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伝え残しておきたい光景 
有冨 チサコ(ありとみ ちさこ) 
性別 女性  被爆時年齢 26歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2011年 
被爆場所 広島市三滝町[現:広島市西区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

現在、私は92歳ですが、あの時の体験を語るのは初めてなのです。これまでに1度だけ孫が小学生だった時に話したことがありますが、それ以外、他の人に体験を話したことはありません。余りにも悲惨でむごい体験だったからです。しかし、高齢となりこれからいつどうなるか分かりませんので、どうしても私が自分の目で見たあの光景や思いを伝えておきたいと思い、今回、思いきって体験記にすることにしました。

●被爆前の生活
私は結婚して、広島市の三滝町(現在の広島市西区)に、私の両親、主人、そして昭和18年生まれの長女と19年生まれの長男の6人で暮らしていました。

主人は広島鉄道局の広島管理部に、父は中国新聞社に勤め、母と私は主婦で一緒に子育てをしていました。主人も父も毎日元気に勤めに出かけ、母は農家に食料を買い出しに行ったり、防空頭巾をかぶり、竹やりの訓練や防火訓練などに参加していました。その頃は、町内会から当番で建物疎開作業に出て、建物を倒した跡の瓦や廃材を拾って片づけるなど、戦争のために一生懸命尽くしていました。食料の配給は十分ではなく、皆、栄養失調みたいになっていましたが、建物疎開作業は毎日続くこともあり、我が家が当番の時は、母が子どもの世話をし、私が作業に出かけていました。

また、毎日のように空襲警報が発令され、その度に子どもを連れて防空ごうへ入っていました。広島では空襲警報は鳴るのですが、実際に空襲はありませんでした。艦載機が何機も飛んで来るのは見えるのですが、広島では爆撃されることがないため、気持ちは悪いですが、飛行機が飛んで来てもそれが当たり前のようになって余り怖いとは思わなくなっていました。

とにかく戦争に勝たなければならないということで、怖いとか考える余裕はありませんでした。だからといって、楽しいことがあるわけでもなく、ただ、自分はどうなっても子どもの食べる物だけは確保したいと思い、いつでも持ち出せるように食べ物を非常用袋へ入れておかなければということばかり頭にありました。

●8月6日
その日は、建物疎開作業をする当番に当たっていましたので、主人も仕事を休み、私と2人で参加する予定でした。しかし、私の体が弱っていたので、父が「今日は休んだほうがいいんじゃないか」と言いました。私は既に出かける支度をしていたのですが、父のその言葉で建物疎開作業に行くのを止めました。虫が知らせたというのでしょうか。

「妻の体調が悪いから」と主人が町内会長に報告して帰ると、警戒警報のサイレンが鳴りました。皆、身支度をして防空ごうに入りましたが、しばらくして警報が解除になりました。それで、やれやれと思い、暑かったので子どものもんぺを脱がして着替えさせ、私も着替えて下の子どもにお乳を飲ませました。

すると、2度目の「警戒警報!」というのが聞こえました。多くの被爆体験証言者の皆さんは、このことを言われませんが、本当に2度目の「警戒警報!防空ごうへ入ってください!」というのが聞こえたのです。それで、私が、「今、服を着替えて涼しくなったばかりなのに、本当なのかしら」と思い、ガラス窓から外をのぞいたとたんに、ピカッとせん光が走りました。気がつくと長かった私の髪は血のりで逆立ち、全部上へ向いていました。爆風で壊れたガラスの破片で頭全体が傷だらけになり、出血していたのです。体中ひどい切り傷だらけで、赤身が見えるほど割れていました。また、左足のふくらはぎをやけどしました。家は傾いて屋根も壊れましたが、家族は皆家の中にいて、両親、主人、2人の子どもはかすり傷程度でやけどや大きなけがはありませんでした。私だけが窓のそばにいたため、大けがを負ったのです。

●緑井へ向かう途中の悲惨な光景
私は歩くことができなかったため、主人が隣組に1台あった大八車を借り、私を乗せて安佐郡緑井村(現在の広島市安佐南区)の今井病院まで連れて行ってくれました。

途中、大八車がガタゴトと揺れる度にただひたすら痛みを我慢するだけでした。頭が傷だらけで出血しているため、主人がはさみで私の髪を根元から切り、余り物も十分ではなかったあの時の状況の中、枕になるように頭の下に何か敷いてくれました。

大八車に乗せられて緑井へ行く途中で見た光景は決して忘れることができません。被災者が道の両側にいっぱいに倒れて亡くなっていました。しかも、その遺体がちょうど70センチぐらいの高さぐらいまでずっと積み重ねられているのです。どうにか動ける被災者たちが病院や救護所を求めて避難されている途中に力尽きてその場で倒れたのだろうと思います。遺体が道を塞ぎ通れないため、人々が遺体を両側に寄せて積み重ねられたのでしょうか、地獄でもあんなことはないと思われるような光景でした。普通ならもっと幅の広い道なのですが、大八車1台が通るのがやっというほど道幅が狭くなっていました。三滝から緑井まで延々とこのような状態で、積み重ねられた遺体の間を通って病院に行きました。

●麻酔なしの手術
病院に連れて行ってもらったのが比較的早かったので、私は傷口を縫ってもらうことができました。ただし、麻酔はありませんでした。病院に着くのがもう少し遅ければ、負傷者が余りにも多いので、縫う糸もなくなっていたでしょう。

顔のえくぼの辺りで骨が見えるようになった所を2か所、そして、体中を釣針みたいに曲がった針で麻酔なしで27針縫われました。余りの痛さに途中で失神すると、水を掛けられ、縫われ、また失神する、この繰り返しでした。他の男の人は余りの痛さに「やめてくれ!」と言っていましたが、「女は強し」です。我慢してとうとう27針縫ってもらいました。

左足のふくらはぎのやけどには薬を塗ってもらい、包帯を巻いてもらいました。

●想像を絶する救護所での数日間
今井病院は負傷者でいっぱいのため、入院できませんでした。また、三滝の自宅は傾いて屋根が壊れているため、主人と父は家を住めるように修理しなければならず、私が帰っても寝る所もないので、結局、臨時の救護所となった近隣の国民学校の講堂に連れて行かれ、自宅が直るまでしばらくそこで過ごすことになりました。父が空の大八車を引っ張って帰りましたが、その後、しばらくは誰も私を見に来てくれませんでした。

講堂では、瀕死の重傷者が運び込まれ、端から端までぎっしりと重なるように並べて寝かせられ、足の踏み場もありません。次から次へ負傷者を運んできては荷物でも投げるように横たえていくのです。真夏で暑いのですが、ひどい痛みのため、暑さについては何とも思いませんでした。

私は、出血は止まっていましたが、顔を縫っているため物も言えません。仰向けになって両手を半分万歳のような格好で手のひらを上にして寝ていると、婦人会の方がおにぎりを片方の手のひらに、もう片方の手のひらにキュウリを切ったものを置いてくれますが、それらを自分の口元まで持っていって食べられるという状態ではありませんでした。そうすると、婦人会の方が「まあ、この人、食べとってないよ。昼のおにぎりは食べなさいよ」と言われましたが、結局、昼も、夜も食べることができませんでした。それで、今度はおにぎりを口に入れてくれるのですが、それでもうまく食べることができません。下の1歳の子どもは、まだ乳離れしていなかったので、お乳が張って石のようになりました。本当に苦しく、地獄のような日々でした。

私のすぐ隣には兵隊さんが寝ておられましたが、間もなく亡くなられました。やけどされていた首のあたりにはウジがわき、どんどん増えて私の方へ動いてくるのです。婦人会の方に「申し訳ないけど、この兵隊さんは亡くなっておられるので、どこかへのけてあげたらどうですか」と頼んだのですが、「私ら、忙しゅうて、そんな暇ないんよ」と言われました。婦人会の方も忙しく、気が立っているようで無理もないと思いましたが、私は、結局、主人が迎えに来てくれるまで亡くなった人の隣に寝ておりました。

傷口を縫ってもらいましたが、化膿しました。被爆当時、もんぺしか身につけていなかったので、盲腸の辺りにも指が入るぐらいの大きな穴があきましたし、やけどした左足のふくらはぎは、べったりと腐ったようになっていました。婦人会の方に、「もんぺも破れてだんだんべちゃべちゃになってね、左足が痛いんですけど」と言っても、食事の世話だけで精いっぱいのようで見てもらえませんでした。

傷口が化膿してウジがはい回ってもそれを取ってくれる人もなく、ほとんど食べることもできず、この様な状態の中で、私は早く家族に連れて帰ってほしかったのですが、なかなか迎えに来てくれません。主人と父が2人で、子どもが寝られるように屋根を直すのに何日もかかったようでした。

何日かして、ようやく主人が迎えに来てくれましたが、たくさんの人が重なるように寝ていて、足の踏み場もないような状態ですから、私がどこに寝ているか分からなかったと言っていました。次々亡くなっていく方のウジを払いながら、また、外にとめた大八車を持って行かれないよう見張りながら、寝ている人と人の間を歩いて「チサコや、チサコや」と声をかけながら、私を捜してくれました。迎えに来てくれた主人に気がついて、私も「お父さん、ここなんよ、ここなんよ」と言うのですが、声がほとんど出せません。ようやく遺体や寝ている人の間を通って、食事も取れず痩せて干物のようになっていた私を連れ出してくれました。着替えもなかったので、身に着けていた衣類もやけどでべちゃべちゃになったままでしたが、何とか家に帰ることができました。

何日も食べないでいて、よく死ななかったと思います。農家の方が、「吸いのみ」のようなものに水を入れて持ってきて飲ませてくださったのがとてもおいしかったのを覚えています。この水がよかったのかもしれません。

●自宅での長い療養生活
私は、主人に大八車に乗せてもらい、自宅に帰り、自宅での生活が始まりました。自宅は、屋根だけはあり、敷居も接いだようになっていましたが、どうにか雨露だけはしのげるほどに修理されていました。

8月15日の終戦の日、私は「なんでもう少し早く終戦にしてくれなかったのか。そうしたら自分はこんな体にはならなかったし、道路に積み重ねられた遺体や講堂で亡くなった人を見ることもなかったのに」と思いました。

私は、部屋の隅のほうで寝たきりで、1か月たっても起きることができないため、主人が様々な治療をしてくれました。縫った箇所は抜糸もしませんでしたが、傷が自然に癒えました。しかし、やけどしたふくらはぎの部分だけがぐじゃぐじゃに腐ってしまいました。やけどには、キュウリがあればキュウリをすったり、ジャガイモがいいそうだと聞けばジャガイモをすったり、野菜など効果があると聞いたものは何でもつけてみてくれました。父が静岡から来られた医師を連れてきてくれましたが、その医師は「このやけどは何の爆弾によるものか分からないし、骨の所まで腐っていかなきゃ治らんでしょうね」と言われました。実際に、やけどは骨が見えるまでひどくなり、主人がその手当てをしてくれました。

生理も止まりました。1か月、2か月たってもないので、主人が婦人科の先生を連れてきてくれました。その医師の診断によると「生理はまた始まるが、鼻血で出てくるかもしれません」と言われました。言われたとおり3か月目ぐらいから、毎月、鼻血が出るようになりました。いったん鼻血が出だすと食事もできないので、その間はずっとタオルを鼻に当てて、横になっていなければなりませんでしたので、母に子どもと食事の世話をお願いしました。

その後も、私はずっと病身で、母が1人で家事を切り盛りしてくれました。8月6日にせん光をまともに受けたためか、左目が見えなくなりました。鼻血が出るのは3年ぐらい続きました。右肘の辺りにガラスの破片が残っており、10年ぐらい前に病院で取り出してもらいました。ごつごつしていましたがきれいなガラスの玉で、「持って帰りますか」と医師に聞かれましたが、当時を思い出すのが嫌で、もらいませんでした。今でも色々な病気を抱えています。

●次代を担う人々に伝えたいこと
大八車に乗せられて緑井に行く途中に見たおびただしい数の遺体が道路の端に寄せられ積み上げられていた光景、麻酔なしの手術、講堂で寝ていた時の悲惨な光景を知っていただきたいです。地獄でもあのようなことはないと思います。

本当に戦争はよその国や地域のことでも二度と嫌です。戦争さえなかったら、皆、あのようにウジに囲まれて亡くなったり、後遺症でいつまでも苦しい思いをしたりすることはなかったと思います。

父は、私のいとこを捜しに市内に入りました。そのせいか、胃がんで早くに亡くなりました。父が日赤病院に入院している時は、私はまだ体調が悪くてお見舞いにも行くことができませんでした。結局、退院後、自宅で療養しましたが苦しみながら亡くなりました。母もやはり市内に入っており、甲状腺がんで3回ほど手術を受けましたが、亡くなりました。そして、主人も、私が54歳の時に脳溢血で亡くなりました。被爆当時、家族はたいしたけがもなく無事で、私1人が大けがをして悲惨な目に遭ったのに、結局、1人生き残り、色々な痛みを持って生きているのはつらいです。原爆が落ちた時に死んでいれば、亡くなった人々のむごい姿も見なくて済んだのにと思うこともあります。

戦争を経験したことのない若い人々には、戦争がいかにつらいものかということを200万回お話しても分かってもらえないかもしれませんが、本当に平和を祈っています。

 

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