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私の被爆体験 
黒川 功(くろかわ いさお) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所 桐原容器工業所(広島市舟入川口町[現:広島市中区舟入南四丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 山陽商業学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●当時の生活状況
昭和二十年当時、私は父、母と三人で水主町に住んでいました。私は当時十三歳で山陽商業学校の二年生、父の勝一は建築業を営み、母・ナヲは専業主婦でした。

原爆投下の二年前、私が中島国民学校の六年生だったある日、自宅のベランダにいると、戦闘機が二機飛んできました。興味本位でそれを眺めていると、いきなり機銃掃射してきたので、慌てて陰へ隠れたことがありました。父に「上のほうへ上がって、何をしているのだ」と怒られ、それからは警戒警報や空襲警報があると、家から外に出ないようにしたものです。

戦争が激しくなり、昭和二十年の四月頃に、私は学徒隊として舟入にある桐原容器工業所へ動員されました。火薬を入れるための樽を作る工場で、朝から夕方まで木材を乾燥させ、樽を作る作業をしていました。

授業らしいものはありませんでしたが、休憩時間に俳句を書いて、詠まされたりしました。一度俳句で表彰されたことを覚えています。また、朝礼では皆で軍人勅諭を唱え、先輩には敬礼して挨拶をするなど、軍国主義が徹底させられていました。
 
●八月六日の様子
六日の朝、私は動員先の工場にいました。八時の朝礼を終え、私と同僚二人の三人は、木材を乾燥させるためのボイラー室に入っていました。そして、前日に入れて乾燥した木をトロッコに積む作業中に、突然ピカッと光ったのです。最初はボイラーが破裂したのではないかと思いましたが、その直後ドーンという音とともに、前の建物が倒れて真っ暗になったので、爆弾だとわかりました。私は、目と耳を手で押さえ、伏せました。しばらくして明るくなったので外に出ると、工場の建物がすべて倒れていました。

私たち三人は、レンガ造りで頑丈だったボイラー室が防空壕のような役目を果たしてくれたおかげで、幸いにも無傷でした。しかし、周囲には「熱いよ、熱いよ」とか、血を流して「痛い、痛い」と言っている同僚がいました。爆風で倒れた木材の下敷きになり、亡くなった者も三人いました。

無傷だった引率の先生と私たち三人が、担架二つで負傷者を広島第一陸軍病院江波分院に運びました。そして、工場と病院を二、三回往復し、負傷者の搬送が一段落して工場にいた時のことです。突然B29が飛んできたので、慌てて防空壕に入りました。しばらくして外に出ると、黒い雨が降ってきました。おそらく、午後二時頃で、短い時間だったと記憶しています。

その後、自宅のある水主町に帰るため、本川を渡し船で渡ろうと工場の近くにある船着き場に行きました。そこで、偶然父に出会いました。父は宮島線の電車に乗っていて、古田町あたりで被爆し、同じように自宅に向かっているところでした。父との再会を喜び、一緒に帰ることにしましたが、自宅の周辺は火災が激しく、近寄ることができません。あたりが薄暗くなったころ、ようやく火の勢いがおさまってきたので、自宅の焼け跡まで行くことができましたが、そこに母の姿はありませんでした。近所の人に聞くと、母は、母の姉の家がある五日市(現在の広島市佐伯区)に行ったとのことでした。

その日は、近所の人が「緑井(現在の広島市安佐南区)に里があるので一緒に行こう」と誘ってくれたので、父と一緒に徒歩で行き、一夜を過ごしました。緑井のその家では、原爆が落ちた瞬間、「広島のほうがえらい明るくなったのう。煙が上へ上がるし、おいおい何か分からんが、爆弾にしちゃあ大きいよのう」というような会話をしていたといいます。緑井では原爆の被害はまったくありませんでしたが、爆風は感じたそうです。
 
●八月七日以降の生活
翌七日の朝、自宅の様子を確認するために、父と水主町に帰りました。その途中では、悲惨な光景をたくさん見ました。現在は平和記念公園になっていますが、天神町筋というところがあり、そこには腹わたや脳みそが出た死体が転がり、防火水槽の中では七人が丸裸で丸焼けになって死んでいました。そして住吉橋のたもとでは、兵隊が丸裸の死体を、老若男女問わず山積みにして焼いていました。どれもむごい光景で、見るに堪えられませんでした。

そして自宅に着きましたが、何も残っていない焼け跡を見てがく然とし、途方に暮れました。しかし、その場にいてもしかたがないので、母を捜すべく、父とともに五日市の伯母の家へ行きました。

母は幸いにも左腕に軽いやけどをした程度で、伯母の家で元気にしていました。母は、爆心地から近い水主町の自宅で被爆したのですが、爆発の瞬間、我が家だけが奇跡的に壊れず、軽傷で済みました。まもなく周囲が火災になり、火の海になったので、近くの本川の雁木に避難しました。しかし、熱風が来るので熱くなり、川の中に入ったそうです。泳げない母は流木に身を寄せ、流されそうになりましたが、近くの人に引き寄せてもらい、石垣にもたれて過ごしました。そのうち干潮で足が川底に届いて、命が助かったそうです。明治橋の上には、着衣が焼けてボロボロになり、やけどをして「熱いよー」と言っている人や、「水をちょうだい」と言って苦しんでいる人が十数人いましたが、助けることもできず残念だったと言いました。

また、五日市の自宅にいた伯母は元気にしていましたが、伯母の夫は、上流川町にある勤務先の中国新聞社で被爆し、亡くなったそうです。その後七日から二十日までは、両親と三人で五日市から自宅まで毎日歩いて通い、焼け跡を整理しました。          

二十日以降は、山県郡大朝町(現在の山県郡北広島町)の父の知人の家に家族三人で身を寄せました。その家は、大きな農家であったため、食べ物には不自由しませんでした。その間、父は吉島本町にある貸家の修理のために、その知人の家と往復する生活をしていました。そして、九月の下旬頃に修理が終わり、それ以後は、現在まで吉島本町の家で暮らしています。
 
●生活の再建
被爆により、水主町の家にあった現金と預金通帳がすべて焼けてしまいました。レンガで防空壕のようなものを作り、お金はかめに入れてその中に納め、さらに土に埋めていましたが、かめに蓋をしていなかったため全部焼けていました。建築業をするために保管していた大金が一瞬にして灰になり、生活再建には大変苦労しました。

特に食糧の確保に苦労しました。芋の子を団子にしたものや、配給でもらった玄米を主食として食べていました。玄米を配給でもらって、玄米だと知らずに普通のご飯のような炊き方をし、焦げてしまったこともあります。また、自作のパン焼き器を作り、トウモロコシの粉で作ったパンを焼いたりもしました。

しかし、それだけでは食糧が足りず、伯母の知り合いが豊田郡本郷町(現在の三原市)で農家をしていたので、着る物を米と交換してもらったり、米を購入したりしました。当時の配給制度では、そうして手に入れた米は、警察に見つかると没収されるので、警察の目をかいくぐるために、お腹に巻いて米を運びましたが、重くて歩きづらかったです。

また、着る物や履く物にも苦労していました。着る物は軍服のお下がりなどが、くじ引で当たると配給されました。履くものは、当時は靴がなかったので、わら草履の下へ板を打ち付けたものを履いていましたが、歩きづらかったです。今はお金を出せば欲しい物が手に入りますが、当時はお金を出しても物が無い時代でした。
 
●学校の再開
原爆投下により、宝町にあった学校の校舎はすべて焼失しました。被爆当日、同級生は市内の軍需工場に散り散りに動員されており、中には亡くなった者もいましたし、一学年下の一年生は爆心地近くに動員されていたため、ほとんどが亡くなったようです。

昭和二十年の十月初旬に、佐伯郡観音村(現在の廿日市市)の山陽高等女学校の一部を借用し、授業が再開されました。私は宮島線の電車で通いましたが、山陽本線の列車は本数が少なかったため、機関車の上部の石炭などを積んでいる部分に乗って通っている生徒もいました。

そして、昭和二十一年四月に、元宇品町の兵舎を仮校舎として、本格的に授業が再開となり、昭和二十三年になって新築された宝町の校舎に移り、卒業まで通いました。生活費を浮かせるために、どちらも徒歩か自転車で通いました。

学校生活にも苦労はありました。授業は、教科書が無かったため、プリントが配られました。しかし、それだけでは不十分なので、先生が黒板に書いた字を全部書き写す必要があり、書くのに精一杯で、説明はあまり聞いていませんでした。また、今のようにおかずがあまりなかったため、学校へはご飯に梅干し一つだけの弁当を持って行きました。弁当箱はアルミでできていたため、梅干しの酢で穴が空くこともありました。学校から帰った後も、家の手伝いをしたり、知人の家に行って、野菜作りやてんびんで肥を担ぐ作業をしました。

私の学生時代と比べると、今の若者は恵まれていると感じます。
 
●学校卒業後から現在までの生活について
学校を卒業後、広島県庁に入庁しました。入庁すると、ボイラー室の中で共に被爆した先輩がいたので、驚いた記憶があります。県庁では周りにも被爆者が多く、差別を受けたことはありませんでした。

そして、昭和三十二年に結婚しました。妻も被爆者ですが、当時、祇園(現在の広島市安佐南区)に住んでいたため、大きな被害は受けていません。その後、子どもを授かりましたが、被爆の影響は特に心配はしませんでした。

私自身も、ボイラー室に入っており、直接放射線を浴びなかったおかげか、被爆による後遺症などは感じていません。被爆直後に市内を歩き回ったので、下痢をして、少し髪の毛が抜けましたが、そのうち自然に回復しました。最近、肝臓や胆のうが悪くなりましたが、原爆の影響かどうかは分かりません。 今振り返ると、戦後の生活苦はありましたが、一家三人が無事でいたことがなによりだったと感じています。
 
●平和への思い
これまで、どのように話していいのか分からないので、自分から進んで他人に原爆体験の話をしたことはなく、原爆の話題が出たら話す程度でした。しかし、自身の被爆体験が何か参考になればと思い、今回自分の体験記を残そうと思いました。

被爆したからこそ、平和の重要性を強く感じます。原爆の悲惨さを次世代へ伝えるために、体験談を話すなどの活動が重要ですし、それとあわせて啓発活動にも努めなければなりません。また、次世代が平和に専念するように、平和の尊さを感じさせる何かがあればよいと思います。広島市が推進しているように核兵器廃絶に向けての運動も必要だと考えます。

原爆は、たった一発で市全域がやられるというひどい兵器です。原爆ほど無残なものはないのです。このことを皆さんに知ってもらいたいと思います。 

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