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回想 
クラウス ルーメル(くらうす るーめる) 
性別 男性  被爆時年齢 28歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2004年 
被爆場所 イエズス会長束修練院(安佐郡祇園町[現:広島市安佐南区長束西二丁目]) 
被爆時職業  
被爆時所属 イエズス会長束修練院 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
日本到着と名前の変更

船は夜、下関に到着した。ベルリンを2月5日の金曜日の真夜中に出て、日本に到着したのが1937(昭和12)年2月17日、水曜日の夜だから12日間かかったことになる。下関の港には四人の黒い私服を着た日本人が立って、怪しげに私たちを見ていたが、パスポートなどの検査も無事に済んで入国することが出来た。

町に出ると「日本はやたらにお坊さんが多い国だ」と感じた。当時、下関では男子はまだ和服が多く、袴を履いていたので、この人たちはみんなお坊さんに見えたのである。

訪ねた下関カトリック教会の主任司祭は荻原晃神父で、彼は上智大学を卒業後、オーストリアのイエズス会神学校に留学した先輩で、学生時代には絵日記を書いていると聞かされた(現在この絵日記は上智大学の史資料室に保管されている)。一年前に来日していたドイツ人の先輩、ロゲンドルフ神父が日本語見習いで来ておられた。

ベルリンを出発してから、だれも風呂に入っていなかったので、風呂に入ろうということになったが、風呂は五右衛門風呂で上に浮いている板を沈めなければ入れない。われわれはこの板はてっきり風呂の蓋であろうと取り去って、足を入れたら足の先は焼け付くほど熱い、とても両足を入れることはできない。幸い熱すぎたので、湯をかぶっただけで誰も湯船に入らずに、すました顔をして出てきた。誰かに聞けばよいものをと後になって言われたが、誰にも聞かないところは性格か、国民性かは分からないが――。

翌日はロゲンドルフ神父がタクシーに乗って町を案内してくれた。下関教会には二日宿泊し、三日目の朝、列車で下関を出発し、山口の教会に寄り、広島、岡山と見ていたところ、上智大学から「どこにいるのか」「早く来るように」との連絡があった。そこで東京へ向かい、四谷の上智大学に着いたのは2月22日であった。

上智大学に着くと上司から呼び出しを受けた。院長のニコラス・ロゲン神父が「君の名前はクラウスと言ったね」「はいそうです」。「実は上智大学にヨハネス・クラウスという神父がいて、クラウスは姓だけれど紛らわしいので、呼び名を変更してもらえないものかね」と言われてしまった。仕方なく「それではニコラウス(Nicolaus)にしましょう」と。以降、教員として文部省(現・文部科学省)に届けるのも、理事長として契約書に届けるのも、すべてニコラウス・ルーメルとサインした。しかし暫くすると、日本人は、佐藤、鈴木、田中の姓がいっぱいいて、適当に使い分けているのに、なぜ自分だけが名前を変更しなければならないのか納得できなかったが、上司に逆らうことは出来ない。

当初、神学生としての生活は上智大学を中心に、日本語と日本文学を学んだ。

日本語の勉強は尋常小学校の一年生の読本を使って「コイ コイ シロ コイ」「ヒノマルノ ハタ バンザイ バンザイ」「ススメ ススメ、ヘイタイ ススメ」で、当時の小学生と同じようにカタカナから習った。旧漢字、旧仮名遣いの時代で苦労したものである。翌三八年から広島の観音町で十人ぐらいの神学生とドイツ人からスコラ哲学とラテン語を勉強した。

この授業はドイツ人ばかりのため、日本人と接することもなく日本語を話す機会もないし、もちろん日本文学についての講義もなかった。そこで代表が総長に手紙を出したところ、一週間に二回、一時間ずつ個人授業を受けることになった。内容は自分で選んで良いというのでそのころ関心のあった大乗仏教について学ぶことにした。さらに集中講義ではデュモリン神父から一年目は「原始仏教」、二年目は「宗派仏教」、三年目は「神道」を学んだ。これからは日本語で生活しなければならないと思い、日本語の勉強も真剣に取り組んだ。

強制入院の顛末

広島で住んでいたのは、衛生状態の良くない地域だった。九月の初旬であったがあまり暑いのでそばにあった川で泳いだ。それが大事になってしまった。川は太田川といい川辺にはトイレのないスラム街があったり、屠殺場があったりで、いろいろなものを流すため不潔だったらしく、二、三日後に39度5分の高熱を出し、救急車で病院の隔離痛棟に、およそ一ヵ月入院させられた。赤痢にかかってしまった。病院では看護婦(看護師)さんたちが外国人を見たことがないというので珍しそうに集まってくる。最初、一泊90銭の四人部屋の二等病室に入れられていたが、修道院長のはからいで一泊1円30銭の一等の個室で一人のんびりと過ごすことが出来た。

当時は完全看護の制度はなく、入院すると自分で付き添いの家政婦を雇うことになっていて、特に伝染病の場合は家政婦が二十四時間泊まり込みで病人の世話をする習慣になっていたようであった。個室に入っても、体の調子はまだよくないのだが、ゆっくり寝ることはできた。カーテンの向こうから修道院長の小声で話す声が聞こえてくる。耳をすますと修道院長が担当医に「病人は二十歳の若者なので、家政婦さんはしっかりした年のいった人にしてください」と頼んでいた。

世話をしてくれたのは五十五歳のおばちゃんだった。入院してはじめの四、五日は何も食べられず重湯で、次第にお粥になり、普通のご飯になった。家政婦さんは身の回りの世話をする外、食事も作るが、洋食は作れず和食しか出てこなかった。しかしこの一カ月の病院生活ですっかり日本食が好きになった。その意味では年季の入ったおばちゃんでよかったのかもしれない。元気を取り戻すと私がキリスト教の神父と知って看護婦さんたちから、「神様の話をしてください」と頼まれ、私も喜んで片言の日本語で聖書の話をしたものである。

1941(昭和16)年7月の初め、広島の三木修道院の哲学部を卒業した。イエズス会ではこの後の二年間を「中間期」という。私はそこで広島の幟町カトリック教会で管区長の秘書役や教会の手伝いをして働いた。また教会主催のドイツ語講習会でドイツ語を教えたり、修練院のある長束ではイエズス会に入会したばかりの日本人と韓国人の修練士にラテン語やギリシア語を教えていた。

1943(昭和18)年に東京に戻り、麻布の四の橋(麻布区四の橋本村町)の聖三木神学院の神学部に入学した。広島で医師から結核と診断されたが、桜町病院へ行き検査を受けると結核ではなく「気管支拡張症」であった。激しい空襲のあった1945(昭和20)年1月初めに、エルリンハーゲンやラウレスと私たち神学生はアルペ神父が院長の長束のイエズス会の修練院に移動した。

その年の3、4月にアメリカはマリアナ諸島を日本から奪還し、同島の飛行場から直接、長距離爆撃機のB29が飛来して、爆弾と焼夷弾で東京の中心部はほとんど焼け野原になってしまった。特に四月十三日から十四日の夜にかけて上智大学のある四谷・麹町周辺は大空襲に見舞われた。

空襲による東京の被害

「上智大学五十年史」(昭和38年発行)には次のように書かれている。

「年が明け、1945(昭和20)年になると、矢つぎばやに大がかりな帝都空襲である。3月10日もひどかったが、4月13日から14日夜にかけて四谷、麹町方面に大挙来襲してきた。暗夜に探照灯の光芒が走る。その間をぬって悪魔の翼が乱舞する。鉄兜の外人教授たちの前を不気味な音を立てて焼夷弾の雨が降る。旧校舎にめらめらと火の手が上がる。外人教授が学生五名とかけつけ、手押しポンプで懸命な消火作業だが焼け石に水。サイレンを鳴らして消防自動車がくる。が、素通りしてよそへ急ぐ。こんどは講堂から火の手。

欧州大戦の勇士ビッテル教授は、ロゲンドルフ、ボッシュ教授たちと素早く飛び込んで炎を叩きつぶす。アロイジオ塾にも二発落ちたが、これはゲッペルト教授が学生と消し止めた。本館の庭園にも多数落ちたが、この方はまだ始末がよかった。みんな夢中だったが、そのころには上智大学から麹町通りと四谷駅にかけて、木造家屋の密集していた地帯は一面火の海となり、次々に焼け落ちていった。

この空襲で上智の構内に落ちた焼夷弾の数は実に七十四個。このため震災後に修築して使用していた二階建て旧校舎は全焼し、わずか一階の煉瓦壁を残すのみとなった。講堂(現・一号館アングラ劇場)に入った火がもし広がったとしたら、本校舎も焼失の憂き目にあったであろうが、そうならずに済んだのは幸いであった」。

原爆、四キロ地点で遭遇

4月に東京方面は焦土と化し、「いよいよ本土決戦か」という噂が飛び交い始めた。そうした矢先、日本が頼りにしていたドイツが五月八日にあっけなく連合軍に降伏した、とのニュースが報じられ、以降われわれドイツ人はこれまでと違った扱いを受けるようになった。ラサール管区長の、われわれが万一、神学生の身分で殺されるようなことがあると気の毒だとの判断で、急遽、福岡教区長の深掘司教から司祭になる叙階の式を受けた。1945(昭和20)年の7月1日だった。

当時、広島、岡山、倉敷、玉島等の教会にはドイツ人神父がおり、ドイツ人の若者も十数人住んでいた。ラサール神父(後に帰化・愛宮真備)は憲兵隊から呼び出され、外国人はすべて山奥の古い旅館に集合するように、との命令を受けた。場所は芸備線の西条と東条の間の帝釈峡というところで見晴らしの良いところであった。

何のためかというと、万一、本土決戦になって米軍が上陸してきたら、外国人は全員山奥で始末してしまおうと、企てていたようである。それを察知したわれわれは、できるだけ抵抗して出発を延ばしていた。しかし、結局は憲兵隊に抵抗ができなくなり、7月31日に「最初の準備」と称して三人の神父が出かけることになった。残りの者は8月6日に出かけることになっていた。広島に原爆が投下されたのはその八月六日朝で、憲兵隊も被爆し全滅してしまったようで、以降何の通知もなかった。

その日、私は朝食を済ませて、午前8時何気なく外に出て辺りを見回していた。午前8時過ぎ、どこからともなく爆音が聞こえ、8時14分、修練院の玄関前に立っているとB29特有の爆音が聞こえて、飛行機が一機飛んでいるのが目に止まった。その飛行機を発見した瞬間、広島の空が黄色、紫色、赤色の大きな火の玉に覆われた。おかしいと思いながらも「爆弾を投下したのだろう」と地下室に避難した。これまでは爆弾が投下されると爆発音が聞こえるのだが、このときは聞こえなかった。

しばらくすると、強い爆風と熱気が頭上を通り抜け、家が揺れて屋根瓦が落ち、窓ガラスが砕けて雨のように降ってきた。何事が起きたのか。地下室から出て修練院近くの小高い丘に上って広島市内を見ると、市内全域が燃え、遥か彼方の森も燃え上がっていた。青空は急に暗くなって、灰を含んだ黒い大粒の雨が降り出した。

部屋に戻ると、近くの横川の工場で働いていたのであろうか、ひどい火傷を負った女性が入ってきた。長束街道を火傷だらけの人々が私たちの修練院の方に列を作って歩いてくる。この人達を一応収容したが、手当をしてもそれ以上のことはできない。

夕方、幟町カトリック教会に避難している主任神父のラサール師と修道士の二人を担架で運び出すために広島市内に入った。三篠橋を渡ると川沿いの土手に数十名の兵士が傷を負いながら「水、水」と叫んでいるので近くの井戸から水を汲んで飲ませた。

さらに進むと道路向かいの川沿いにあった三階建ての旅館は爆風でつぶれていた。男の人が「どうもこの家の中から助けを求めている声がする。下敷きになっているらしい」と言いながら去って行ってしまった。様子を見ると確かに「助けて、助けて」という、か細い声が聞こえる。何とか助けてみよう。これから先の仕事もあったがタッペ神父と二人で瓦を除き始めた。

およそ二時間近くかかって瓦や木材をはがしていくと中に一人の中年の女性とその娘らしい二人の女子がうずくまっているのを発見した。長い間下敷きになっていたので立つことも、歩くこともできない状態であった。彼女は「有り難うございました」と何回も繰り返していた。私はとっさに「私たちに感謝するのではなく神さまに感謝してください」と言うと、「下敷きになったときから神さまにお祈りしていました」と答えた。その神が何であろうと、信仰心のない人間も、究極の状況に立たされたとき、最後には祈りの境地に達するのではないかと思った。

広島市内に入り、上司を救出

幟町カトリック教会は跡形もなく、近くの浅野家の泉庭(縮景園)に避難していたラサール神父と修道士を担架に乗せて運び出したがその時、対向車のトラックと接触してどぶに落ちてしまったので暫く担架を置いて休んでいたところ、ラサール神父が、背中が痛いと言いながら「誰かタバコを持っていないか」と言われた。タバコが吸えるほど元気なのだと安心して修練院にたどり着くと、何と背中には四十数個のガラスの破片が刺さっており、よく耐えられたものだと感心した。

この時は、長束の修練院の聖堂や食堂は、息き絶え絶えに修練院までたどり着いた火傷を負い、焼けただれた被爆者で野戦病院のようになっていた。その人数はおよそ八十人。医学の心得のあるアルペ院長(後に、イエズス会日本管区長、イエズス会総会長)の指示で出来る限りの治療に当たった。

ラサール神父は食堂の大きなテーブルに乗せられ、アルペ神父がピンセットで一つずつガラスの破片を抜き取ると、麻酔もないためその度に身体をよじって痛がったがそれでも全部摘出し、一カ月半後には元気を取り戻した。とにかく修練院の仲間はアルペ神父の指示に従って、傷をマーキュロクローム(赤チン)で洗うなど、全員けが人の世話をし続けた。

翌日、7日には幟町教会にカトリックの儀式に使われる聖具が埋もれているので仲間と探しに行った。周囲は家屋が倒壊し、火事のために材木の焼けた臭いがただよい、黒こげの焼死体が材木のようにも見えた。言葉で言い表すことはできない。表現する気持ちにもなれない情景だった。後に写真誌等に掲載された通りの惨状を見せつけられた。

このような状況にあって前日は一睡もしないで看病していたため、体は埃と汗にまみれていた。たまたま倒壊した家屋から五右衛門風呂が見え、中には丁度手頃なお湯が沸いていた。そこで誰もいないことを幸い、今回は上に浮いている底板を沈めて風呂に入り、すっきりとした気分になった。その後四日目ごろから熱が出てぼんやりしていたが、苦しむ患者の看病のため静養する暇もなかった。お湯が放射能を帯びたお湯であることを、全く知らなかったのである。

新聞は「新型爆弾」と報道

広島市内が焼け野原になっていたので、当日は新聞も届かなかったが、後で読んだ新聞には次のように書かれていた。

『B29新型爆弾を使用、広島に少数機、相当の被害(一面トップ、三段見出し二行)』

【大本営発表】(昭和20年8月7日、15時30分)

一、昨8月6日、広島市は敵B29少数機の攻撃により相当に被害を生じたり。

二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも、詳細目下調査中なり。

落下傘で中空爆発、家屋倒滅潰と火災、正義は挫けず、見よ敵の残虐(三段見出し三行)

◇6日午前8時過ぎ、B29少数機が広島上空に侵入、少数の爆弾を投下した。このため相当数の家屋が倒壊すると共に、市街地に火災が生じた。敵が使用したこの爆弾は、落下傘がついており、落下の途中で破裂したもののようである。新型爆弾の威力について、当局は早急に調査を進めているから近く判明する筈である。

◇敵は新型爆弾の使用により、無垢の国民を殺戮する人道無視の虐待性をいよいよ露骨に現したことは、敵が対日戦の前途を焦慮している証というべく、敵米国は、日ごろキリスト教を信奉する人道主義を称呼しながら、この非人道的な残虐を敢えてせることにより、未来永劫「人道の敵」の烙印を押されたもので、彼の仮面は完全に剥げ落ち、日本は正義において既に勝ったというべきである。敵は引き続き、この種の爆弾を使用することが予想されるが、これに決して正義は挫かれない。一億国民は、いよいよ戦意を高めるであろう。これが対策を促進することが、絶対必要である。当局からの対策の指示があるまでは、従来の防空壕を強化、疎開等を進めると共に、少数機の来襲にも過度の軽視を戒めるべきである。

特に敵の謀略宣伝は、誇大的に加え、軍事施設、工場等の破壊、都市爆弾等、鳴り物入りで宣伝することは必定である。新兵器の出現当初は、それによって受ける心理的衝撃が大きいのが常であるが、今日までの戦史によると、新兵器への対策手段が生まれなかったことはないので、対策宜しきを得れば、被害も最小限に防ぎ得るものであるから、徒に焦慮する必要はない。(読売報知新聞・昭和20年8月8日、読売新聞社東京本社版。原文は旧漢字、旧仮名)

この新聞にも新型爆弾とあるのみで、どのような種類の爆弾かは記されていない。原子爆弾であることが報道されたのは、長崎に原爆が投下された直後である。

もちろんこのような状況で勉強どころではなかったが、後からこれが原子爆弾と聞いたとき、私はとんでもないものを見てしまい、体験したのだと思った。この体験は後世に語り継がなければならないと思いながらも、時の流れとともに、あの焼け跡の惨状の記憶は次第に薄らいでいくものである。

その年の五月にドイツが敗れ、ドイツ人であるわれわれの身もどうなるのだろうと仲間同士話し合っていた。われわれ外国人の神父が帝釈峡に移動しなくてすんだのも、憲兵たちも焼死してしまったから移動は不可能になったのだろうと、話し合っていたが、その真相も判からないまま時が過ぎた。そして8月15日。前日からラジオで「明日の正午に重大なニュースがあるから聞き逃さないように」との放送が流れていた。

その日の広島は暑い日だった。正午からラジオを聞いたがガリガリ言っていて内容がつかめない。誰かが「天皇陛下の声だ」と言うが、判然としないまま放送は終わり、これも誰かが「天皇陛下が国民に頑張れと激励された」と言う。しばらくして、戦争に負けたことが判った。負けたことで日本がどうなるのか、われわれはどうなるのか、広島の田舎に住んでいると、予想することすらできなかった。これから、自由になって、民主主義になるなど思いも寄らなかったのである。

敗戦、アメリカへ留学

敗戦によって「日本の海軍が反乱を起こすのではないか」といううわさが流れた。「外国人は危険だ」というので結局、警察の要請で帝釈峡の山奥にある古い旅館に身を寄せることになった。そして九月八日にマッカーサー占領軍総司令部から、「すべての外国人の移動の自由を保障せよ」という命令が出され、広島に帰ることができた。広島に帰っても修練院はガラス窓等の修理で落ち着く場所もなく過ごしていたが、十月に入ってやっと落ち着いて机に向かって勉強ができるようになり、ようやく将来がある程度見通せるようになった。

1947(昭和22)年1月に東京に戻って7月に神学部を卒業した。イエズス会では、司祭に叙階された後、「第三修練」といって「養成最後の段階」をもう一度およそ一年間「修練士」として勉強する。私は神学の四年間修了後、神戸のイエズス会経営の六甲学院に送られ、修練期間を待っている間、生徒にドイツ語、西洋史、宗教を教え、副校長の仕事もした。六甲カトリック教会でも働いていた。当時、イエズス会日本管区長はラサール神父からフィステル神父に代わっていた。副日本管区長のビッテル神父の話では、1948(昭和23)年にイエズス会が神奈川に栄光学園を開設し、六甲学院で教えていたシュトルテ神父が栄光学園に引き抜かれ、そこで「貴方がその穴埋めに六甲へ行くことに決まった」といわれたが、修練期間もないまま、三年の歳月が過ぎてしまった。

ところがフィステル新イエズス会日本会管区長が六甲学院を視察された時、彼は私に「上智大学で教育学を担当していたクナップシュタイン神父が亡くなったので、その科目を教えるために貴方が選ばれました。そこで英語を学ぶために第三修練はアメリカで受けなさい。それが済んだらデトロイト大学大学院で教育学を学びなさい。修士号を取得すれば十分で、博士号を取得する必要はありません」と言われた。

「ありがとうございます。ギムナジウムで、ラテン語を九年、ギリシア語を六年、副科目としてフランス語を七年間学びました。三十三歳になってから、新しい学問を英語で学ぶのは大変楽しみです」と返事をした。

渡米に当たってアメリカに渡るために困ったことが一つあった。ドイツは1945(昭和20)年5月8日に戦いに敗れていた。その後、国籍について考えたことも心配したこともなかったが、外国に行くとなるとそれが問題である。しかも生活している日本も敗戦国となっている。ドイツは新しく「ドイツ連邦共和国」(Bundesrepublik Deutschland)となったことはうわさで聞いたものの、日本にはその大使館も領事館もない。アメリカ入国のためのパスポートはどうしたら取れるのかと途方にくれた。

この間題は簡単に解決した。神戸にある米軍の事務所で訪ねたところ、女性の事務員が affidavit in lieu of passport(パスポートの代わりになる宣誓書)を発行してくれたからだ。つまり、当時渡航許可に必要とされたアメリカ滞在中の生活必需品はアメリカと日本のイエズス会が十分に保証するというので許可になったのである。

1950(昭和25)年7月、神戸を貨物船「パシフィック・ベアー」で出港した。サンフランシスコまで十二日間の船旅である。食事は船内の狭い食堂で、中国から追放されたばかりのプロテスタントの宣教師家族と一緒だった。この家族からアメリカのテーブルマナーや、アメリカの礼儀作法も教わった。「例えばテーブルに置いたパンを腕を伸ばして取ってはいけません。don't you like usといってしかられるでしょう。すぐそばのパンでも please, pass me the bread といわなければいけません」と教えられた。ドイツも日本も食事の時は醤油や塩の入れ物は手を伸ばして取ることが習慣であったため、つい手が出そうになって、あわてて引っ込めたものである。

船は夜八時過ぎにサンフランシスコの港に錨をおろした。サンフランシスコのイエズス会に電話を入れたところ、副院長が電話に出て「それならタクシーをつかまえていらっしゃい」といってあっさり電話は切られてしまった。

暗がりでやっとタクシーを見つけ、運転手と話し合っていると「ああそうですか、遠く日本からですか。宣教師、神父さんですね。アメリカが初めてなら少しサンフランシスコを道案内しましょう」と言ってくれた。しかしドルはあまり持っておらず、いくら取られるか心配で、案内してくれるのだが、あまり頭に入らない状態で、やっとイエズス会の修道院前についた。そこで料金を聞くと「神父さん、料金はいりません。実は息子が一カ月前に司祭に叙階されたのです。神父さん達がお金のないことを知っています。そこで息子のためにロザリオを一環唱えてやってください」と言って料金を取らずに去ってしまった。

第三修練はシアトルからバスとフェリーで四時間ばかり離れた寂しいポート・タウンゼントという町であった。

第三修練の期間中、毎週土曜日はシアトルの教会に手伝いに行った。クリスマスの24、25日両日もシアトルの郊外の教会で正午から真夜中のミサまで、告解を聞く仕事だが、これはハードな仕事であった。疲れ切って25日の朝、乗客が一人も乗っていない路線バスに乗って、料金を入れようとしたら、運転手は料金箱の上に手を乗せて料金を入れることを止め「神父さん、教会の仕事でお疲れでしょう。今日は料金はいりません」という。「それでは貴方が困るでしょう」というと、「いいえ大丈夫です。そのお金で、葉巻を一本でも買ってください」と言われた。

第三修練期が終わった後、デトロイト大学大学院で教育学を専攻し、二年後にMAの資格を取得した。ところがここではドイツのイエズス会も日本のイエズス会からも生活費としての援助は全くなく、自分で収入を得るしかなかった。教会で朝のミサや日曜日の歌ミサを司式し、五ドルの報酬を得てオルガニストに一ドル渡す。手元には四ドル残る。このようなアルバイトで二年間の生活をしのいだ。

出典 クラウス・ルーメル著 『ルーメル神父 来日六八年の回想』 株式会社学苑社 2004年 37~56頁 

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