国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
原爆と広島平和記念公園 
伊藤 太郎(いとう たろう) 
性別 男性  被爆時年齢 5歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2013年 
被爆場所 広島市古田町高須[現:広島市西区(高須)] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

一.原爆の記憶

私、伊藤太郎は一九四五年六月、五才になりました。その前四月まで、水主町(現加古町)にある当時の広島市市長粟屋さんのお宅の別棟で生活していました。そこは爆心地から約九〇〇メートルのところでした。現在住んでいる高須に父親の造った家があったのですが、他人に貸していました。その人が三月に出て行ってくれたので、伯母澄子、姉千代子と引っ越したのです。もし、引っ越していなかったら・・・。

高須の家は爆心地から三・六キロメートルです。一九四五年八月六日八時頃から、姉と家の前の道路で遊んでいました。あの瞬間、快晴の空がさらにパッと輝きました。すごい爆発音がしたのでしょうけど、音の記憶はありません。すぐに、伯母に家に呼び戻されました。その時家を見ると、東方向に面した窓ガラスは全部粉みじんに壊れていました。なんで?と思ったのですが、強い爆風によるものだったのです。背が低かったし、向かいの家の陰にいたため、その爆風は頭の上を通り過ぎたのでしょう。裏庭に小さな、ちゃちな防空壕がありました。その中に連れ込まれました。その中には初めて入ったのです。床は水浸しでした。カエルが一匹いたのを憶えています。しばらくして、外に出ました。伯母は、ガラスの後始末をしました。そのうち、空が暗くなり、雨が降り始めました。それが黒かったことは憶えています。雨は直に止んだので、姉と、すぐそばの道路に行きました。その道は町の中心と西の郊外を結ぶ主要なものでした。(当時山陽道、今西国街道と呼ばれている。)そこで見たものは、長い人々の行列でした。衣服も、身体もぼろぼろ、文字どおりボロギレのような人々の行列でした。強烈な熱線と爆風を受けながらも、生き延びた人たちだったのです。家の辺りは、住宅地なので、休憩したり、のどを潤したりする場所はありません。人々は、そういう場所を求めて、沈黙で、静かに西方を目指していました。その様子は、まさに、後年見た、丸木美術館の位里さん作の「原爆の図」の通りでした。夜になると、広島市の中心部の上空は赤々と燃えていました。

電話等不通で連絡方法は人伝によるものだったのでしょうが、粟屋市長、息子さん、お孫さんは亡くなられたけど、夫人はご存命で、日赤病院にいらっしゃるとの。伯母は、ひどい状態の夫人を探し、高須の家にお連れしたのです。子供ですので、病状は良くわかりませんが、顔・腕に外傷があったこと、「こんなに、髪が抜けて・・・」のことばは記憶にあります。九月の初めには、お亡くなりになりました。

注一 私達姉弟の両親は、一九四一、四三年相次いで、亡くなりました。それで、父の長姉の尾木澄子に育てられました。また、尾木澄子の長女清子の夫が 粟屋市長夫人の幸代さんの兄 安藤潔(アンドウ・ゼンパチ)さんでした。
注二「粟屋仙吉の人と信仰」編集津上毅一 昭和四一年十二月刊 中に、尾木澄子口述『粟屋御夫妻をお世話して』。および、『生涯の八章 戦局下の広島市長として』にほんの少し私達姉弟について触れられております。

二.広島平和記念公園

公園ですから、当然、あっちこっちの多くの公園と同様に、市民の憩いの場所です。でも、この公園は、「憩いの場所」以外に、三つの重要な意味を持っているのです。

その一は、原子爆弾(核兵器の原型で、以下原爆という)によって出た沢山の犠牲者にたいして、『安らかに眠ってください』と「冥福を祈る場所」。

その二は、戦争によって、世の中の人々は不幸になります。『戦争の無い平和な世界が永久に続くように』と、「世界恒久平和を誓う場所」。

その三は、戦争になると使用される武器、その中でも最も残酷な兵器『核兵器が世界中から全て無くなるように』と、「核兵器廃絶を誓い、祈る場所」なのです。

日本全国、世界各国から、この公園に来る人々はこの三つの事を十分理解し、確認します。

なぜ「世界恒久平和」が必要なのか?

もし、戦争になると、それぞれの国は、負けまいとして、人・物・金を戦いに注ぎ込みます。従って、人々は不自由な生活に追い込まれます。それ以上に問題となるのは、現在の戦争は、戦地・戦場で軍隊(戦闘員)どうしが戦うに止まらない。(もちろん、兵隊も人間なので、人間同士が死を賭して争うのは基本的に正しいこととは思いませんが、)直接戦争に係わりの無い多くの人々(非戦闘員)の命も取られることになるのです。例えば、一九四五年三月十日の夜の東京の大空襲。一夜で約十万人の犠牲者がでたそうです。それは三〇〇機以上のB29爆撃機によるものだったそうです。十万人の犠牲者の中には、多くの子供、学生、母親、老人と直接戦争に関わっていない人々がいました。だから、そんなことにならないように、戦争のない、平和の世を継続することが必要なのです。

どうして、「核兵器廃絶」が必要なのか?

原爆が広島にB29爆撃機一機によって投下され、炸裂したのは、一九四五年八月六日午前八時十五分でした。たった一発の原爆で、上の東京の場合のように、たくさんの爆撃機が繰り返したくさんの爆弾を投下したと同じか、それ以上の被害をもたらしました。爆弾は破壊力、殺傷力を持つものですが、原爆は、それらに加えて、放射線をばらまき、病気の元となります。最も恐ろしい兵器なのです。だから、世界中から、核兵器をなくすることが必要なのです。
  
注 「一.原爆の記憶」は、私の原爆体験を、全く些末なことなのですが、一応、記録にしてみようと思いました。「二.広島平和記念公園」は、日頃のボランティアガイド活動の中で、私なりに、平和記念公園を紹介していることを、東京の孫娘(中一)のために、資料として、文書にしたものです。七月末来広し、平和記念資料館および、平和祈念館の見学、平和記念公園の碑めぐりを一緒にしました。
二〇一三年夏 伊藤太郎 (広島市観光ボランティアガイド協会 会員) 

 

 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針