一九八八年六月一九日調布市原爆被害者の会(調友会)発行の「明日へわたしの証言」より一部転記致しました。
私は妻と三才になる娘を会津に残し(発電所建設工事に従事)昭和一八年一二月一日広島工兵隊に召集教育を受け、その後九州地区に飛行場整備、砲台築城等の作業を終り二〇年八月一日五九軍司令部に転属となりました。軍の兵舎は広島城の敷地内森の中に三角屋根のバラック建です。
八月五日の夜市内に空襲警報が出され私達は夜間警備にあたりました。その為翌日勤務開始時間が三〇分遅くなりました。従って八時過から食事~跡片付で屋外の食器洗浄場五メートル×一〇メートル程度柱五~六本ルーフィングの屋根囲いなしで私と戦友一人で食器洗浄中B-29の爆音がしてきました。戦友が宣伝ビラを撒いているぞと叫びました。それが原子爆弾だったのです。
次のしゅん間シューとするどい音ピカット眼をさすような、暗いところで写真のフラッシュを感じました。
ザーといふ音と同時に真暗になり何も見えません。私は吹飛ばされた感じです。手さぐりで身体を動かそうとしますが身体の自由がききません。自分だけ助かったと思い妻や子供身内のことが次々と頭に感じました。時の経過と共に辺りが少しづつ視界に入りました。私は立木の枝にかぶさって身動き出来なかった様です。立上って周囲を見ると各所火の海です。
天守閣、司令部、兵舎あらゆる建物は倒かい火災です。はげしい黒い雨が降りはじめ私は天に向って雨水で喉の渇きと城の石積の壁に寄りかかり火災の熱をしのぎました。
被爆五〇年も生命があるとは考へませんでした。被爆直後一〇〇年は草もはえないと聞きました。今日まで元気でいるのはと何時と考えています。
(1)外傷(やけどその他のきず)のないこと。
(2)年令的に体力がよわったその為に爆後安静にしていた。
(3)広島から一一月に東京に移って医者でビタミン剤注射、 六ヶ月職場を休んで静養した。
(4)被爆検診を受け指示を受けていること。
私の広島の家族は母、一郎(本人)、文子(妹)、博子(妹)、輝雄、睦子、幸雄、全員被爆者です。
一九八五、母死亡(病死)九六才
被爆死 妹睦子 二〇年八月二二日死亡 千田町にて勤労奉仕(火傷)
弟輝雄 二〇年九月四日 死亡 国鉄勤労動員銀山町付近(被爆後連絡のため身体が動いた) |