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被爆四十八年目の検証 
黒木 俊一(くろき しゅんいち) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1993年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 船舶司令部教育船舶兵団船舶工兵第9連隊補充隊(暁第16709部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 私が入隊したのは香川県小豆島渕崎にある若潮部隊で、陸軍船舶特別幹部候補生(第三期生)といっても、今の高校1年生で16才でした。

故郷から仲間3人と歓呼の声に送られ、昭和20年1月30日羽後矢島駅より少年志願兵として出発したのが、つい此の間のように思われます。

特幹生は19年4月に発足し、1ヶ年と6ヶ月で陸軍伍長に任官される新しい下士官養成の制度でした。志願要項では中等学校3年2学期修了程度の学歴を有する者でしたが、大部分は中等学校の卒業者で、3年生、4年生、中退者は少数でした。年齢は17、18才の人が大部分でした。特幹生は船舶兵のみならず、飛行兵、戦車兵、高射兵等の兵科があったと記憶があります。忠君愛国、一死報国等が教育の方針であり、当時としては敗戦が近いと知りつつ、お国のために志願入隊することは、当り前の事でした。

小豆島での軍人としての基礎訓練、和歌山での暁部隊の船舶工兵としての訓練、広島の原爆による被害の救援活動、そして自ら被爆した者の一人として体験の一端を記したいと思います。

小豆島での教育隊を5月29日卒業、6月1日付で和歌山の暁第16709部隊・船舶工兵第九連隊に、同期生約百名と共に転属を命ぜられました。部隊は6月25日に広島県豊田郡忠の海に移動し、高等女学校校舎に駐屯しました。
戦後ベールをぬいだ毒ガス製造の島である大久野島に、忠の海の繋船場から作業員、女子挺身隊等大勢の人々が船で通っていました。我々も手をふって送った事もあります。私達は本土決戦に備え上陸用舟艇にていろいろな訓練を行っていました。7月25日、字品にある船舶練習部に転属を命ぜられましたが、運よく2日後に復隊復帰しました。ですから焼ける前の広島市街も少し記憶にあります。

8月6日広島全滅のため、救援活動の出動命令をうけました。

夕点呼後、明日午前9時出発との命令でした。上陸用舟艇で行く者もいましたが、私達は呉線にて出発しました。
広島市に近づくにつれ一面の焼野原であちこちが、くすぶり、煙がのぼり、異様な風景にびっくりしました。駅には汽車は入れず、数百米歩き広島駅に到着。焼けた客車に黒こげの死体が折重なっており、目をそらす惨状でした。目的地に向ふ途中市内の様子は一変し、街は焦土と化し、家屋は倒壊し、道路には架線や電線が下り、路上には多数の死傷者がいて、「兵隊さん、水を下さい」と呼ぶ声、又呻き声があちこちから聞へましたが、私達は野営地につくまではどうする事も出来ませんでした。物を片付けながら行軍し、とある広場に到着、ここで野営との命令。ただちに荷物を下し野営準備にかかる。後でこの地名は稲荷町と聞きました。

午後4時頃野営準備完了、救援活動に入る。負傷者の介護から始めましたが、熱爆風のため大部分の負傷者はひどい火傷で焼けた皮膚ははげて手先までさがり、顔ははれ男女の別が出来ないほどで、此の世の地獄で、惨状は言葉に出ない。我々もぼうぜんとして、手のほどこし様がなかった。軽傷者には油薬をぬる程度の治療で、どんなにか苦しかったろう。重傷者は其のままの状態でした。軽傷者は本部から来たトラックにて搬送されて行きました。搬送された一般市民の負傷者は大部分死亡されたとのことを後で知りました。

又同時に死体の収容、そして火葬を行った。火傷、熱風による黒こげ死体、建物の下敷になって死亡した者、男女の性別の不明者も多数ある。身元のわかるものは胸より名札を取り、性別、だいたいの年令を記して封筒に入れ整理する。火葬といっても広場に穴を掘り死体を入れ、木くずを敷き油をかけて処理した。私達の中隊で処理した死体は身元不明者が特に多く、爆風のひどさを物語っています。日がたつにつれ真夏の暑さと火傷であり死体はどんどん腐って臭気は此の世のものではなかった。
私達も疲れきっていた。作業もきつく大部分の候補生は腹痛、下痢の病状がありました。私も例外でなく、下痢、そして頭髪の一部がぬけた。私達は身体の調子が悪くとも一日も休まず頑張った。土の上に毛布を一枚敷き其の上に寝て、暑くて生水はのみほうだい。たまにしか風呂に入らないでまさに第一線なみの生活でした。我々も相当量の放射能をあびたと思います。
原爆とは私達は戦争が敗けてから知りました。それまでは特殊爆弾と云われていました。原爆こそは戦斗員、非戦斗員、又老若男女を問わぬ大量殺人であり、人類滅亡の爆弾であり、其の非道さには心から憤を感じた。

道路の片付け、水道修理、市民に対する炊出しの作業など、いろいろな体験をしました。特にきつかったのは第二総軍指令部の動哨勤務でした。2時間交替の24時間勤務で、暑さの中倒れる寸前でした。天皇の放送は物資搬送中に聞いたがよく聞きとれなかった。目的地に着き日本が敗けたことを知った。

特に記憶にあるのは、16日午前中物資搬送中に立寄った広場の挺身隊員の何百人もの死傷者でした。朝礼中に被爆したとのこと、日本の敗戦も知らず、勝利と信じ、他県から広島市に来てのこの惨状はあわれであった。我々と同年代で、戦争の非情さをしみじみ感じた。

17日に任務を解かれ忠ノ海駐屯地に帰った。

原爆投下より48年、我々は今日の日本の平和があるのも、広島、長崎の犠牲があってのこと忘れてはならない。被爆によって死亡した多くの人に心から冥福を祈ります。

教育部隊暁部隊、広島で救援活動と共に頑張った同郷の同期生伊藤勝世氏も昭和58年肝炎のため54才で死亡、放射能との関係があった事と思われます。被爆者健康手帳をもらふことなく誠に残念でした。

私も手帳は60年に交付を受けました。軍隊時代に、広島での行動は話をしないようにという指示もあって、申請の時期がおくれました。申請をしたい人がまだ居る事と思います。一人でも多く、一日も早く申請手続をしてもらいたいと思います。長年にわたり被爆者のために尽力された、県被団協の役員に心からお礼を申し上げ終とします。
 
 
出典 秋田県原爆被害者団体協議会編『秋田の被爆者』平成17年 pp.98~101 

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