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死体焼き場の似島 
池田 伝三郎(いけだ でんざぶろう) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
〈入隊して〉
戦争悪化した二十年十九才の時、強制志願させられて、小豆島で六か月訓練を受けた。目的は、特攻隊だったと思う。はじめ海軍に志願したども、だれだって生命惜しいがら、第一希望主計、第二水兵、第三に予科練にした。予科練は人間飛行機で死にたくながった。入隊通知おそぐで、だまって残っていると、なんか非国民みだいに思われ、具合悪くなり、別に陸軍の特別幹部候補兵に志願した。入隊は二十年一月で、もっと早くなれば生命あぶねっけ。遅れて入って戦争負けて助かってよかった。陸軍特別幹部候補生は入るとすぐ星二つで魅力あったもんだ。そこも第一希望戦車、第二防空、第三通信、第四船舶で船舶は、実は特攻隊で、船に爆弾のせてやる人間魚雷のようなものだのう。
 
モーターボート(戦時中、徴発したトラックのエンジンをつけたもの)に、木製だが、そのうしろに五トン爆弾二つのせて、一人で運転していく特殊船航艇だわけ。ミニの航空母艦に積んでおいて、途中でおろして、深夜作戦、ふい打ち作戦をやるわけ。一人で運転して敵の船にぶっつかる手前で爆弾を発射させて向きを変えて逃げてくるわけ。その訓練を毎日やっていた。当時の日本人は、いのちを惜しく思わない教育をされていたもんで、アメリカの船に突っこんでいくから、アメリカ軍もそれがわかって船の回りにブイや材木ずっと並べて、こっちの船が近づけないようにしておいたんだの。
 
それでもこっちはそれを乗りこえてどんどんいかねばならね。はじめのうち、一期生はかなり成果あげたようだ。しかし何も科学的にやったわけでねし、長く続かねぐてそのあとはほとんど人間爆弾になって死んでしまった。障害物があっても乗りこえていっても波柱が立ってとてもいかね。水柱といっしょに敵の方へ引っぱっていかれて死んでしまう。足にはくのも地下タビにした。船の底がベニヤ板だから皮靴では破れるからのう。はじめは逃げてきたども、あとになっど体当りするようになった。おれたちは、三期生なので、本土での決戦を上部では考えていたようだった。
 
小豆島で訓練してそこの学校卒業するどき特攻隊の志願者をつのるども、志願者は三分の一いればいいと言うども、だれも志願するものはいね。みないのち惜しぐで、それでも二名いて一名は寺の坊さんの息子で宗教的信念で希望したようだっけ。その後一次、二次、三次になると、強制的に志願させての、決まった人は夜の中に秘密で出発するわけ。部隊出発する人にはあまりいいものはやらない。自分の部隊がいたましいから。
 
次に行った所が和歌山の「タダの浦」という所だった。一次の人だけは両親を呼ばってもいいことになっての。すぐ特攻隊として出撃するからお別れする理由での。庄内出身の人は、五人面会許されての、今でも覚えているども、鶴岡の田中写真館の息子の親がわざわざ会いに来たけども、汽車で三日かかってきたども、息子発ってしまったあとでの、じいさんがっかりしての、しかし息子の行き先をだれか教えてくれて、後で会ったという話だ。
 
そこでは一日一時間ぐらい訓練した。アメリカの空襲くると、避難しねばならね。船を青竹で隠して、手旗訓練をしたりした。六月からは一日に三回は必らず空襲にくる。一番いやな時くる。夜中、朝食どき、昼食のとき、夕食のときはまちがいなくくる。そのころ、日本の軍隊は絶対負けないと誇っていたども、日本の飛行機はアメさんの空襲がくると全然いなくなるんだの。とても太刀打ちできね。そのとき、一回機関銃掃射受けた。逃げた逃げた。しかしボートの速力は決まっているし、やっと岩場さ逃げた。
 
対空監視に立っていた時も、機銃掃射受けて、岩の破片が腕にとんで来て負傷し一週間、休んでしまった。空襲の時は、おっかなくてもそっと見ていたんだの、敵が編隊を組んでくるのはすごいもんだ。一機が突っこむと、みんな一気に続いてくる。
 
硫黄島の玉砕を聞いて負けると思ったけども、軍隊では言っては悪いことだし、「貴公らが死んだ時に始めて日本が勝つ。人口は半分ぐらいいなくなっかもわからないけども、ほかの人に言って悪いぞ。」と言われての、やっぱり負けると思ったども、死ねば勝つと教える教育の力は大きいもんだ。
 
〈八月六日のこと〉
八月六日、私は江田島で、郵便名簿の整理をしていた、軍隊では、使役といっての訓練以外の仕事があって、その仕事をやっていた。朝めし食って、ほかの人は朝礼をしていで、私は部屋の中にいた。八時ごろにはじめカ――と黄色い閃光が走ったんだ、そのうちビビビ……と爆風来たんだ。兵舎は船会社の倉庫を改造した粗末なもんでの、ビビ……て来たから、人間いのちいたましぐですぐ机の下さ伏せった。爆心地からかなり離れていたども爆風でガラス窓は破れるし、カワラは落ちる、これはてっきりやられたと思ってだまって伏さっていだけ、そしたば「本間(旧姓)出てこい。」呼ぶんだの。「広島スパイにやられて火の海になる」と言う声しての、その時のキノコ雲のすばらしさ。一回大きく広がったのが出て、次にキノコ雲が出てくるわけ。
 
その日は朝から警戒警報鳴っていた。アメリカの飛行機一機だけいたけども、太陽のぼるのを待っていで投下したと思う。そしたら「各隊は破壊班(家の解体)、消火班、救護班を編成して仕事につけ。」という命令出ての、だれでも広島へいぎだぐてのう。破壊班と消火班は広島へ行けるから、その班へみんな希望したが、私らは救護班になっての、似の島さいくことになった。
 
その島は外国から入る船の検疫所の場所になっていた。その島のさん橋に上ったら五分もたたねうち、けが人がどんどんと上ってくるわけ。まず驚いたことに衣服着ている人が全然いね、みな裸。みんな焼かれて、黒い衣服はみな焼けて、白いのは残っているが、頭はテンツルテンで髪の毛はなし、眉毛も性器の毛もないし、男女の区別はつきものだけでわかる。全身やけどでの、人間の皮膚は竹の皮の裏の白い皮みたいになっている。石炭を運ぶ石炭船の伝馬船に乗せられてけが人はこの島にくる。乗せる時は、畳表一枚人一人乗せてくる。畳の合わせ目にのる人もいるから、その人の皮膚が畳にくっついてしまい、畳を引っぱると皮膚も引っぱられて叫びあがるわけ。桟橋に上ると、けが人は氏名と住所を聞かれて、荷札をつけられる。しかし目はやられ口もやけて、住所もしゃべれねわけだから、何も書かねでどんどん行くわけ、頭から脳みそが出ている人、腹から腸出ている人、さまざまだけの。
 
それから二晩三日の救護生活始まっての、はじめタンカで病人を運んでいたども、タンカ足りなぐて、ぶって(背負う)運ぶわけ。半袖シャツだけだから、けが人の傷口から流れてくるものがデラデラと腕にかかってくるからブワレネワケ。それで軍服重ねてやるども、ダラリとくるわけ、くさみはなんとも言われね。
 
百五十人もの人をたった二人で見ることになっての、大変だわけの、手当ては何もね。白い石灰みたいなものを水でといて作った軟こうをハケ使って身体にぬってガーゼをはって終るということしかできなかった。そのけが人は早い人で昼すぎ、夜になると、半数以上死んでしまった。
 
軍関係者が早く入ってきて、それは火葬場で焼くが、ほかの人はとても人数が多く間に合わねがら平地のざん壕を利用するわけ。疎開用の角材をしいて、二十五人ずつ頭並べて、その上さ角材また載せて二十五人並べてまたその上さ、と最後にトタンかけて一回で百人焼くわけ、昼は空襲であぶなくて焼かえねから夜焼くわけ、焼けると海の水かけて冷やしての。夜いつまでも死体焼く仕事は若い者にとってとってもおっかねぐでの、朝行ってみると夜焼け切れなぐで頭だけ焼けねで残っているわけ。それでまたやり直しをする。
 
それでも足りなぐての、島の真中の地下壕さ運ぶわけ。朝鮮人に掘らせたらしい。そこさ入れれと命令されるども、大変なんだの入口の辺りまでタンカで運ぶと、死体が入口辺さ積まれていていかれね。それを中まで入っていって積めというわけ、その悪臭のひどいごと。
 
死体の腹はみなふくれていての、その死体の上さあがって運んでいくと、ガスがグウグウ――と出て、頭まぐまぐ(目まいする)してくる。それでダメだと思って、はじめは仏様と思って大事したどもあとでは長木もって、死体を穴の中さ押してやった。夜その入口を砂でくえた(閉じる)ども、野犬来て入口の所掘って死体を食うわけ。それで板でもってくえで、犬いかねようにした。
 
戦後、家へ帰ってから、二十二年頃稲刈りごろ「ヒロシマ」という原爆映画見たども、その中にこの地下壕の場面出てきての、アメリカ兵が死体のドクロの石こうを戦勝記念として本国さ持って帰った、それをまねして日本の二人の姉弟の被爆者がドクロを防空壕から持って来てアメリカ兵さ売っている。姉はケロイドで家の中さいて外さ出ないでいる、弟がこっそりやっていた。それが本物とわかって反米思想とわかってつかまえられるという話だっけ。
 
まずそのころは夜、ごはん食べらえね、くさぐてくさぐて、夜も寝らえねぐらい。……
 
夏だから寒くはなかったども、病人の看護で病人さ、食事とれねからおも湯飲ませっども自分の力で飲めないわけ。「こうせん(豆粉に砂糖混えたおかし)たべる時のようにして、古ハガキを二つに折ってそれに少し「こうせん」乗せて、口にやってのませる。すると「兵隊さん走る、走る」と言うんだの。「走る」というのは、「かいい(かゆい)という意味での、焼けどした顔や口ではおかゆよく入っていがねはげ、口のまわりさデロデロと流れてかいいわけの。
 
うんこ、おしっこは困った。兵隊二人して入口まで肩に手かけで、連れてその場でジョウジョウとおしっこさせるわけ。十九才ぐらいの女の子は恥かしくで泣くもんだけ。挺身隊の女の子だども、みな裸みたいなもので、自分の性器を手で隠すようにしているのはとてもかわいそうだけ。その手を身体にくっつけると、ビタッととれなくなってしまうから、手でちゃんと隠すこともできないし…。広島からきた人の話では、高校の先生が「川だば大丈夫だ」と思って生徒つれていったば、なんと川上を火走って首の上みな焼けて死んでしまったということだっけ。
 
焼け方にはいぶしたやり方と、焼けてただれたのと二色あって真っ黒こげになっている者には、手で当って悪いという命令出たんだな。やはり放射能とか何かわかったんだな。当んなというども人手足りねもんだはげ、どうしようもねども軍手二枚はめらせだけ。私らは第二次放射線に当ったども、じかに病人をしょったりしたから一級になって手当もらっている。
 
その後だんだん薬もよくなってきて、身内の人も病人を探しにきて、わかった人は手当てしてもらってよかった。死んだ人の場合遺留品は残しておくども、時計などの持物はみななくなっていたけの。だれが勝手にとっていくかわからねけども。火葬は偉い人ばかりして、あとの人は土葬にしてまとめて埋めてしまった。あとで掘り出したというども……。
 
死ぬ時、工業高校の生徒が死ぬ時「天皇陛下バンザイ」と言って死ぬわけ。発狂したと思うどものう。教育の恐ろしさ考えさせられた。うわごと言って「馬に乗っていきます。」とか言う人もいたし、子供らは大事にされたども夜になると「お父さん、お母さん。」と言って泣くばかり。一人泣き始めると、みんな泣き始める。「こら、アメリカくるぞ。」と言うと、みんなシーンとなってくる。しかしまた「お父さん。」と始まる。子供からそう言われるとかわいそうでしかたなかった。また子供から「兵隊さん、また一人死んだ。」と言われると、みんな死ぬことになれて平気になってしまったことわかった。中学一、二年か高校生のあたりの生徒がいっぱいいでの、死体は安置所さ持っていって確認するわけ。しかし夏だから腐されてくるわけだからウジはわくし、大変なもんだけ。
 
〈敗戦→帰郷〉
その後、通信隊と仕事交代してきたけどもそのころポツダム宣言受けて、日本は負けてしまったんだ。折りたたみ式の舟艇が潮で流されてしまって、それを探す仕事しての、四人で毎日船でそれを探すわけ、夜になれば、民家で泊めてもらう生活した。岩国の近くまで行ったば、手旗信号で「すぐ隊へ帰れ。戦争負けだから」という合図あって、隊に帰ってくることになった。
 
そのころは夜は民家に泊めてもらうのだども、待遇悪ぐなっての、びっくりした。戦争負けでしまってから夜泊めてくれる家一軒もなくなった。土地の人も軍隊から、だいぶいろんな物要求されてがまんの限界に来ていたと思う。一日はしかたなく海岸に寝て、二日目は寺に泊めてもらった。負ける前日までは「兵隊さんありがとう」と言っていたのにがらり変わっての。あれだけ変わったわけだのう。この辺の東北の人とはやはり違うもんだ。
 
そのころデマとんで「兵隊は南方さ奴隷にやられる」と言われて、びくびくしていた。島さいたから本土の情報わからなぐて困っていだ。海岸の方は早ぐで、兵学校の生徒はどんどん帰っていぐし、それ見て「ほれ、あっちでいく」と言っていた。負けたこと気にしてピストルで自決した人もいた。それで全員ピストルはとり上げになっての。
 
そして残務処理の仕事、ドラムカンを地下に埋めたりしていたけどもの。毎日訓練なしの訓練での。一週一回の食料運びしたり、八月六日に運びにいった当番兵たちは原爆に遭っているども……。私もあとで広島さ二回ぐらい行ってみたば、原爆ドームと第一陸軍病院と郵便局はあっけども、あとは瓦礫の山、もう広島には草木は生えねと言われたけ。報道は島だから何もこなぐて、私らは一兵になるまで戦うもんだと思っていた。住民の方はそのころ「戦争はしたくね」というもんだけ。島では、空襲をさけての、日中はじいさんとばあさんと孫がいっしょに荷物つけて船にのって岩かげに隠れてじっとしていてくらすわけ、夜になると家へ帰っていくもんだけ。
 
戦争末期、日本には戦える飛行機なくなっていた。終戦後、モーターボートは焼いてしまった。似の島ではなんとか言う宮様がピストルで自決したし。それでも「負けた」とは思わねけ。これで終わるわけねと思っていた。本土決戦やれば勝てると思った。そういうことを毎日精初訓話で洗脳されていた。教育というものの恐ろしさを思ったの。
 
隊が解散になって、帰る時米五升もらってきたけども、米はこっちにあると思って隊に置いてきた。ただ乾めんぽう(堅パン)だけもらってきた。非常食用で普通はたべて悪いけども、腹へってがまんできね時、たべてしまい、他人のを取って自分のものにしておく。とられた人はまた別の人のものをとる。最後にドジな人が罰されるような軍隊生活であった。その堅パンをおみやげと思ってデッキの上さ置いたば、だれかにとられてしまってなくなっていた。東北の人間はおっぽいもんだ、自分の食物もなくなっての。途中金沢まで来て、おにぎりもらって、駅の近くに泊めてもらいそれからまた汽車にのってきた。金沢近くまでくると、人の心も違ってきたもんだけ。実家の立川に着いたのが九月十四日で、その日はちょうどお祭りでみんな集まっていた。死んだと思っていたもんだから、私を見てびっくりして「ああ来た、来た」と言われての、大体の兵隊は死んだものと思われていた。
 
帰ってきてから、家族の人には原爆の話はした。みんな真剣になって聞いてくれた。前は記憶もはっきりしていたし、「原爆のことしゃべれちゃ」と言われて話すと、「原爆は使うべきでね」と言ってくれたけ。原爆が二世に影響及ぼすというごと覚えたのは三十才ごろになった時で、それからはあんまりしゃべらなくなった。私も子供の結婚決まるまでは黙っていた。
 
町の青年団の交流会で話てくれと言われて話たこともあったし、平和運動しているある政党から協力してくれと言われて、集会で話したこともある。そういう話をすると、イデオロギー的に利用されると思う人もあったようだ。
 
今は血圧が低ぐて困っている。貧血で百以下のこともあって、それも原爆のためでないかと思う。家の人がらは「せやみ(骨おしみ、なまけ)でねが」と言われたこともあっての。朝早く起きらえねんだの。血圧低ぐで、ごちそうはとらねまねし、ぜいたく病だって言われたし、タマゴ、チーズなど食ったりしての。
 
家の人には最近あまり語らねし、ほがに行って話すとすぐ三十分もなるども、若い人はあんまり聞きたがらね。今の若い人は平和運動忘れがちだ。それは今、若い人はあんまり幸福すぎるからでねがのう。やっぱり原爆のことは、語りつぎが大事だ。原爆の写真、パネルを見せるのも大切だと思うし、私もパネル借りて見せたこともあったが……、そうするとあれは思想的におかしいのでないかと言う人いて、そういうふうに考えるのもおかしい。やる方ももっと大きく国民的に考えてとりくんでいいのでないか、あまりイデオロギーを前にしてはマイナスもあるのでないかと思う。今はどの政党も核反対と言っているども、本音の方はどうかと思うこともある。どんどん核兵器ふやしている米ソの様子見るとそう思う。核兵器は必らず使われるようになる。それを撃てば必らず命中するからのう。日本ももっとこれに反対しなくてはダメだと思う。平和利用だばいいと思うども。「原爆を語るものは革命的な考えの人だ」という考えもまだまだ残っている。私も保守的な考えだども、この問題は党派を問わずやらねばだめだと思う。だまっていてはおかしいし若い人に、私らが語りついでいかねまね。若い人たちから頼まれれば、自分の体験の語りつぎをやっていきたいと思う。
 
出典 佐藤玄祐編 『田川の被爆者は語る ヒロシマ・ナガサキでの体験』 佐藤玄祐 1987年 pp.40~46
 
※原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。
  

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