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8月6日に想う 
池田 瞳(いけだ ひとみ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市仁保町金輪島[現:広島市南区宇品町] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第二高等女学校3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
今年も又同じ様に夏がやってきた。

八月六日は、四八年前、即ち一九四五年八月六日八時一五分広島市に人類初めての原子爆弾が投下された日だ。

当時三年生(第二県女)の私は四月から金輪島で作業をしていた。

その日も何時ものように八時から朝礼が始まった。

朝から出ていた空襲警報は解除され、体操の準備で全員が拡がった時だった。

三機の飛行機(B29)が飛んでいるのが目に入った。
『空襲警報は解除されたのに何だろう』とみんなで眺めていた。
その時一瞬広島上空が明るく輝いた。

それでもみんな
『やけに明るい』
『照明弾かしら?』
『そんな馬鹿な』
『こんなに明るい朝なのに』
と口々に話していた。

間もなく宇品の向こう、広島上空に真っ白できれいな巨大キノコ雲が真っ青な空高くクッキリと浮かび上がった。
と思ったら猛烈な爆風に襲われた。

その瞬間、私達は予め教えられていた通り両手で目と耳を押さえて近くの建物のそばの溝に信じられない位小さくなって伏せた。

これが後に言われたピカ・ドンだった。

どれ位たったのか。
『怪我人はいないか』
の声に我に帰った生徒たちは、元の場所に集まった。
建物のガラスが壊れたその破片で私も軽い怪我をしたが、幸い全員たいしたこともない様だった。

その後間もなく、広島の方の空は真っ赤になって来た。
『私の家が焼けている』
『私の家も』
『私の家も』
とうとう、みんなは
『お父さーん』
『お母さーん』
と言いながらわんわん泣いた。

午後になって先生から
『今日は帰れそうもないので、みんなこの島に泊まる』
と命令が出された。その頃から負傷者が船で運ばれ始めた。ようやく私達にも事の重大さが分かってきた。

その夜この島には五〇〇人位の人々が収容され、講堂のような所に着のみ着のままでずらっと寝かされた。

片目の飛び出した人、全面火傷で皮膚がまるでポロのように垂れ下がった人、全裸の人、外からは普通にみえるがグッタリしている人。

こんなに沢山の怪我人を見て、不安は一層つのった。
しかし悲しんでばかりは居られない、次々に運ばれてくる収容者の一人一人に声を掛けて、多くの事を聞き出し名札を付けたり、記録をつけたり、てんてこ舞いだった。

その中に隣組の小父さんを見つけて嬉しかった。色々尋ねてみたが詳細は判らなかった。そして翌朝その小父さんも、あんなによく話の出来た人達も1/3亡くなっていた。

悪夢のような一夜が明けて翌二日目、ようやく帰宅命令が出された。

私は宇品で船をおり、市内に入るに従って被害の酷くなっていく市街地を歩いて、ようやく千田町の私の家に辿り着いたけれど、日赤を除いてそこも一面の焼け野原。

その先、万一の時の待ち合わせ場所に決めてあった、大芝町の家までは、とても危なくて歩いては行けない。その夜は焼け残った友達の家に泊めて頂いた。

翌三日目、全身焼けただれ死の行進のような人達とすれ違い、水脹れになった人や馬、牛の屍体が一杯浮かんだ川を渡り、歩くとまだ熱い路を、どのように歩いたのか、母の許に、辿り着いた。

母は、たまたま家の中に居て、直爆から免れたが、二階建ての我が家は一瞬のうちに爆風で壊され、下敷きになった。懸命に手探りしているうちに間もなく、天井板に手が触れ、それらを一枚一枚取り除いてやっと屋根の上に出ることができた。

そして我が家だけが直撃されたとおもっていた母は回りの建物(鉄筋以外)が全て壊れて西は己斐、北は牛田の山、東は比治山まで見渡せたのには只ただビックリした。

しかし考える暇はない、三〇分もしないうちに附属中から火の手があがり家は焼け失せた。

四日目から私は母とまだ帰らぬ弟を尋ねて歩く旅が始まった。

当時市内の中学一・二年生は一般市民と共に約一三〇箇所の建物強制疎開のための取り壊し作業を行っており弟も土橋方面で働いていた。後で分かった事だが六日、その日の内に瀬戸内海の似之島で死んでいた。そして胸に付けていた名札とズボンのバックルが唯一の遺品として市役所に保管されていた。

じりじり照り付ける真夏の太陽の下、一ヶ月もの間、広島市内は勿論、吉田町の方まで噂を頼りに尋ね歩いたが、その日の内に死んでいたのでは逢える筈も無い。

毎日毎日西から東から歩きながら改めて我が家の焼け跡に立った時、私はもうここには暮らす事は出来ないと思った。

被爆後、大芝町で過ごした一ヶ月、私は毎日大芝小学校(中学校?)に炊き出しのオニギリを取りに行った。そして炊き出しの手の足りない時はお手伝いもした。

当時小学校の講堂は救護所になっていて、何百人もの怪我人がゴロゴロと寝かされていた。殆どの人が重傷にもかかわらず、油と天花粉(シッカロール)を振り撒くと言う手当だけで寝かされていた。

何日も経つうちにヤケドは亀の甲羅のように硬くなり、その下は膿み、ただれて、そこに蝿がたかり、蛆が沸いていた。

こうして怪我人は毎日毎日死んでいった。死ぬと河原に穴を掘り、そこで焼かれた。そして雨上がりの夕方夜霧の中で燃えて火の玉となり天に昇って行った。五〇年前に受けた強烈な出来事、五〇年経っても忘れ得ない出来事。八月六日の情景は私の心に、多くの体験者の心に、そして皆さんの心に戦争が無くならない限りよみがえり続ける事でしょう。

とても、その全てをここに書く事は出来ない。しかし、いつも弱い人達ばかり悲しい思いをする、これが戦争なんですね。

トルストイも『戦争が始まった。即ち人間の理性と人間のあらゆる天性に反する出来事が行われたのである。』と『戦争と平和』の中で非人間的な戦争をこう表現している。チャンバラの頃から原爆まで、そして今や原爆の何千倍もの威力のある水爆を持つ様な世の中になってその核兵器使用は人間・生物の破滅、もう愚かな過ちを繰り返してはいられない。今こそ国境を越えて、どんどん交流し理解しあい、廿十一世紀に向けて地球号を平和に安全に動かして行かなければならないと思う。
  

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