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体験記を読む
秋田県被団協に向けての再掲稿『被爆について思うこと』 
厨川 克巳(くりやかわ かつみ) 
性別 男性  被爆時年齢 21歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 広島市宇品町[現:広島市南区] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部船舶整備教育隊(暁第19809部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
まえがき

おもえば、学校教練で育ち「国体の本義」という一つの哲学の中で学友たちは、好むと好まざるとに関わらず死んでゆきました。

いま、その面影を偲び、戦争悪の下敷きになって、生を断ち切られてしまった数多くの広島市民や被爆された方がたのご冥福を、ここに改めて心からお祈りいたします。

そして私にとって、おそらくは一生に一度かもしれない体験からと、自然のなかの「ひと」の生きざまを顧みながら、このつたない言葉を捧げたいと思いました。

こうしている間にも、中近東の戦いの場で無辜の婦女子が銃弾に倒れて死んでいく、生なましい映像が私たちの目の前に流れて来ます・・・・・・

「赤と白」
(昭和二十年八月六日のこと)
巨大な火柱が 立ちはだかった
ピンクの光と圧風が 熱の束になって頬を殴り眼を刺した
特殊爆弾 と 直感
机の下には すでに ガラスの破片で 血塗られた 自分の掌が あった
学徒の集まりだった 隊は その時 宇品にいた
いまや 人間のかたをした 化身たちは 断末魔の呻吟で 荷車やリヤカーの上を のたうっていた
隊は この行列を受けて にわかに野戦病院となり救援隊となった
片面焦げ茶に焼け 片面緑のままの街路樹の下を 爆心地へと早駆けた
「まぼろしの兵団」と云われた 船舶司令部の命令であった
人びとは 阿鼻叫喚の巷の中を ワカメのように 垂れ下がった皮膚をおさえて 方向を見失った動物になってしまっていた
しきりに 水 をもとめて ちからなく うなった
医務室では 水の供給を禁じていた
火傷だから と 言う
手当はもはや 赤チンキだけだった 
リバガーゼは当時あったものか 既に尽きたものか 黄色は膿であった

軍という集団のなかに 居て どうしようもなく 無感動になってゆく 心理の異常さを 任務という命題にしがみついて ただ 黙々と遺体の処理に 走り回る 非情な鬼どもを 屍臭の染みついた軍服のなかに 見出していた

泳ぎのできる候補生たちは 熱風で 吹き飛ばされて 川に落ちた ビッキ(蛙)の 格好になってしまった 遺体を 何とかして川原に 曵きあげた
掴んだ手は 手術手袋が脱げるように ベロンと 抜けた
しかたなく 燒鈍(なま)った針金で 引張り上げた
流れはゆるく意外に澄んでいた
土手の斜面で 焼け棒杭(ぼっくい)を集めては 細ぼそと荼毘の煙を あげている血の気の失せた ご老人がいた

「兵隊さん いいですよ 俺の婆さんだから 俺の手で 骨を拾うよ」と 静かに言った
生ぐさい けむりも 清浄なものに感じた 合掌した

隊の仏教学生たちは従軍僧となって 遺体を火葬するごとに 自分の宗門に従って読経した
まだへその緒のついている 赤ん坊も いびつになった バケツに入れて 母親と覚しき 亡骸と一緒に火葬した 二体と 算えた
もちろん 名前は分からない
足の残ったひとは ゲートルを解いた
胸の残っているひとは縫い付けた名札で 何処の誰かを確認した

夏の真っ盛りである
キノコ雲の下は まさに地獄絵図が繰り広げられている
汗となきがらと腐敗の入り交じった すえた臭気は 幾条にも塩粉が吹いて 白い模様になった 軍服を すっかり身近なものに してしまった

半焼けの波トタンと 拾い集めた番線で にわか仕立の担架をかついで
「兵隊さん水を へいたいさん み ず ミ ズ」
声なき こえの間を 地図作りと 遺体の確認に ひた走る
もはや 末期のひとには水筒の 水を含ませて 最後を見取る

一瞬にして焼け落ちた 兵舎替わりの学校があった
焼け落ちの梁の下でもない 階段からの重なり降りなのか 一房の キャンベルのように 黒焦げの頭蓋が ピラミッドをつくっている
校庭にいたと思われる兵は 教示のとおり目と耳を手でふさぎまっ黒な姿焼きになって伏せている……惨(むご)い

白い 動くものが 視野に入った
鶏だ! 白色レグホンのおんどりだ
鳴きごえを 失ってしまったのか 怯えたように 隠れ場を探している 人影はない
トサカが赤い
瓦礫の中 小さな池の水は 干上がることもなく 赤白の金魚が泳いでいる!
水の外の出来ごととは 無関係に……
『おめがた(君たち)よぐ(よく)生ぎでだな(いきてたな)…』
異様な驚きと安堵が交錯して しばし現実を忘れさせる 時空であった

暗がりになってゆく 地獄絵も 焦土の熱気で 陽炎のように揺らいでいた 道路は日中の熱(ほとぼ)りを残している
吹き抜けた窓枠から狐火だけが 遠くに見える
「候補生よ これがほろびゆく日本の姿だ」区隊付きの若い将校の声は 心なしか震えていた

がらんどうになった紙屋町のビルで(福屋デパート2F)臭気と地底のざわめきの中で 仮眠を貪さぼった
明け方 若い軍医将校が飛び降り自殺を遂げたという
向かいのビルの二階は(福屋デパート別館)野戦病院となっていた
「戦死ということにはならないだろうな」誰かが言った

詔勅が下った すわ本土決戦のZ旗かと みんな思った

原隊(校)東京世田谷陸軍機甲整備学校の中隊長 陸士出の バリバリK少佐が割腹自殺を遂げた と広島の鯛尾のこの隊にも それとなく情報が入った

二・二六の早朝 非常呼集がかかり 上装を着ろ と下命
いまから宮城にお詫びに行くと行軍を起こした 淡雪だった
一面焼け野原のうすもやの中に 瓢瓢と立ち並んでいる石像群を なんとなく 薄気味悪く思い 
その笑いの表情の中に 虚なものを感じ取っていた たぶん石切りやの通りだったのだろうか
赤錆びた波トタンの囲いの下から 朝餉の支度で 出てきて 隊列を 憎らしげに見据えていた あの都民の目なざしは 
いまだに私の脳裏を離れないし 新しい上装軍服を脱ぎ捨てたい 衝動に駆られたものだったことを 思い起こした

戦争は終わった
瀬戸内海に一つ二つと灯りが 映った いままでの緊張を じわりじわりと ほぐしてくれる さざなみ であった
まだ兵舎は暗くしていた
闇夜の世界には キラキラと まぶしくみえた
はじめて自分たち甲種特別幹部候補生(特甲幹)の本当の任務が知らされた
薄いベニヤの舟に トヨタの六十五馬力のトラックエンジンを搭載し 爆雷二個を抱えて レイテ湾の華と散ることだった

いやしかし 戦況は最早や 終局を むかえていた それは本土決戦・水際撃滅作戦だった
本土上陸を阻止するには 如何(どう)しても「人間爆雷」が 必要だったのだ

ときに 日本本土には 陸軍二百二十五万三千、海軍百二十五万、計三百五十万余の兵力が 依然として温存されていた
また陸海軍を合せて一万六千機の保有航空機のうち 少なくとも六千機以上は 特攻作戦に使用可能と考えられていた
海軍こそ 戦闘可能の戦艦は皆無、空母二隻、巡洋艦三隻、躯隊艦三十隻、潜水艦五十隻という劣勢に追い詰められていた
この温存兵力の無言の圧力は占領政策に相当の変化をもたらした とうかがわれる

復員である 昭和二十年九月十日の曇天だった
老父母が 待っている
駅頭で 昔憧憬(あこがれ)の女性(ひと)だったF子さんにあった 弟さんの復員を待っているという

ふるさと秋田の駅は 静かだった
もらった軍隊タバコを車夫にやった「なんと勿体ない」と母がいう
向いの家の栃の木の葉を干してタバコの替わりに吸うために 近所のIさんが木から落ちて 腰骨(こしっぽね)を 折ったということだった

夜中に 茨島工場群の高圧線がショートする 
何台も弦バスを弾く重低E音と マグネシュウムを焚いたような閃光に 跳ね起き
ハタハタを呼ぶ 稲妻に 飛び上がったトラウマも いまは昔のことになった

音楽不毛のとき 渇いたこころを うるおしてくれたのは 若かりし頃の諏訪根自子さんの生演奏だった
会場は東宝映画館(現河北ビルあたりか)だった
アンコールに応えての チゴイネルワイゼンの哀愁を帯びたクロマチックな音の流れを口笛しながら帰途についた
余韻はなお こころに安らぎを残している

いま 五十有余年後の
或る穏やかな 冬の日に
落ち柿を
    しゃもじで掬う
               雪しろし

夜も更けて
  かぼそき炭を
     掻きあつめ

平和のなかの「赤と白」である
人間は何を考え何をしようとしているのか 誰しも思う
もともと 非合理的存在の人間だけれども 
自分を愛しい ことを知るものは 人びとを害することは しないだろうことを希いそして信じたい
やがてエントロピー平衡の時があって 
自分という宇宙が破滅する その ときが来るまで

あとがき

私たちの年代でなければ語れないこの黙示録を 自分あるいは心ならずも逝った仲間たちへの挽歌として そしていま在る生残った者のつとめとして捧げたい。

ともすれば風化してゆく歴史の、ひとりの語り部のはぎしりを 長い年月の「黙して語らず」の禁を犯して、長々と書きつらねてしまいました。

追記(一)

その日私は、爆心地から約三・五キロメートル圏内に居りました。東京世田ケ谷の陸軍機甲整備学校から、船舶整備教育隊転属と云うことで、広島市宇品にあった金華紡績会社の寮(現東洋自動車工業マツダ)を、夫々特殊目的を持った協同聯隊の仮兵舎として集結し、被訓練中でした。週番でしたので、隊員を兵舎に引率し終え、一人で将校集会所へ朝食をとりに行きました。箸を手に、飯を一口はこんだその時だったのです。まさに午前八時十五分でした。これからが、大変だったのです・・・・・・

草木も生えぬ、後遺症も必ずあると当時は言われましたが、なんとか生き長らえて今日在るのを、人とひととの出会いのなかで感謝しなければならないと思っております。

 追記(二)

さきに、秋田の駅は静かだったといいました。

岡山の駅は、転属のときは駅舎があったのですが、復員の通過のときは、プラットホームだけしかなかったのです。そしてその乾き切った灰色のホームには日本の陸軍将校が大の字になって、仰向けに倒れていました。

MPの姿は見えず、憲兵の腕章を付けた、子供みたいな日本の兵隊が、看るともなく列車のなかを視ていました。

土崎の空襲は広島の鯛尾で知っていましたが、いま降り立った故郷のたたずまいは、入校(隊)のときと殆ど変わりはありませんでした。

啄木の『ふるさと』の憶いが、緩い三拍子となって疲れ切った私の体躯を労ってくれたことでした。

追記(三)

そしていま、私たち年代では、物心ついてからこの方、夫々にいろいろの形での「生と死」への立ち会いがあったことと思います。その厳粛な体験の積み重ねだとか、時代背景の如何は問わず、長くもまた時には短くも感じられた過ぎた日々に憶いを馳せたとき、私の心の底を静かに流れる一本の地下水があるのを覚えました。

それは、数ある水脈のなかでも『地に悩める釈迦』(友松円諦)という一編の戯曲でした。そして(倉田百三)の『出家とその弟子』以上に、思春期当時の傷つきやすい少年ごころを捉えるには、あまりにも充分すぎるほどのインパクトがありました。長じて、自己の存在を確からしいものにしてくれているのは、恐らくはその水源の一偈(げ)である「心経」なのではないかと思われるのです。 
 
友はみな、行政に企業に、医学に教育、宗教その他に、功成り名を遂げております。早生まれで、然も晩生(おくて)である私が、いま出来ることはといえば、His conversation is a great relief to me.(あの人と話をすると心がすっかり軽くなる)とした、謂ばreliever(慰める人)として地域に、少しでも役立つのであれば・・・・・・と、分をも弁きまえずに、福祉ボランティア活動をすること、いや現に携わっていることになるのでしょうか。白鳥芦花の姿勢も今は、ネットワーク創りの尖兵たれに、変わってきております。

大方諸賢やなくなられた国語のK先生、言葉にうるさい行政OBの私の兄などから、気障にも横文字などを、しかも説教か、とひんしゅくを買うか、噴飯ものだとお叱りを被るところなのですが、言葉のもつ意味が、私の「いま」の有様を端的に指差しているように思われましたので、敢えて使わせて戴いた次第です。

その序に、といっては何ですが、いま一つの地下水としてずっと心に留めておりましたのは、深くは解りませんが、素粒子理論のなかで「一〇のマイナス三三乗センチメートル以下の超球体では、何ら特異な構造も存在しないし時空は泡沫である」といったこと、そして今日の物理学は、最早実証のできない抽象の世界に入っての理論になったと言われていることです。

所謂、テクノロジーも行き着くところまで行けば直観とのバランスを図らねばならなくなるだろうし、いままた混乱の中にある文化も、新しい目と想像力を持って、あらゆることを詳らかに調べながら学習してゆかねばならないこと、取りもなおさず皆が先生にならねばならないのだ……と或る科学者は言っております。ハードウェアとソフトウェアとの虹の掛橋が必要だと言っているのでしょうか…

E=mc二乗の効用を思い上がった人間たちが二度と間違った方向に使うことのないように、私達は目を凝らしていなければならないと思います。

金属という物質を、少なくとも戦争目的のために取り扱ってきたことのあるエンジニアの端くれとして、また有限である此の地球という星のうえに「いのち」あるものの仲間として、この章の終りにアインシュタイン博士の手紙の中から次の言葉を引用させていただいて、更に反省の念を込めさせていただきたいと思います。

「人間は、私達が『宇宙』と呼ぶ全体の一部、時間と空間において限られた一部なのです。人間は、自分自分、自分の思考や感情を自分以外のものとは区分されたものとして経験します…

実はこれは、人間の意識のなせる一種の光学的幻影なのです。この幻影は私達にとって一種の牢獄として、自分たちの個人的欲望や身近な数人の人達への愛情に縛り付けてしまうのです。

私達の課題は、自分たちをこの牢獄から解放して憐愍の輪を広げて生きとし生けるものと全自然とを、その美のうちに包むことでなければなりません。

だれも、このことを完全には達成できませんが、そのような到達に向かう努力は、それ自体、その自由解放の一部なのであり、肉的な安心立命のための基本なのです。」と。……

聊かストイックに過ぎてしまいましたが、……リルケの『マルテの手記』の中で「本来、血というものは身体の内にしまっておくものだ」という意味の一節があったことをも思い起こしました。

ただ追記を含めて(章を尋ね句を摘む)の愚をおかしていないかを虞れるものです。

平成十七年一月十四日  誌るす 

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