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(被爆の体験) 
明田 満喜子(あけた みきこ) 
性別 女性  被爆時年齢 27歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市富士見町[現:広島市中区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市富士見町
爆心地より一キロメートル

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
八月六日の朝、出勤する主人を見送り玄関の土間で赤紫色の閃光を見た途端、まるで地震の様に家が崩れ下敷になりながら息がつまる程強い爆風におそわれました。やっと瓦礫の下から這い出し着のみ着のまゝ薄もやの中を道に出ました。富士見町一六三の家は坂下四軒目、土手の上まで出ると八月の灼熱の太陽がアスファルトをとかし、とても裸足では歩く事はできません。道端から履物や帽子を拾って風上の方へと歩いていくと全身大火傷の人に何人も出会いました。それは想像を絶するもので皆両手を垂らしぼろぼろに焼けたゞれた衣服がぶら下がり男女の区別さえもわからない痛ましい人間の姿でした。どうしたのだろう、何があったのだろう、家を疎開して燃やしていた火での火傷か、しかしそれにしては余りにもひどすぎる、なにがなんだかわからないまゝ、土手の道を文理大のグランドまで来ました。驚いたことにそこにも全身火傷の人が生死もわからないままにぎっしりと横たわっていました。行けども行けども倒れた家ばかり。どんな爆弾が落ちたのだろうと考えながら千田町から宇品の方へ逃げのびました。振り返ると市内のほうはすでに煙につゝまれ、あちらこちらから火の手が上がっていました。宇品のあかつき部隊、そこの広場も顔もわからない位焼けただれた人が足の踏み場もない位倒れていて「お母さん水水」と泣き叫ぶ様は、地獄絵図さながらの目も当てられない惨状でした。

朝から一滴の水も飲まず飛行機の爆音におびえながらやっとの思いで夕方近く丹那の小学校へたどりつきました。もう一歩も歩けず、今夜はここの防空壕で一夜を明かす事にしました。暗闇の中で隣にいた中国新聞の記者の方から「何でも今度の爆弾は化学性のものらしいですよ」と聞きました。それであんなひどい火傷の人も広範囲の家の倒壊もうなずけた事でした。この世のものとは思えない惨状は一生私の脳裏から消えさる事はないでしょう。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
白血球が減少して傷が治りにくゝ蚊や虫にさゝれたあとが化膿して体力が恢復するまで一年近くかゝりました。着物で食料品をこうかんしながら伴村の田舎で不自由な生活を送りました。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
被爆地から一キロの地点で被爆して幸にも助かり運命的なものを感じます。健康など人一倍注意して一日一日を大切に過してゆき度いと思っています。

神戸地震に原爆当時の光景が重り胸が痛みました。天災の場合はどうするすべもございませんが、原爆だけは二度とない様祈るばかりです。
  

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