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被爆体験について 
栗﨑 郁子(くりさき いくこ) 
性別 女性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 中国配電㈱(広島市小町[現:広島市中区小町] 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 中国配電㈱ 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

昭和二○年一○月六日広島市小町中国電力(当時中国配電)に挺身隊として勤務中被爆した。当日午前七時三一分警戒警報が解除され、私は一階総務部株式課の自分の机の横に立ち、大きな大理石の柱を背にして、先輩と話していた。その時突然なんの前触れもなく「ドーン」という、すさまじい音響と共に私は何メートルか吹き飛ばされてしまった。気を失い、やや暫くして気付いた時、周囲は闇となり、只、人々の呻き声、泣き声、叫び声があるのみだった。外に出ようと手探りで薄明りの洩れる方へと向った。

外は薄暮。さっき迄カンカンに照りつけていた太陽はなく周囲はすっかり火の海、振り返ると会社の窓々からも激しい炎が見えた。白箒の様に髪を逆立てた友と会い、急いで元安川に逃げた。少しの川辺の砂地にはすでに一糸纏わず顔も体もすすの様になった人々の姿があった。どす黒い肉魂と化した人々。ぼろの様に皮膚をぶらさげている人々。一体何が起こったのか全く見当もつかなかった。

その砂地に座った私は腕や背中、腹部がピリピリ痛むので背中を友に見て貰うと「凄い傷じゃ。どうしよう」と云われ、腹部や腕もみてみると七~八センチメートルのパックリと裂けた傷口から血が流れている。今もその傷跡は無数に残っている。シャツを裂き傷口のしばれる所はしばって貰った。先に砂地に避難してきてた人々が口々に「水を下さい!!」と訴えるが飲料水もなく手にあったタオルを川の水にひたし火傷の肌にあて冷やしてあげた。川辺の家が川の中に燃え落ち、女学生らしい子供達が口々に「お母さん!!」と叫んで川の中に飛び込んでいった姿は今も脳裏から離れない。周囲がすっかり焼け落ちた頃、友と共にその川辺を離れ救護所があると云われた比治山へ向かい、そこで友と別れた。しかし怪我人火傷の人々の群で、私はそこから宇品の運輸部へ運ばれ、船で瀬戸内海の金輪島に収容され、運良くその日の内に身体中にささったガラスの破片、木片、コンクリート片など取り出して頂き、縫合迄の手術を受けた。昭和六一年体内に残っていた被爆物の異物の除去手術を受けた。

 

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