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ノーモア・ヒロシマと原爆投下パイロット 
伊藤 宣夫(いとう のぶお) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 暁第16710部隊 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 昭和二十年八月五日、私は宇品の船舶司令部で送受信の軍務に従事していた。広島の古風な街並は、美しい星月夜の下で静かに眠っていた。ところが夜が明けると、原爆投下により市民の三分の一が一瞬のうちに殺されるという大惨事が起こったのである。戦闘能力も戦闘意志もない無防備市民をこのように、大量殺戮することは、如何なる観点からいっても許されない。しかし、私達はアメリカ人を憎む代わりに、自らのうちにある戦争責任をも反省しつつ、核兵器とそれを使用せしめた戦争一般を憎むことを学ぶべきだと思う。

一九四五年八月六日、暁の闇をついて「超空の要塞」爆撃機と呼ばれた米空軍機B29「エノラゲイ号」(これは指揮官ティベッツ大佐の母親の名前をとったものであった)爆撃目標は日本の「軍都ヒロシマ」であった。午前八時十五分、爆弾は33,000フィートの高度から落とされた。広島ではちょうどその時、343,969人の市民の大部分が、空襲警報解除のサイレンを聞いて防空壕から這い出していた。

広島への歴史的爆撃を決行した十二人の乗務員のうち、十人はこのたった一回の爆撃のために、十ヶ月間特殊訓練を受けた。他の二人は原子爆弾の製造に加わった科学者だった。ティベッツ・ジュニア大佐は「与えられた任務を完全に遂行できた。その日我々が何を運んでいるのかは知っていた。そのために訓練もし、また爆弾そのものも知っていた。ニュー・メキシコの実験を撮った映画も見せられたし、科学者達の話から、もし爆発が成功すれば、戦争が終わるのだということは知っていた。それが事実になったのはうれしい限りだ」。このように、彼はあの原爆投下に何の罪悪感も持っていないのである。

彼はヨーロッパで、第八、第十八航空隊付として、B17(空の要塞)で六十三回も爆撃に出動している。広島にあと一時間という所で「我々は歴史を創りつつある。今こそ、世界最初の原子爆弾を落としに行くのだと、大声で伝える。投下……最初に閃光がきらめき、彼は黒眼鏡ごしに、物凄い勢いで拡がってゆく光の海を認めた。光はどんどん強烈になったが、やがて消えた。数秒後に、機体は衝撃を受けてガタついた。それは、我々が想像していたのと同じ光景だった。乗務員の何人かが、その時、「オー、マイゴッド」(凄げえーぞ)と叫んだのを覚えている。激しい爆風に機は二、三度叩きつけられたが、別に危険ではなかった。我々はその時、この爆撃こそ戦争を終わらせるだろうと直感した。私は広島か長崎かどちらか、一つだけで戦争は終わらせることが出来たと思うね」。

モーリス・ジェップツン中尉は「原爆が戦争の終結をもたらすだろうと予期して、うまく爆発するか調査確認した。ただ、軍事施設を狙っただけだ。爆弾が全市灰塵にしてしまうだろうと予想もしなかった」。

副パイロットのルイス大尉は「私は戦争が終わるというようなことは、あまり考えなかった。しかし、あの光景は戦慄そのものだった。爆発の瞬間に何が起こったのかはっきり理解することは出来なかった。ただ、そこでは都市全体が一瞬の閃光とともに眼下に消え去った」。彼は原爆こそは全ての兵器のうちで最も恐ろしいものだという。

燃料補給係のワイヤット・ドゥゼンペリ軍曹は次のように答える。「個人的にはこう考えている。もしも、広島に原爆を落とさなかったら、日本を降伏させるため、更に何万人ものアメリカ兵の生命が失われたろう。私は今でも後悔の気持ちは全く持っていない。多くの非戦闘員を殺したが、私はこれからでも命令があれば、同じことはやってのけられる。日本だって先に原爆を持ったら、恐らくロサンゼルスやニューヨークに原爆を投下しただろう。私は落すまでは、あれが原爆だとは知らなかった。ただ出発前の指示から、何か特別な任務を感じていた。爆発後はじめて機長が、あれが原爆だと教えてくれた」。原爆攻撃は正しかったと弁護できると語った。

「ノーモア・ヒロシマ!」これが日本人を敗戦の廃墟から精神的に立直らせた民族のモラルであり、軍拡の声の高い不安な世相の中で、平和憲法と非核三原則を守って、泰然として世相と世界状況を観察して平和主義を厳守する。核戦争について特異な民族的体験を背負っている我等日本人は、軍事拡張傾向に歯止めを掛け、一般的軍縮と核兵器廃絶を目指す正義の潮流を先導する気概を持たねばならない。

四十余年前の核爆発のために、広島市が廃墟と化し、多くの戦友を亡くし、その後も数多くの被爆者の苦しみが続いていることに対して、日々痛恨の至りである。そして現在、世界での核兵器はどのくらい進歩したのか。それに伴う核戦略の思想は、どのように変わってきたのか。留まることを知らない米、ソ両超大国を始め、各原子爆弾保有国の核対決は、いったいどこまでエスカレートして行くのだろうか。……若かりし少年時代に原爆の苦い体験を知る我々として心痛の念を禁じ得ないのだ。
 
出典 『船舶特幹第三期生の記録』編集委員会編 『若潮三期の絆 船舶特幹第三期生の記録』陸軍船舶特別幹部候補生第三期生会編 1995年 pp.177-178
 

  

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