国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
 
大島 輝也(おおしま てるや) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2011年 
被爆場所 広島市己斐町[現:広島市西区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第二中学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私の生家大島商店は広島市猫屋町四一番地(榎町通り)にあって、雑穀粉の製造卸問屋を営んでいました。工場は猫屋町四一番地と市内三篠町の二ヶ所にありました。

私の記憶では県内の菓子製造業の人や小売業の人々は勿論のこと島嶼部の人々も帆船で本川の雁木に船を着け船頭さんが島の人々の注文を受けて買い物に来ていたのを覚えています。宮島の多くのもみじ饅頭屋さんもお得意様で父について集金に行ったこともありました。

太平洋戦争の戦局も日に日に熾烈さを増すと同時に次第に物資が不足になり人々の足も遠のき代って新しく軍部の注文で毎日大量のきな粉を製造する様になりました。町の小さな軍需工場です。

軍部から大量の大豆が持ち込まれその大豆を機械で煎って粉砕しそれを一斗缶に入れて密封して納入するのですが父は出征して北支に従軍していましたし町では働く人手が不足していましたがそれでも仕事は祖父(大島保吉)と何人かの若い人もいて毎日頑張っていました。

昭和二〇年八月六日私は広島県立広島第二中学校の二年生でした。

当時は夏休みもなく前日まで小網町の建物疎開作業に行っていました。

当日は一年生と交替で広島駅の北側の東練兵場の勤労奉仕(芋畑の除草作業)に行く予定でしたが安佐郡の可部町に住む親戚で法要がある為学校には休暇の許可をとっていました。早朝母と二人で市内己斐上町に住む母の姉を誘い一緒に行く約束をしていましたので己斐の旭山神社の下の小道を急いで歩いていました。突然後方からものすごい光線を受け大音響と共に強い爆風に吹き飛ばされ気が付いた時には幸い怪我もなく一瞬何が起きたかわからず茫然としていました。我にかえり母と二人で逃げるように伯母の家に向いました。通りがかりの家の中から悲鳴をあげ泣き叫ぶ人、怪我をしながら飛び出して来る人、何が起ったのかわからないまま伯母の家にたどり着きました。

やっと気分を落ち着け市内をみると街全体が火の海でした。前の道路には泣き叫ぶ声、母を求め助けを求めるうめき声、血だらけの腕、ボロボロの服、真黒い顔々、焼け爛れて苦しみ乍ら何処へともなく避難する人々の列・・・・・、まさに阿鼻叫喚と云うのでしょうか。人々は業火に追われ乍ら必死に逃げ続けていました。

何とその中に我が家に下宿し猫屋町の工場で働いていた山本さんがほとんど無傷で逃げて来たではありませんか。私は彼の顔をみた途端に自宅に居ただろう祖父母(大島保吉、トク)、他の従業員の安否、家や工場の様子を聞きました。彼の話によると工場の前にあった母屋と店舗は原爆投下と共に崩壊し、同時に火が出て母屋の中に居た祖父母を助けることもどうすることも出来なかったとか。彼自身工場の下敷きになり身動き出来ない時工場の裏の光道館にあった憲兵隊本部から二人の兵隊が来てすぐに助け出してくれた由。

その後は火の海の中を何処をどの様に逃げて来たか私を助けてくれた二人の兵隊はどうなったか、他の従業員の人々はどうなったか全然わからないと云う。今朝元気な声で見送ってくれた祖父母には再び逢うことは出来ないのだろうか。町の小さな軍需工場だった我が家の他の従業員の方々は、亦東練兵場へ勤労奉仕に行った二中の学友は・・・・。

翌朝道路を焼け爛れて亡くなった人々を大八車に山と積んで己斐小学校の校庭に作られた臨時の火葬場に運ぶ人が通りその車と共に泣き乍ら通る人達、本当に哀れでした。祖父母の事が心配ですがどうしても街に入ることが出来ません。やっと二日後の八日になって早朝母と二人で己斐駅から市内電車の線路を通って市内に入りました。道路には焼け爛れて亡くなった人々。水もない防火用水に頭から顔を突っ込んで亡くなった人達、電柱に括られたままの牛馬の死体、やっと辿り着いた我が家は軍需物資の大豆の山が燻り熱気で近寄れずただ遠くから眺めるだけでした。それでも見覚えのある焼けた金庫、灯籠、庭石、それに風呂釜などで我が家再確認して手を合せて帰えりました。十日市の電停近くには焼けて鉄の骨組だけの電車、相生橋の上の歩道に並んだ真黒い死体の塊り、川の中には水をもとめて川に入った人達か夥しい人々の亡骸。まるで此の世で地獄を見た様でした。帰宅の途中己斐駅で初めて広島に特殊爆弾が落された事を知り罹災証明と焼けただれたミカンの缶詰を二個もらって熱さの為か二人共ふらふらになって家に辿り着きました。

その日の午後従業員の山本さんは再会を約して元気に宮島の実家に帰えって行きました。その後毎日のように早朝から母と二人で猫屋町の家に出掛けて行きやっと元の仏間で祖父母(大島保吉、トク)の骨を近くに小さな愛犬の骨を見付けることが出来ました。

祖父母と再会出来て安心したのか、毎日日陰のない猛暑の中を歩き廻った事か母と私は高熱、脱毛、下痢に悩まされ床に臥せる日が続きました。

当時中学校二年生だった私の脳裏に今もなお昨日の出来事の様に鮮明に残るこの世の地獄絵、あれから半世紀以上たった今もハイテク兵器を使った大量殺戮の戦火が絶えない。原爆慰霊碑に刻まれた「過ちは二度と繰り返しませぬから」という人類の誓いを絶対に空洞化させてはならない。

 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針