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五才の記憶 
塩冶 節子(えんや せつこ) 
性別 女性  被爆時年齢 5歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2013年 
被爆場所 広島市段原町[現:広島市南区比治山町] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
当時五歳の私は、爆心地から一・六キロメートルの段原町に住んでいました。家は、電車通りを挟んで比治山の向かいにあり、比治山の麓には比治山神社や多聞院というお寺がありました。父・関俊雄は日本発送電坂火力発電所に勤めており、母・光江と一歳十一か月の妹・悦子、父方の祖母・ウタの五人家族でした。

隣に茗井さんというお宅があり、優しいおばあちゃんが中学生のお孫さんと住んでおられました。私と妹が茗井のおばあちゃんの家に行くと、大きなたらいにお湯を入れて行水させてくれました。五歳の私は、「ぎょうずいさせてちょうだい」と言っていましたが、「とおい(みょうい)ばあちゃん、おせんたくしてちょうだい」と言っていたかわいい妹のことを思い出します。

●被爆の状況
昭和二十年八月六日、父は安芸郡坂村(現在の安芸郡坂町)の職場に、祖母と母、私と妹は自宅にいました。七時過ぎに発令された警戒警報が解除されてほっとした時間、母は縁側で新聞を読んでいました。私は縁側から一部屋隔てた部屋で祖母と遊んでおり、妹は玄関にいました。

八時十五分、突然の閃光と同時に私の体の上に天井と屋根が崩れ落ち、真っ暗な闇の中で、何が起こったのか分からないまま、私は直立した姿勢のまま動けなくなりました。突然、上から光が差して、母の手が伸びてきました。私は、その手につかまって助けられました。「瓦礫の中に埋もれてしまい、倒れかけたタンスの隙間に立っていた」と母から聞きました。母は、瓦礫の中にいた祖母も助け出しました。あっ、妹がいないと思って玄関を見ると、妹は倒れたゲタ箱の下敷きになり、眉の辺りを少しけがをしていました。母は、前日まで勤労奉仕に出ていたのですが、あの日はたまたま家にいました。もし、あのとき、母が家にいなかったら、私は今生きていないといつも思っています。

母に連れられて、家の前の小路に出ました。最初、母は自分の家だけが爆撃にあったと思ったのです。しかし、辺り一面家は倒壊し、遠くまで見渡せたので、これは広島全体が何かにやられたと思いました。

遠くに火の手が見え、こちらへ近づいていました。「大切なものを取りに帰るから、待っていなさい」と母が言いました。近くにいた男性に「危ないから今行っちゃいけません」と止められましたが、制止する声を聞きながら走っていく母の後姿をよく覚えています。周囲では、近所の人が泣き叫びながら、当時避難場所だった比治山に向かって小走りに走っていました。家の裏に住んでいた、坊やちゃんと呼んでいた男の子のお母さんは、「うちの子が、家の下敷きになって助けられないんですよ」と泣きながら逃げていました。

無事戻ってきた母と電車通りまで出ました。人々が流れるように逃げていく中で多聞院の方に目を向けると、やけどした人の列が、ゆっくりと比治山に向かって歩いているのが見えました。屋外で被爆して熱線をまともに浴びた人々で、髪は逆立ち、全身焼けただれ、やけどで皮膚が垂れ下がっていました。近くの鶴見橋で建物疎開の作業をしていた学生ではないかと思います。その光景は、今も私の記憶の中で生々しく悲しくよみがえり、あまりの悲惨さに胸が塞がれてきます。平和記念資料館で、人形で再現されている、あの場面と同じでした。

それから母は妹をおんぶして比治山に登る道を歩き、私は必死で母についていきました。祖母は茗井のおばあちゃんと一緒に歩いていたのですが、祖母とは途中ではぐれてしまいました。比治山の上まで来て市内を見回すと、私の家の方は全て建物が倒壊し、何も無くなっているのに、比治山の裏側にある家は山の陰になって倒壊を免れ、ガラスが割れたり屋根が飛んでいました。敵の飛行機が偵察に来たので、誰かがかぶっていた白い布団の下に私たちも入れてもらいました。私は、その頃B29の音が耳にこびりついており、当分の間、戦争と飛行機の音を切り離すことができませんでした。

●死に直面して
夕方、比治山の登り口まで下山したところで、はぐれてしまった祖母と会えました。広島に強力な爆弾が落ちて大変だということを聞いた父は、家族を捜すため職場から帰り、市内を捜し、私たちと会えました。みんなで家の様子を見に行くと、辺り一面火がまわって跡形も無くなっていて、ただ煙がくすぶっていました。また比治山まで戻りましたが、その途中男の人が焼け跡をスコップで掘り起こしていました。すると、焼け跡から坊主頭の男性の遺体がゴロンと出てきたのです。当時五歳の私は、それをじっと見ていました。そのときは、人の死が当たり前の状況でした。その場面は私の目に強烈に焼き付いており、今でもその光景が浮かんできます。

その夜は、比治山の登り口にある植込みで野宿しました。そこには、たくさんの人が運ばれてきたと思います。私の耳に、若いお姉さんが一晩中「お母さん、お母さん」と呼び続ける声が聞こえていました。顔を見たわけではありませんが、母を呼ぶお姉さんの悲しい声は、ずっと私の耳に残っています。翌朝、もう声は聞こえませんでした。「あのお姉さんはね、亡くなったんよ」と母が教えてくれました。

次の日、家を失った人々が多聞院に集まっており、私たちも二日ほど泊まりました。近所にあきちゃんという仲の良い子がいたのですが、夜、ろうそくの光だったのか、あるいは線香だったのかよく覚えていませんが、薄暗い炎に照らされながら、あきちゃんのお母さんが下の赤ちゃんを背負って「あきちゃんはね、外で遊んでいて亡くなったんよ」と言いました。私は幼いながらに、ああ、もうあきちゃんとは遊べないのだと思いました。

その後、十日間くらい比治山神社の傍らにある別荘に、ご近所の人のお世話で泊めてもらいました。その御夫婦にかわいい赤ちゃんがいましたが、母乳を飲ませることができないので、大人と同じ物を食べさせていました。そして、まもなくその赤ちゃんは亡くなりました。

茗井のおばあちゃんの孫に当たるコウちゃんは、当時修道中学校二年生で、おそらく市役所裏付近の建物疎開作業に動員されて、雑魚場町(現在の国泰寺町一丁目)で被爆したと思われます。似島に運ばれた後に、亡くなったと聞きました。よく遊んでもらっていたので、コウちゃんのことは覚えています。修道中学・高等学校発行の『流光―語り継ごう平和を 被爆五十年―』という図書の修道中学校原爆死没者名簿に「茗井弘明」と登載されています。

●終戦後の生活
私たち一家は、坂村にある父の会社の社宅に移り住みました。母は爆風で破れた服しか持っていなかったため、社宅の挨拶まわりをするときに、元宇品町に住んでいた友人に服を借りました。それは、グリーンに白い水玉のブラウスでした。挨拶まわりが終わった後、母はブラウスを友人に返しに行きました。心の中では、そのブラウスが欲しかったけど、口に出せなかったのです。何十年もたってから、その友人が「あのときあなたに、あのブラウスをあげれば良かったね」と言われました。たった一枚のブラウスですが、物の無い時代では、とても貴重なブラウスだったのです。今の子どもたちには想像できないことですが。

終戦の翌年、私は小学校に入学しました。薄っぺらな教科書がクラスに二冊か三冊しか無く、クジを引いて当たった人に教科書を借りて、父が薄い紙に墨字で写した手作り教科書を使って勉強しました。食事は、米の代わりにカボチャが入った水っぽい雑炊でした。給食は、パンと脱脂粉乳のミルクだけです。アメリカからの支援物資として届けられた脱脂粉乳を、水で溶いたものでした。坂村の級友は、麦や芋などを作っている家庭が多かったので、食べ物に不自由していなかったのか、脱脂粉乳を水飲み場に捨てに行っていました。私は、物の無い広島市内で育ったので、おいしく感じたし、なぜみんな捨てるのだろうと思っていました。

戦後に弟が二人生まれて七人家族となりました。また、母の実家の大三島から常にいとこたちが来て、同居していました。大三島では働く場所も無く、広島に来て洋裁学校に通ったり働いて、家族同様に過ごしていました。食べることも大変な時代でしたが、両親は代わる代わる一人ずつ、延べ七人のいとこを受け入れたのです。ささやかですが、みんなが元気で暮らせている、そんな小さな幸せをかみしめていました。私は子どもだったから当時は何も分かりませんでしたが、両親の苦労を今になって思います。海水を取ってきて塩を作ったり、段々畑を借りて芋を作っていました。私は両親の生き方から、生きる指針を学んだと思います。

●親友と妹の死
昭和二十二年、私が小学校二年生の冬、親友の片岡朝子ちゃんの死を教室で知らされました。
朝子ちゃんは広島市内で被爆しており、体に茶色の斑点ができて、突然クレヨンみたいな血を吐いて亡くなったと聞きました。しかし、そのときは朝子ちゃんが何の病気で亡くなったのか分かりませんでした。

昭和二十七年、私が中学校一年生のとき、妹の悦子は小学校三年生でした。私と同じくらいの背丈で、運動会のマラソン選手に選ばれて練習に励んでいました。九月二十五日、妹は突然の高熱におそわれたのですが、翌朝には熱が下がっていました。私が安心して、「行ってくるね」と声を掛けると、妹は「行ってらっしゃい」と言ってくれました。それが、妹との最後の会話になったのです。当時、私は坂村から列車で広島市の学校に通っていました。しかし、その日の下校途中に広島駅でいとこと会い、「お父さんから電話があって、悦ちゃんの具合が悪いんだって」と聞かされました。列車の発車まで時間があったので、急いで二人でバスで帰りました。

玄関に入ったら、母が泣きながら出てきて「悦ちゃんがね、さっき亡くなったんよ」と言いました。私といとこは、土間にヘナヘナと座りこんで大泣きしました。今朝「行ってらっしゃい」とほほ笑んでくれた妹は、静かに目を閉じていました。社宅の嘱託医の方が妹を診てくださったのですが、原因不明のまま自家中毒と病名を付けられました。

今であれば、原子爆弾の放射線が原因で妹や朝子ちゃんは病気になり、死に至ったのだと分かりますが、当時は知る由もありませんでした。
 
●被爆体験の継承
被爆六十周年のときに、被爆教職員の会において「あまりにも強烈な出来事だったから、五歳の子どもの記憶に残っている。それを語ってほしい」と言われたことがきっかけになり、修学旅行生に向けて被爆体験の証言活動や碑めぐりの案内をしています。私の被爆の記憶は、当時五歳ということもあって断片的です。妹の悦子、親友の朝子ちゃん、近所でよく遊んでもらったコウちゃんやあきちゃん、そして比治山で一晩中「お母さん」と呼び続けていたお姉さん、焼け跡から掘り起こされた坊主頭の男性など、五歳の私の目に映ったのは、人間の死の場面です。

初めは自信がなかったのですが、語っていくうちに、子どもたちの「人が亡くなっていく戦争の悲惨さ、怖さがよく分かった。これからも元気で語ってください」という声を聞くと、被爆体験を語ることは、私にとって意味があり、お役目なのだと感じています。

二十年前、広島駅前で朝子ちゃんのお母さんと偶然出会い、お母さんと私の交流が始まりました。お母さんは私の両親とも会い、故郷の豊島のみかんをくださいました。「朝子のこと覚えていてね」そう言ってお母さんは私に、一枚の写真を手渡されました。朝子ちゃんの写真は原爆でみんな焼けてしまったので、手渡されたのは、たった一枚残っていた小学校入学時のクラス写真の中から引き伸ばされた、朝子ちゃんの写真でした。朝子ちゃんのお母さんは、優しいお嫁さんと孫のいる奈良に行って、亡くなられました。私は、その写真のことを子どもたちに語っています。

●次代を担う子どもたちへ
今、心配なことは、平成二十三年三月に発生した東日本大震災による福島第一原子力発電所事故の影響で、被曝した子どもたちの将来についてです。妹や朝子ちゃんのことを思うと、子どもたちのことが案じられます。子どもたちの不安が取り除かれ、健康が保障できるようにと願っています。
げんばく

私が証言活動できているのは、原爆に関する発言が統制されていた時代に、母が私に真実を語ってくれたおかげです。家族五人の被爆者のうち、私ひとりだけになってしまいました。修学旅行生に被爆体験を通して生命の重みを語るとき、私も子どもたちと共に向きあっている瞬間を感じ、そのとき、原爆で亡くなり人生を全うできなかった人々の悲しみや悔しさを、私の口を通して伝えているのだということを実感しています。

若い日から介護の仕事をしていた私は、足腰に負担が掛かり調子がよくない状態ですが、できる限りこれからも証言活動を続けていきたいと思っています。子どもたちが過去の戦争の悲惨さを知ることは、未来に向けて平和への強い願いを希求することにつながっていると確信しています。

 

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