原爆投下時にいた場所と状況
広島市小町
鉄筋コンクリートの建物は崩壊しなかったが全焼した。
一号(直接)被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
昭和二十年八月六日午前八時十五分突然何の前触れもなくドーンというすさまじい轟音と同時に私は吹き飛ばされ、気を失ってしまった。はっと気が付いた時さっき迄の真夏の太陽はなく、まるで夕闇になっていた。友と共に避難した小さな河原には全身焼けたゞれた人々の群そして川岸からは衣類を焼けつくされ全裸となった女学生らしい少女達が「お母さん」と叫び乍ら皆々手をとり合い川の中に飛び込んでいった。その姿は今も脳裡から消える事はない。河原から地上に出、救護所にたどりついたものゝ、皮膚をぼろ布の様にぶら下げ顔は火ぶくれとなり糸の様な目で立ちつくす人々の様は忘れ様としても忘れる事は出来ない。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
〇病気=死ぬ迄つき合うのだと思うけどひどい腰痛に悩まされ続けている。
一時は起きる事も出来ず一ヶ月毎日医者の往診を受けていた。
ありとあらゆる手当をしたお蔭で、現在は短時間の歩行は出来る。
〇生活=住居を失い、大黒柱の父の爆死に依りどん底の生活となる。
母の実家(三月十日の空襲で全焼)を頼って上京。姉妹弟と手をつないで必死に生きてきた。
〇心の苦しみ=筆舌につくし難い。ひどい差別視をされた。
NHKの取材で「被爆者と承知の上で結婚してくれたのですか?」と云われたり出産に際 しては、五体満足の子が生まれるか否かを案じ一人出産し、次は生む事を止めてしまった。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
少し体が不自由な為表立った行動は出来ず、自宅で出来る大田区(大友会)の会計を通じ、他の被爆者の方々へのお手伝いが少しでも出来ればと私なりに努力している。
二度と被爆者を作る事のない様、地球上に生活している各国の方々への良識を期待する。フランス、中国の方々核実験を直ちに止めて下さい。
非核三原則を守って平和な地球をみんなの手で守っていかなければならないと思う。 |