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被爆について思うこと 
遠藤 公子(えんどう きみこ) 
性別 女性  被爆時年齢 7歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 広島市第二国民学校(広島市南観音町[現:広島市西区南観音三丁目]) 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校一年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 私は当時国民学校一年生で西観音町に住んでいました。六日の朝空襲警報が出たこともあって遅刻をして登校。南観音町にあった学校(現在の観音中学校)の校門の前で被爆しました。爆風で体がとばされましたが門や塀に遮られてか、首の後ろに三センチメートル四方位の軽いヤケドが出来ただけで大きなケガもなく無事でした。すぐ家に帰ろうとしましたがその方角は火の海に見え戸惑っている時誰れかが危ないと私の手をとって学校の前にあったなすびの畑の中に逃げ込みました。しばらくして両親が捜しに来てくれ家族で古江にあった親戚の家に逃れました。

その道すがら黒い雨にもあい逃げ迷う人達、倒れている人など本当に恐しい風景でした。その後ケガをしていた母が一時危篤状態になったり弟のケガがいつまでも完治しなくて心配したり、家を失って間借りしての落ち着かない生活が続きました。それでも家族四人が生き残れたのは近所では我が家だけだったのです。

この六〇年、生かされたことは何んなのだろうという思いと戦争だから仕方がないのか、なぜ原爆を落さなければいけなかったのかという思いがだんだん強くなっていきます。

どんな理由であれ原爆は決して使用してはいけないのです。

アメリカは謝罪すべきです。日本も中国や韓国などから戦争責任を問われていますが戦争には勝者も敗者もなく、お互に不幸をもたらすだけです。

間違いを認めて謝る勇気、それを許す勇気が大切なのではないでしょうか。

被爆者ということで特別な目でみられたり中傷されたり、又健康上の不安を感じ多くを語らず今日まできました。

しかし戦争を知らない人が多くなり不用意な発言をする人も出てきている昨今、矢張り私の体験したことは伝えていかなければと思い今年の夏孫に話しました。大きなショックを受けた様子でしたが機会があれば多くの人に語り、一人一人が平和を願う気持を強く持ってほしいと思います。それがやがて戦のない平和な世界を作る力になることを切に願っています。

毎年八月六日を迎える度にあの日のことは鮮明によみがえり決して忘れることはできません。多くの犠牲者の冥福をお祈り致します。 

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