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平和を願って 
倉本 豊子(くらもと とよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2007年 
被爆場所 広島市西観音町一丁目[現:広島市西区] 
被爆時職業 教師 
被爆時所属 舟入国民学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前
私は観音尋常小学校を卒業すると山中高等女学校に行きました。

観音尋常小学校は、今の観音小学校とは全く違った所にありました。もとあった所は、今は平和大通りになっています。ですから南観音町の子どもたちは小学校に通うのもずい分遠かったです。私の友達も南観音町にいましたから、よく遊びに行ったものですが、今の三菱工場の辺りは海でした。土手がずっとあって、お宮がぽつんとあったのを記憶しています。

山中高等女学校は千田町にあり、歩いて通いました。私たちの時代には戦争がひどくなっていました。それで、私の家がある所では、通学に交通機関が利用できる車のマークを学校からもらえませんでした。己斐から通学する人は車のマークがもらえたので、己斐からずっと千田町まで電車で通っていました。電停を降りると広島赤十字病院があり、そこの通りを入ってすぐのところが山中高等女学校でした。その南向こうに修道中学校があって、間に広島大学工学部の前身である広島高等工業学校というのがありました。現在の広島大学跡地には広島文理科大学があって、広島大学とは言っていませんでした。

昭和十八年三月に卒業して試験を受けて三原の女子師範学校に入りました。当時は男の先生がどんどん出兵されるので教員が足らなくなり、臨時教員養成所というのがあったのです。四十人のクラスのうち五人ぐらいが広島出身でした。三原の東町の方に下宿をして通いました。半年の養成だったのですが、とても厳しかったです。と言いますのも、官費と言って費用が全部国から出たのですから。九月三十日に卒業しましたが、半年間は教員になる義務年限が決められていました。

養成所を出て中島国民学校に赴任しました。市の中心に位置しており、学校の北側には県庁や県病院がありました。生徒数も多く、教員が五十人ぐらいいる大きな学校でした。原爆を受ける前の天神町から材木町、平和大通りになっている辺りを、家庭訪問で歩いた記憶があります。三年生以上の生徒は、双三郡三良坂町に集団疎開したと思います。一、二年生は田舎に縁故者がない者は、各町の寺や集会所のような所に集まって勉強していましたから、中島国民学校の一、二年生は中心部だから亡くなったと思います。

私は「空襲や警戒警報が激しくなったけれど、集団疎開へは付いていかず残留します」と伊藤校長先生に言ったのですが、翌年の昭和二十年三月末の異動で舟入国民学校に転勤となり、一年生の担当でした。
 

当時、家は西観音町一丁目にあり、電車通りよりもちょっと南側でした。近くには、観船橋という橋があって、小さい頃はそのそばの川で泳いでいました。十二間道路より東側で、どぶ川を挟んで山口という缶詰工場がありました。爆心地からおよそ一・三キロメートルのところです。

家の前の道を出たら電車道路に出られました。現在の天満町の停留所で、街の中といっても商売屋さんは少なかったです。前の家は太田さんと言って大きな家でしたが、料理屋などで魚の刺身に添えてある赤い「タデ」を奥の砂地の畑で作っておられました。隣は池田さんといって糸屋さんでしたが、その他はサラリーマンの家が多かったです。

天満橋を渡ってすぐ左側に市場がありました。あの辺りを通ると懐かしい気がします。
 
●被爆時の状況
被爆当時、我が家は八人家族でした。祖母と会社員の父、教員だった母、それに長女の私が十九歳、次女が十七歳、長男が八歳、次男が六歳、三男が四歳でした。祖父は私が五歳か六歳のとき亡くなっています。

八月六日、父母は米の買い出しのために朝早く家を出て、広島駅の北にある大内越峠の辺りで被爆したようです。

一番上の弟は八歳で観音国民学校の二年生でしたが、今でいうと公民館のような集会所で勉強中でした。戦争がひどくなって田舎に縁故者がある人は疎開をしていましたが、疎開するところがない人はそこに皆が集まって勉強をしていたのです。ですから、原爆にあったとき、すぐ弟を助けに行かなければならないと思いました。

妹は、私と同じ山中高等女学校を卒業して、挺身隊で吉島の飛行機の部品を作る工場へ行っていましたが、その日は家にいました。

私も休みをもらって家にいました。

我が家は朝が早い家でしたから、原爆が落ちたとき、みんな朝食を食べ終えていました。ピカッと光ったので、私はとっさに玄関のところから隣の部屋へ足を踏み入れたのではないかと思うのです。てっきり自分の家に爆弾が落ちたと思いました。祖母や妹、一番下の弟は居間にいたと思います。

家が崩れ、「助けてくれ」と言うと、前の家の太田しげみちゃんが「豊ちゃん一人で出るしかないのよ。豊ちゃん。豊ちゃん」と言うので、一人で出るしかないと思い、力んで上に上に、上がりました。何とか自力ではい上がることができましたが、顔に切り傷をしてシミーズ一枚だったと思いますが、パッと血がついたので、これは切ったなと思いました。このままでは逃げられないと思ったので、ぶら下がっていた服を着た覚えがあります。

二軒となりの圓石のおじさんが「助けてくれ。助けてくれ」と言うのが聞こえました。しかし、我が家のことで、それどころではありません。見ると、おばあさんは座って裁縫でもしていたのでしょうか。居間と奥座敷の間の壁が足の上に落ちていました。どうしようかと後を振り返ったら、どぶ川を挟んで裏にあった山口の缶詰工場から火が出ているのです。兵隊さんの糧食を作る缶詰工場だったので、かなり大きな工場でした。

家の前の狭い道は、自分の家がどうなっているかと急いで帰って行く人々がたくさん通っていました。道といっても、家の瓦が全部落ちて分からなくなっていました。でも、靴を履いた人たちはどんどん通って行くのです。私は表に出て「おばあちゃんを助けて」と言って、その中の男性の手にぶら下がりました。そうしたらすごい顔をして私の手を振り払うのです。それで次の男性の手へ「助けてください」と言ってぶら下がったのです。その人は「どこなんだ」と言って、家に入ってくれたのです。その人と私とで壁を持ち上げ、おばあさんはやっと足を引き抜くことができました。

妹はと思って見れば、何かが飛んで来たのでしょうか。ちょうど胸の上辺りと右手首を切っているのです。血がどんどん出ていて、「もう死ぬけぇ。もうだめだから。あんたら逃げて」と言うのです。私は「あんた、そんなこと言いなさんな。とにかく逃げないとだめよ」と言って、連れて逃げました。

一番下の弟はけがをしていませんでした。おばあさんが裁縫をしようと出していたサラシがあったので、それを裂いて、その子を背負い家の外に出ました。

外はがれきで素足では逃げられません。少し離れた所に大木さんという家があって、子どもの頃よくかわいがってもらいました。その家の下駄箱がちょうど家の前に飛んで来ていたので、中にあった履物を履いて広い道路(十二間道路)まで逃げることができました。

地獄とはこういうものだと思っています。私は、自分の家だけに爆弾が落ちたのだと思っていました。あたり一面なにもありません。とにかく火の来ないところへ逃げるしかないと思いました。
 
●差し出された救助の手
私たちのように田舎に親戚がいない者は、避難場所が地御前国民学校と決まっていました。隣組できちんと避難場所が決まっていたのです。

それで、とにかく西大橋のところまで逃げ切らなければと、その橋を渡ったのです。庚午橋付近まで来たとき、草むらで妹がへたりこんで動けなくなってしまいました。ここで休んでいるとき、黒い雨に遭いました。

そこで、親切な中年の婦人に出会いました。「私は己斐に用事で来たけれども、この状態では家に帰れない。この若い人がかわいそうに」と言って、自分が持っていたタオルを使って止血をしてくれ、水をくんできて「口をすすぎなさい」と言い、助けてくれました。あの人は本当に命の恩人です。その人の名前を聞かなかったのが残念です。崩れた家からおばあさんを助けてくれた年配の男性といい、中年の婦人といい、おられなかったらどうなっていたことか。

この頃になると、暁部隊がどんどん救援のトラックを出していました。暁部隊は宇品に本部があった船舶部隊です。兵隊さんにはお世話になりました。ありがたかったです。私たちはここからトラックに乗り草津国民学校に行きました。そこが救護所のようになっていたようです。しかし、後からどんどん負傷者がやって来てずっといることができないため、その日のうちに楽々園まで行き、治療しました。楽々園の電車の停留所からちょっと下りたところに広場のようなものがあり、土の上で一晩寝ました。ここでやっと妹は治療を受けることができました。麻酔も何も無いのに、パッパッと右手首を六針程度縫いましたが、化膿し、完治するまで十か月以上かかりました。私は、やけどは負っておらず切り傷でしたから、治療をしてもらった記憶はありません。血が出ていましたが、傷は浅かったのだと思います。おばあさんも治療してもらいました。

その夜、隣で寝ていたおじさんが「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」と一生懸命叫んでおられるのです。全身やけどなので手なんか挙げられない状態なのに。叫んでおられたと思ったら、朝には息が絶えていました。

次の日の七日には、地御前国民学校に着きました。

観音の集会所で勉強していた一番上の弟は、被爆で倒壊した観音集会所から抜けて出られたと言うのです。みんなが逃げているので自分も一緒に逃げ、地御前で私たちと出会うことができました。

両親は大内越峠で被爆後、「家の者はどうしたかね」と話をしながら地御前国民学校へ向かいましたが、途中、子どもがいたので川を連れて渡ったようです。放射線を受けたかもしれませんが、けがはしていませんでした。その日は五日市で日が暮れたので、母の妹が疎開していた所に泊めてもらいました。
 
●被爆直後、学校にて
八日、勤めていた舟入国民学校へ行くことにしました。六日は学校を休んでいましたから、学校では私が死んでいると思われているかもしれません。責任を感じて、とにかく学校に連絡に行かなければならないと思いました。母も「付いて行く」と言って一緒に行きました。

学校は舟入でも随分南の方ですから焼けていませんでした。舟入国民学校は広島市立第一高等女学校と電車道路を挟んで反対側にあり、学校の音楽室から女学校のプールがよく見えました。私が赴任する十年前にできた新しい学校です。私が小学校四年生のとき、観音尋常小学校が狭いために、一年間舟入尋常小学校に行った覚えがあります。舟入小学校には縁があると思います。教員になっても、ここで助かったわけですから。

舟入国民学校では六日は校長先生がお休みで、笹村教頭先生が朝礼をしておられたのです。原爆が落ちた瞬間、朝礼台の上で「退避」と言われたのですが、児童二人が亡くなったと聞きました。笹村教頭先生は小学校の運動場で罹災証明をどんどん出されたのです。

今では九十九歳になられましたが、市の教育次長をされたり、長い間、被爆体験の証言をされていました。今春も私がお世話をして、舟入会といって、その当時の教員が集まり、ホテルで食事をしました。教頭先生も呼びました。やはり舟入小学校は懐かしいです。物はなくても一生懸命に頑張った青春時代です。

その当時、舟入国民学校は安佐郡狩小川村(現在の広島市安佐北区)のお寺へ集団疎開していました。当時は物が無いし、大豆をいったりして食べるのです。原爆でお父さんお母さんが死んだ子もいます。遠くのおばあさんに育てられた子もいます。三年生か四年生の年齢でかわいそうだったです。その中の一人が、年末には福島県いわき市からかまぼこを教頭先生のところへ送ってきてくれます。また秋には梨を送ってきて、私のところへもおすそ分けしてくださいました。

八日に舟入国民学校に行ったとき、関岡先生がおられて二人が抱き合って泣きました。先生は「うちの敏子が分からん」「先生が観音橋を渡ってくる途中だと思う。あんたは生きとったんじゃねぇ」と言われました。県立広島第一高等女学校、今の皆実高校に行かれている娘さんでした。関岡先生は私より十五歳ぐらい年上の方でしたが、戦後もとてもよくしていただきました。

学校へ連絡に行ったその足で、我が家へ向かいました。途中、観音橋も落ちかかっていたようです。まっすぐではなかったように思います。自宅へ戻ってみると、土がまだ熱いのです。斜め向こうに吉野さんという家があったのですが、その前の防火水槽の中へ男の人が頭を突っ込んで死んでおられました。熱かったのでしょう。

私の家では空襲で焼けないように、大切なものは庭に埋めておいたのですが、多少陶器類が残っていただけでした。舟入国民学校では体操倉庫は焼けなかったので、体操倉庫に置いておいたものだけ少し助かりました。
 
●被爆後の生活
終戦前には、一家そろって地御前国民学校に少しおりました。そして高須へ引っ越しをしました。高須の隣組が「明日は大事なことがあるから、よく聞いて下さい」と触れ回っておられたのを覚えています。それは八月十五日の天皇陛下のお言葉でした。高須の家には、もともと舟入国民学校の山田という裁縫の先生が住んでおられました。山田先生は「主人が兵隊から帰ってきたし、アメリカ兵がどんどん入ってくるから家を出て宮内に帰るので、借家だけれど、あなたそのまま入りなさい」と言ってくださり、私たちはそこに入らせてもらったのです。

山田先生の長男は県立広島第二中学校一年生で、勤労奉仕へ出ていて原爆に遭われたのです。ちょうど今の西平和大橋の東側に慰霊碑があり、そこに名前が刻んであります。山田先生は「主人が兵隊に行っている間に、長男を死なせたら申しわけない」と言って、捜しに行って見つけられたのです。戸板に乗せて連れて帰られました。

最初、お伺いした時は生きておられたけれど、全身やけどで普通に水も飲めないので筆に水を含ませておられました。かわいそうでした。八月十日頃に行った時には、すでに亡くなっておられました。

戦後の暮らしは食べるものが無くて大変でした。日本中みんながそうでした。私はまだ幸せな方だと思います。雑炊を食べるのに並んだりもしましたが、食べることはまあまあできました。学校では、昭和二十二年ぐらいから給食が始まったように思います。

私は昭和二十三年三月末に退職して、四月に結婚しました。現在の中区にあるショッピングセンターフジ前辺りに住みました。辺りはがれきでしたから、そこから八丁堀の電車が走るのが見えました。

すでにあの頃は国民学校が小学校となっていて、教育内容も戦前・戦中の教育勅語や御真影なども無くなり、ガラッと変わっていました。
 
●健康状態
二番目の弟は六十二歳で亡くなりました。

妹は現在七十八歳になるのですが、五年前に肺がんになり広島赤十字・原爆病院で手術をしました。原爆の影響かもしれません。

私は五年前に腸閉塞、背中の圧迫骨折もやったし、高血圧等悪いところがいっぱいあります。しかし、八十歳にしては元気だなと思います。膝関節症のため杖で歩いていますし、白内障の手術もしましたが、元気と言わざるを得ません。母が八十三歳で亡くなりましたが、母の年齢までは生きたいと思っています。かかりつけの先生から「今の状態なら大丈夫です」と言われています。苦労というのもありません。私は日本に生まれて良かったなと思っています。今はありがたいと思います。

去年、高橋さんというブラジル・サンパウロ在住の方が、被爆六十周年で広島市の式典に代表として参加されました。昭和三十五年頃、家族五人でブラジルへ行かれたのですが、広島に親戚もいないので、私の家を頼って訪ねて来られたのです。それで赤十字・原爆病院で検査をしてもらって、一か月くらいおられました。兄さんと妹さんは広島市に感謝しておられました。見舞いに行ったり、食事に連れて行ってあげたりしました。
 
●平和への思い
私は今も八月六日原爆の日には、ずっと原爆供養塔にお参りし安らかにお眠り下さいと手を合わせ、ご冥福をお祈りします。そして現在の自分が長生きをして日本の国に生まれた事を感謝しています。

イラク、中近東やアフリカを見たら、かわいそうでなりません。やはり平和でなくてはいけません。戦争はしてはいけません。一番かわいそうなのは子どもやお年寄りです。

今はいじめや自殺者が多いですが、やはり家庭の中の平和が一番大切です。教育勅語にも「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ」というのがありました。教育勅語を出して言う必要もないのですが、今は「和」というものがありません。感謝の心が大切です。

最後に、「次の世代の人には平和を大事にしてほしい」と伝えたいです。 

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