私は大阪で生れました。
幼い頃は、わりとおだやかな、楽しい生活を大阪で過していました。
戦争はありました。でも国内は、わりと静かに催物などもあって、隣近所仲好く過ぎて行きました。
そのうちだんだんと日本の国の中も、戦争にまき込まれていく様になりました。
あの第二次世界大戦が始まってからです。
学校へ行きましても勉強はしません。
戦争の訓練ばかりです。食べるものも着る物もありません。
そのうち、大阪市内も敵の飛行機が飛んで来て爆弾やら焼夷弾を落す様になりました。
私は昭和町と云う所に住んでいたのですが、その近辺にも爆弾やら焼夷弾が落ち、近所の人達が死んだり、傷ついたり、家を焼かれたり、朝家を出たら又家族と会えるかどうか落つかない不安な、そんな毎日でした。
夜もゆっくり寝てられません。何回も空襲警報がなり、飛び起きて防空壕にかけ込みます。地震もありました。おちおち寝てられません。私には年取った祖母がいました。
その時は私は女学校へ行っていました。入学してから戦争が激しく、空襲の回数もふえてきました。
年寄や子供のいる家族はどこか田舎へ疎かいする様にいわれました。だけど私の所は田舎に親類はありません。
広島に一人伯母がいました。広島は軍隊の町でしたけど、全然空襲はありません。
伯母がわりと穏やかに暮らしているから広島へ来ないかと云って来ました。
それしかありませんので広島へ行く事にしました。
家財道具をどうして運ぼうかと、父や母が苦労した様です。
汽車は駄目なので、舟ならなんとか運んで呉れると云う事で舟に道具を乗せました。
敵の飛行機が来るのでなかなか舟も動いて呉れません。
私達家族だけで先に広島へ行く事になりましたが、まもなく舟に積んだ荷物は敵の飛行機が来て爆撃され動かない間に沈んでしまったそうです。未だに残念に思うのは、大昔からあったお雛様です。海の中に消えてしまいました。
そして、広島へ行きました。二十年二月頃の事でした。しばらくは、平穏な日々を送りました。庭には穴を掘って防空壕を、作りました。
女学校もきまって通う様になりました。
学徒動員と云うのがありまして私達も軍隊へ行き、そこで仕事をする事になりました。
すこし教育されまして、広島一頑丈な防空壕の中で働く事になりました。
私達のする事は、広島周辺に、いくつかの監視所があってそこから敵の飛行機が飛んで来たとか去っていったとか知らせて来ます。
それを聞いて「情報機」と云う機械に私達が打ち込んで行きます。
次の部屋に軍の人達がいて、その人達が敵機がこちらにむかっているから広島市は空襲警報だとか、警戒警報にしようとか云う判断をして、そこから市民に知らせます。
そうゆう仕事をしていました。
ちょうど八月六日は其の前の日から夜勤をしていました。
よく晴れた日です。八時半になると、交代で家に帰れる日です。「ああ早く帰りたいな」とそればかり思っていました。
防空壕は鉄筋で作ってありまして小さな窓があり外の光りが入って来ました。
八時十五分になりました。その窓からすごい光りが入ってきました。
その次は電気も消え真暗になり、爆風がすごいいきおいで入ってきました。私達の前に並んでいる情報機が皆倒れました。
私は何が何んだかわからないまま茫然と立ちつくしていました。
どこからか「外へ出なさい。外へ出るんだ」と云う男の人の声がしました。
大急ぎで階段がありましたので、そこから外へ出ました。
昨日迄そのまわりには建物が立ち並んでいたのですが、皆あとかたも無く消えていました。そして傷ついた人、大火傷をした人達が右往左往しています。
とにかくここから逃げ出さないと、と思いました。目の前に広島城があったのですが見る影もなく押し潰されています。
私達と交代する人達はお城の横で竹槍の練習をしていました。全員が亡くなった事と思います。
私達はそのお城の城塀をかけ上って、又ずっと下へ下りて走りました。
今迄あった家は皆おしつぶされていて、建物があって見えなかったはるか遠く迄見える様になっていました。
傷だらけの人、大火傷をした人が苦しそうにはあはあ云いながら、私達と一緒に逃げています。私は防空壕の中にいたお友達と一緒に逃げていたのですが、横に傷だらけで火傷をしている兵隊さんがよろよろしながら歩いています。友達と一緒に、その人を肩にささえて逃げました。私の肩にべったりと血がついていました。
どこか倒れた家の中から「助けて、助けて」と云う声がします。思わずかけ寄って行きました。声のするあたりの大きな板やら柱を一生懸命のけようとしましたが、私の力では思う様にいきません。するとあちこちからメラメラ火の手が上ってきました。
「あっ火がこちらへ」助けたいけど一緒に焼け死ぬわけにはいきません。
逃げました。どんどんどんどん走りました。傷をした人と大火傷した人と一緒にどの辺を通っているのかもわかりません。とにかく皆と一緒に逃げました。
どこ迄いっても建物は皆押潰されています。だんだん火の手も大きく広がっています。そのうちに川縁に出ました。川の中へ入りました。腰位迄水につかりました。まわりには沢山の傷ついた人が入っています。
お母さんと叫んでいる人もいます。名前を呼んでる人もいます。
その川はわりと川幅も広く水嵩さもあります。向岸は広々とした砂地があってそこ迄渡れば水につかる事はありません。
私は泳げませんし渡る事は出来ません。後の方も前の方もどんどん火が燃えています。
男の人、女の人、皆傷ついた人ばかり。兵隊さんは帽子をかぶっていた所は髪の毛があって、帽子のない所はじりじりに毛が焼けていました。着ていた服も焼け、体は大火傷、皮がべろんとたれ下っています。そんな人ばかりです。
でも、皆必死で安全な所を探していました。
どうにかして向岸へ行きたい、行きたいと思っていました。なぜか川の流れもすごく速いです。
すると向岸のはるか遠くの方ですごい火柱が音を立てて上りました。
火柱は火の色と煙の黒い色が、まるで散髪屋さんのマークの様にぐるぐるとまわって空迄上りました。
すると、こちらの方にもすごい風が吹いて来ました。
私の後の川岸に立っている木がつま楊枝位にさけて飛んで来ます。ささったら大変です。私の隣にいた背の高い兵隊さんが、お鍋をくれました。「これを頭にかぶっていなさい。あぶないから」
私は頭にお鍋をかぶって風のおさまるのを待ちました。
風が少し、しずまりましたが、又後の方から背中をすごいいきおいでおされる様に風が吹いてきました。
みんな川の真中の方まで押しやられました。私はもう足が下につきません。なんとか水の上に出ないと、水の中で死んでしまうと思い、もがきました。兵隊さんが私を助けてくれました。
「あとから考えたのですが、こんな悲惨な恐しい残酷な地獄絵の様な中でも、とにかく生きたい、親兄弟の所へ帰りたい、と私はひたすら思いました。きっと、原爆で亡くなった人、戦争で亡くなった人達も、死ぬ時は肉親の所へ帰りたいと思って亡くなったのでせう」
そして、風がおさまりました。
向岸へ行きたいと思いました。そうしたら私の友達五・六人およげる人とほかの人達も向岸へ向って泳ぎ出しました。私も泳げたら一緒に行くのにと思いました。
誰かが舟を探して来るからと云っていましたので、私はその舟を待つ事にしました。
泳いでいる友達が川の真中位にいったとき、又すごい突風が吹いて、川の流れがすごくはげしくなって来ました。
向岸迄渡ろうと思っていた友達が流されていきます。
「助けて助けて」と云いながら私は、「誰か助けてあげて」と叫びましたが、まわりは傷ついた人ばかりです。助けて呉れる人はいません。とうとう頭が見えなくなってしまいました。
悲しかったです。
そのうちに誰かが一艘の小さな舟を探して来ました。それで何人かずつ向岸へ渡してくれました。
そこは軍隊のあとらしく、大きな竈がありました。そこに大きなお鍋もあったのでせう。その辺の畠から甘芋を取って来て川で洗って、焚出しをし出しました。お水も沸騰させました。
そのまわりには沢山の人達が息も絶絶に倒れています。
その人達は、体中が焼けただれ、顔がはれ上って誰が誰だがわかりません。その中の一人が「井田さん、井田さん」と云います。近寄ると、誰だかわからないのですが、
「水をちょうだい。水をのませて」と云っています。水をあげ様と思いましたが、そこにいた人が
「水をあげると、すぐ死んでしまうよ。水をのませてはいけない」と云われました。
きっと大火傷で体がもえていたのだと思います。水がほしくて、のどがからからだったのでせう。
あげたかったのですが死んでほしくなかったのです。
そのうちに沸騰したお湯が出来ましたので、皆にのませたりしました。
そして又私の友達と一緒にそこをあとにして歩き出しました。
何がどうなったのかわかりません。爆撃があったとは思っていましたが、あまりの、ひどさに頭の中が混乱して深く考える事も出来ません。そのあたりの家も皆倒れて、人が上半身倒れた家から出て下の方は瓦礫の中でみえません。もう亡くなっています。
右も左も死んだ人達です。私はその間を通りぬけて、歩いて歩いていきました。
傷ついて包帯をいっぱいまいた男の人が私達の所へ寄って来て
「あんた達どこへ行くの、家へ帰ってもお父さんやお母さんは、もういないよ」といいました。そうかもしれないと思いました。涙も出ませんでした。
今考えると遠い所にあるのですが、牛田の不動院と云う国宝のあるお寺なんですが、そこ迄歩いて行きました。
そのお寺では避難して来た人達に炊き出しをしていました。おにぎりを一つもらって食べました。夕方だったと思います。
それから本堂の縁側で一夜を明かしました。
夜が白白と明けて来ましたので、又私のいた軍隊へ帰らなければと思い、又友達と一緒に歩き出しました。
だんだん被害のひどい所に、近づくにつれて、子供や女の人が座ったまま死んでいたり、黒こげになった人やら、悲惨なものでした。
川がありました。大きな川でしたが、男の人や女の人の死体がぎっしりと浮いていました。一日中燃え続けた火も今はしずまったように見えましたが、でもまだあちこちでくすぶってる所もありました。
その間を歩いて歩いて死んだ人達を横目で見ながら隊へ帰りつきました。
そこには、傷ついた兵隊さん達が沢山いました。無事だったことを話して家へ帰ろうとしましたが、兵隊さんは帰して呉れません。誰か家の人が迎へにこないと帰さないと云いました。しかたがありません。
私の仲のいい友達のお父さんは歯医者さんでしたが、いっぱい包帯をして友達を迎へに来られました。そして友達は帰りました。うらやましく思いました。
しばらくすると私の近所のおばさんが来て呉れました。それで帰る事が出来ました。
帰る道で家族の事を聞き、私の母が腕をひどく切って似島と云う島の陸運病院に入院していることを知りましたがそれ以外は祖母も父も兄も姉も元気でいる事がわかり安心しました。
家へ帰りましたら、家族は私が死んだものだと思っていましたので、大喜びして呉れました。
原爆が落ちた夕方、父や兄が私がいた軍隊の近く迄探しに来て呉れたそうですが中へは入れなかったそうです。
家は半分こわれていましたが、家族が生きていて幸せでした。
次の日朝早く、母が入院している似島へ行くことが出来ました。
宇品と云う所から今なら三〇分位で行ける所です。広島市内からも見えます。安芸の小富士と云って綺麗な形をした島です。
似島へ着きました。其の病院の中は重傷の人ばかり、ぎっしりと寝ていました。
母に会いました。左腕を一二センチメートル位横に深く切り、無数のガラスの破片が入っていました。母はまあまあ元気でしたので私は重傷の人達の世話をしていました。
あちらの人もこちらの人も苦しくってうなっています。
家族の人達が探しに来ます。「誰々はいませんか」「何々さんはいませんか」
もう傷につける薬もありません。ただ苦しんでる人達を見ているだけです。私はタオルを頭にのせたり体をふいてあげたりしました。母がいっていました。今しゃべってるかと思ったら、「ことっ」と息が止ってしまうと云っていました。
母の隣に寝ていた若い女の人は顔は綺麗でしたが、体中するどい爪でひっかかれた様な傷が無数にありました。家へ帰っても時々あの方はその後どうされたかなと思い出していました。
外へ出ますと死んだ人が沢山何十人も並べられていました。
しばらくして母も似島から帰ってきました。
水道もガスも長い間止ったままでした。
そして八月十五日終戦になりました。戦争が終ってからも被爆した人達はそれから何年も何十年も原爆症にいつなるかわからないと不安な毎日を送りました。
母も九一才で亡くなる迄ガラスの破片が体に入ったままでした。
私も二年位は体の調子がよくありませんでした。
私はこの手記を書いているうちに其の時の事を思い出し何べんも涙しました。
今は平和な世の中です。これからも小学生の皆様の力でこの平和が末永く続きます様に心からお願いします。
最後に
平和を願われ、こよなく花を愛される
校長先生に敬意を表します。
おわり
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