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被爆体験について 
黒木 俊一(くろき しゅんいち) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部教育船舶兵団船舶工兵第9連隊補充隊(暁第16709部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私達は広島県豊田郡忠海町(現竹原市)の高等女学校の校舎に駐屯していました。救援活動の出動命令をうけ、七日午前九時出発との命令でした。広島市に近づくにつれ一面の焼野原で、あちこちがくすぶり、煙がのぼり異様な風景にびっくりしました。駅には汽車は入れず数キロ歩き広島駅に到着。焼けた客車に黒こげの死体が折重っており、目をそらす惨状でした。

目的地に向ふ途中、市内の様は一変し街は焦土と化し、家屋は倒れ道路には架線や電線が下り、路上には、多数の死傷者がいて兵隊さん水を下さいと叫ぶ声、又呻き声があちこちから聞へましたが、私達は野営地につくまでは、どうすることも出来ませんでした。物を片付けながら行軍し、とある広場に到着。ここで野営との命令。ただちに荷物をとき野営準備にかかる。あとで此の地名は稲荷町と聞きました。午後四時頃準備完了。救援活動に入る。

負傷者はひどい熱爆風のため、大部分の負傷者はひどい火傷で焼けた皮膚ははげて手先まで下り、顔ははれ男女の別が出来ないほど。まさに此の世の地獄で惨状は言葉には出ない。
我々はぼうぜんとして手のほどこし様がなかった。軽傷者には油薬をぬる程度の治療でどんなに苦しかっただろう。重傷者は其のままの状態でした。軽傷者は本部から来たトラック、舟で搬送されていきました。搬送された一般市民の負傷者は、大部分死亡されたとあとで知りました。又同時に死体の収容そして火葬を行った。火傷、熱風による黒こげ死体。建物の下敷になって死亡した者、男女の性別不明者もたくさんおりました。身元のわかるものは胸より名札を取り性別、年令を記して封筒に入れ整理する。火葬といっても広場に穴を掘り死体を入れ、木くずを入れ油をかけ処理しました。私達の中隊で処理した死体は身元不明者が多く爆風のひどさを物語っています。

日がたつにつれ真夏の暑さと火傷である死体はどんどんくさって、臭気は此の世のものではなかった。私達も疲れきっていた。作業もきつく大部分の兵隊は腹痛、下痢の症状がありました。私も例外でなく下痢、そして頭髪の一部がぬけた。我々は身体の調子が悪くとも、一日も休まず頑張った。土の上に毛布を敷き、其の上に寝て暑くて生水はのみほうだい。其の上風呂に入らず体を水でふく程度、まさに■一線■の生活でした。

我々も相当量の放射能を浴びたと思ひます。原爆とは私達は戦争に敗けてから知りました。それまでは特殊爆弾と云われていました。原爆こそは大量殺人であり人類滅亡の爆弾であり、其の非道さには心から憤りを感じた。二度と原爆を使用してはいけないと思ひます。
  

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