時何分と言えないのが残念であるが、間もなく警報解除となり再度点呼の為整列したとき飛行機雲を引きながら飛び去って行くB-29は未だ我々の視野にあり、皆一様に去り行く機影を見守っていた。とその時、突然眼前は黄色の光線に包まれ、この世の物とも思われぬ轟音に取り巻かれた。何秒か何分か何時間か、時の感覚は一切なく、気が付いた時には最前の機関車壕の中に突伏していた。

シーンとして何一つ物音がしない。体を起こしてみる。生きている。周囲を見回すと仲間の顔が見える。立ち上がり壕の外に出てみる。何も無い。最前まであった駅舎、民家、すべて倒れている。その内、倒れた家の下から人々がはい出てくる。最前の轟音により耳に異常を来したのか以前物音は何もしない。

ふと、倒れた駅舎民家の上から市内中心部を見る。愕然とした。中心部には街全体を呑み込むような大きな火柱がたち、噴煙が空を被っていたのだ。

先生は、同級生は、だがもう人のことなど考えると言うことは一切無くなり、気がついてみると四人の仲間と共に市街中心部を避け宇品線の軌道上を歩いている自分に気がついた。

自分の家は古江だ。西へ西へと一生懸命考えるのだが街は焼け続けており中心部を横切って帰宅するなどもっての他、海沿いに帰るか山沿いに帰るかしかない結局宇品方面に向けて歩くことにしたものである。

熱い。学生服の両袖から先、手首から先は水ぶくれがどんどん脹らんでくる。痛みは感じないが多分顔にも水ぶくれがひどくなっているのだろうと考える。防火用水に残っている水に手拭いを浸し顔を押さえる。

何処をどう歩いたのか神田神社に出た。臨時救急所ができていたが、火傷や怪我でみるにみかねない有様の人々が救護所の中、境内に足の踏み場もないほど転がって(転がるとしか形容のしようがない)医者も看護婦もその間を飛び回っており、火傷で水ぶくれ程度の我々は相手にして貰う処ではない。

さらに電車道を宇品に向け歩いた。終点の手前の辺で倒れ破壊された家の前に固まっていた人たちに呼び止められた。薬はないがホータイだけでも巻いて上げると言われ、顔、両手にホータイを巻いて貰った。

そのあと、京橋川沿いに御幸橋に向け歩いていると、今度は老夫人に呼び止められ、少し休んでいきなさいと言われた。

当然、休むと言っても家は倒れており土手にご座を敷いただけの物である。しかし、その時になって始めて広島駅から宇品まで四時間も掛けて歩いてきたことに気がついた。また、その老夫人に腹が空いていないかと握り飯をだして貰った時、時間の観念がすっかり無くなっていることに気がつくとゆう有様であった。その時ご馳走になった握り飯の旨かったこと、今でも思い出す。

後日談であるが、母にお礼の為その老夫人宅を訪ねて貰ったが、そのまた何年か過ぎて次兄が結婚して借家した大家さんがその老夫人だったという。人の縁は何処に何があるのか不思議な物を感じた。

老夫人の家を辞し、さらに御幸橋に向け歩いていた時、兵隊さんがお前達の学校の生徒が倒れているので確認してくれといってきた。道端にむしろを掛けられ横たえられた死体は全身焼けただれ身元確認などできるものではなかった。御幸橋を渡り日赤に着いたがこれはもう地獄もかくやと言う有様で我々の治療など受けられる状態ではなかった。

更に歩き続けた。歩いた道は全然覚えていない。何時の間にか学校の校庭に立っている自分に気が付いた。

校舎は崩れみる影もない。そのまま何時もの通学路をたどり我家にたどり着いたのは夕方五時過ぎであったろうか、我家も破損し哀れな状態になっていた。更に、大変なことになった。父が何時になっても帰ってこないのである。

長兄は船に乗り、次兄は航空隊に行き、我家には男は父と私しかいない。一晩まんじりともしないで父の帰りを待つ。朝がきても父は帰ってこない。翌日も過ぎた。母は隣家の小父さんに一緒して貰い父を捜しに市内に出掛けた。父の通勤路をたどり、焼けてまだくすぶっている鉄橋を渡って市内の収容所、病院等を歩いて回ったとのことであった。何日捜し歩いたことであろう。その間私は意気地なく家で寝込んだままであった。

母の父捜しはまだ続いていた。ある日、街で父の友人と会い、その人の口から父の消息が判明した。

父と友人は己斐駅で偶然出会い一緒に市内電車に乗った由であるが、友人は忘れ物を思い出し天満町から引き返した。大洲さんはそのまま電車に乗って行かれたとのことであった。また、父の勤め先三井銀行広島支店(現在の本通りアンデルセン)には当直の行員さんと用務員さんが地下室に退避し、外傷もなく生存されていた(やはり放射能の為か数ヶ月後になくなったが)この方達から大洲さんはまだ出社されておりませんでしたとの証言を得たことから天満町から銀行の間で被爆したと考えられた。

しかしこの間は母が何回となく捜し歩き、焼け焦げた市内電車の中、死体で埋まった川筋その他、前述の通り病院、収容所、遺体処理場と市内いたる処くまなく捜している。結局父が被災したであろう場所は推定できたが母の命をかけた苦労にもかかわらず遂に遺体の発見は不可能であった。

父は毎日八時三〇分過ぎに自宅を出ていた。早起きの父は出勤までの時間を薪割りや裏庭に作っていた菜園の手入れなどして過ごしていたのに、この日に限り早く家を出ていた。裏庭には鋸のはいった古材がおいたままになっていた。もし、何時も通りの時間に出勤していればと考えると言う言葉もない。現在生存していれば九八才、未だに「ただいま」と言って帰って来る父の姿が見えるような気がする。

一方、自分自身は被災後何日を過ぎた頃であったか、背中一面に疔が三〇数ヶ所吹き出した。左顔面、両手先に受けた火傷のほうは宝塚の航空隊にいた兄が薬を持って帰ってくれたり、暁部隊の軍医さんが薬を持ってきてくれたりと、代えって病院に行っていた人より恵まれていたと考えるが、この疔にはほとほと困り果てた。庭に生えている毒だみを蒸焼にした物を、姉二人が交代で背中にはってくれるのだが、四六時中うつ伏せになっている状態は、でき物の痛さより体の節々の痛さに泣かされてしまった。何日かかったであろうか、背中の疔が完治した。これにより放射能その他体内の毒素が排出されたのであろうか、幸いにして一般に言われる原爆症の症状は出なかった。

しかし、あの広島の街を一回りして自宅に帰りつくまでの間に見た地獄図絵は後世に如何にして伝えればよいのか、とうてい筆舌に尽くせるものではない。

一様に着る物は焼け焦げ、裸の全身は火傷を負い、焼けた皮膚はいく筋にも裂けて体から垂れ下がり、その皮膚のぶら下がっている両手を前に掲げながら、意識があるのかないのか分からないが街の中心部を離れんとして懸命に歩いている人の列、それでもまだ歩ける人はまだ良いほうで、道端に転がった焼け焦げた死体、虫の息の人々々、神田神社の境内、日赤の構内で見た被災者の状態。今考えると、よくあのような中を歩いて帰ってきた物だと考える。

あの状況を再現し、もう一度歩いて帰ってみろと言われた場合、如何なるものであろうか。まず不可能と断言できる。

原爆資料館の人形でさえも気持ちが悪く、まともにみることができぬ有様では周り中、そのような人ばかりの中を歩くことなどできる訳がない。

あまりにも淡々と書いてきてしまったような気がする。しかし戦後の食料不足、インフレ、新円封鎖、等々の中で父を亡くし収入の途絶した生活、なに一つ明るい光りの見えない世の中で、母が自分の着物をもっては近所の農家に行き、米と交換しては我々を育ててくれた。一枚一枚父との思い出のこもった着物。農家に持って行く前、じっと手に持ち見つめていた母。現在ある自分は、帰らぬ父を待ちながら、身を削りながら子供達の為に懸命の戦後の生活戦争を続けてくれたこの母あればこそあるのだと考えると、直接的な原爆の被害と共に、間接的なこのような被害に就いても充分に考えてみなければならないと思う。

戦後四六年、母も八九才の高齢を迎え病床に伏す身となっているが、もしあの原爆投下がなければ、たとえ苦しい戦中、戦後であっても、一家力を合わせ楽しい家庭を維持していたであろうものをと悔やんでも悔やみ切れない気持ちが強くこのような文章になってしまった。

原爆は二度と使用されてはならない。いや戦争は二度と起こされてはいけない。

 

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