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豆タンクの大関 
宇都 信(うと まこと) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1954年 
被爆場所 広島陸軍共済病院(広島市宇品町[現:広島市南区宇品神田一丁目]) 
被爆時職業  
被爆時所属 広島陸軍共済病院 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
故 宇都桂三の父 宇都信

一昨年、広島における国体の時であった。宮城県選手佐久間智雄君が、桂三の霊にお詣りしたいと私宅を訪れてくれた。智雄君は、桂三が仙台女師附属小学時代の仲良しで、桂三と同じくらいの背丈であったが、今や、見上げるほど長身の逞しい大学生となっている。その厚い友情に感激して胸が一ぱいになった。
 
悲壮な最期であっただけに、桂三の俤は常に私の座右を離れず、思い出は、幾年経っても、今更のように胸裡に湧いて尽きない。九年前の八月六日のあの日、私は宇品の共済病院で勤務中であったが長女の知らせによって、妻と桂三が病院に来ておることを聞き、雲霞のように押し寄せて、構内立錐の余地もなく、阿鼻叫喚の負傷者の渦の中を探しまわって、やっと妻を、次に桂三を見出した。
 
彼のズボンはずたずたに裂け、上半身は裸体で赤黒く腫れ爛れていたが、父ちゃんやられた、友達を連れて来たから治療してやって下さい、と頗る元気であった。何処でやられたのかと問うと、一中の近くで疎開家屋の屋根の上で瓦運びをしていたら、地面へ吹き飛ばされたというのである。一見したところ、桂三よりも妻の方が重傷なので、桂三とその友達を附近の防空壕に収容しておいて、妻の伏しているところへ馳せつけて、これも防空壕に収容して応急の手当をなし、桂三のところへ戻ってみると、防空壕は暑くてたまらんといって外に出ていたので、その場で救急処置をなし、無茶苦茶に破壊された病室の一隅を整理して、妻と桂三を病床にねかした。友達は屋内に入るのを怖れてか、いや、本心は一刻も早くわが家へ帰りたいらしく、病室に入るのを拒むのであった。桂三は左利きであったが、左手が動かないと訴えるので、よく調べたら、火傷と擦過傷だけとみたのに、左の鎖骨が折れて、肩胛骨のあたりに大きな孔があいて、左手はぶらぶらであった。しかし少しも痛くないと張りきっているのであるが、更にこの手当をしてやった。
 
私は、病院構内に溢れている負傷者の処理と、職員の診療促進を図る任務が重大なので、妻子を看護しているわけにゆかず、後髪を引かれる思いで病床を去って劇務に奔走していると、看護婦が、坊ちゃんの容体がおかしいと呼びに来た。
 
桂三のところへ婦長とともに馳けつけてみると、もう強心剤注射の効もなく、彼の最期の脈に触れることも出来なかった。枕を並べてねている妻の語るには、桂ちゃんは、「もう、僕は助からん、先に死ぬから母ちゃんは助かって下さい」というから、「しっかりしなさい、頑張りなさい」といっている間に、悲壮にも元気な声で、「父ちゃん、父ちゃん」と強く高く叫んで、たったいま息が絶えた、というのである。
 
ああ、夕闇既にせまって蝋燭の灯影も哀し。
 
妻の方が重傷であったのに、頗る元気だと思った桂三が先に死んだので、手当に油断のあったことを、今は亡き愛児に深く陳謝し、且つ痛く悔いた。
 
彼は、この朝も、いつもと同じように、彼には不似合の大きなリュックサックの中に、教科書のほか、常に若干の缶詰や済美学校時代の友達油屋の水戸君から貰った大きな蝋燭や、針屋の田村君から貰った針や糸や、貯金通帳などを詰めたのを背負い、地下足袋を履いていた。妻が、今朝も空襲警報が出たくらいだから、今日は学校を休んだらどうかといったら、「一中の生徒は空襲警報ぐらいにへこたれはせんよ」と、威勢よく勇み立って出て行ったのであるが、あの姿で、病院に数人の友達を連れて来て、友達だけが負傷していて、自分はなんともないかのように張り切っていたあの俤は、彼の平素の気性が躍如としていて、私としては、終生夢寐にも忘れられぬ印象である。
 
彼は、私が外出から家に帰る途上を見かけると、どんな遠いところにいても一生懸命駆け寄って来て、お帰りなさいと迎えてくれるのであった。この一事は、もし私が不機嫌であるときでも、たちまちなごやかな気持によみがえった。
 
彼は、訪問客があると、子供はもちろん、小父さんでも小母さんでも、旧知の人でも、未知の人でも、巧みに応接して、厭がらせず倦ませない面白い魅力を持っていた。私の家では、仙台在住時代、正調詩吟の恩田正房先生を招いて、家族中、男も女も詩を吟じ、剣舞を教わったのであるが、兄の信義は吟ずる方より剣舞の方が得意であり、弟の桂三は、声色声量ともに勝れていて、剣舞よりも吟詠の方が得意であって、十二歳で既に三段級の吟法を立派に吟じていた。兄弟のコンビがよいので、恩田先生はいろいろの公開の席に、よく二人を出場させられたのである。兄弟二人が、白虎隊を且つ吟じ且つ舞う勇壮悲壮な姿は、私の忘れられぬ深い印象である。
 
広島に転じて来てからも、明月の夜など、桂三はよく屋根に上って得意の詩を朗々と声高らかに吟ずるのであった。その声には既にサビがあって、子供の声色とは思われず、私は屋根に上ることを叱る気持を忘れて、陶然と聞き入ったのである。隣家の寺江少将が、五十歳の親父が屋根の上で詩を吟ずるとは風変りな男だと思うたら、「ありゃあ、坊ちゃんか。子供の声ではない、物凄い天才じゃ。軟調の琵琶唄綿心流の吟法でなく、実に立派な正調詩吟で声色だ」といい、「声量といい、眼前に三尺の秋水が躍るような感じがするよ」と賞められたものである。
 
彼は小兵であったが、相撲が好きで上手で、済美学校時代、十六人抜きをやって、豆タンクのニックネームをもらい、小兵でありながら、常に自分より大きな友達を牛耳っていた。ある日の夕方、彼の姿が見えず、夕食時にもおくれて帰って来たが、いつもの明朗性に似ず顔色が蒼く、疲れ果てた様子で、何か変ったことをして来たらしい。問い糺すと、「喧嘩して来た」という。「負けたのか」「いや、負けない」「えらい萎れてるじゃないか。負けたんだろう、誰とやったのか」と聞くと「皆実小学校の生徒五人が挑みかかって来たので、済美学校の一人が強いか、皆実学校の五人が強いか、やるならやろうと云ってやった」と云ったので、「五人を相手に一人でどういう作戦でやったか」と聞くと「まず一番弱そうなのを一撃で倒して泣かし、次々かかって来る奴をやっつけた。最後には、既に小学校生徒でないと思うすごく大きいのが来たから、これと組打ちをはじめていたら、兵隊さんが通りかかって、五人と一人と喧嘩するのは卑怯だ、この喧嘩は一人の方が勝ちだ、といって組打ちを引きわけたんだ」というのである。喧嘩はもとより悪いが、こんなに張りきった気性なので、私は好きでたまらなかった。
 
物資欠乏の当時であるが、彼におやつを与えると、自分は食わずに、家の隣に在る翠町の一中の寄宿舎に持って行って、空腹に喘いでいる寄宿生に与えるのであった。何時の間にか寄宿生に多くの知合いが出来ていて、その後一中に入学したが、その頃は辞書を求めるのに骨が折れた。ところが、彼は一中を卒業して行く寄宿舎の上級生から恵んでもらって得意であった。
 
一中の入学試験の時も、済美学校の主任先生が、宇都君は二中なら大丈夫だが、一中は責任持てない、二中志願にしたらどうかと云われた。彼は、ぜがひでも一中志願だと頑張って、一中に合格した。兄の信義が幼年学校に入ったので、彼も同じく幼年学校に進んで、将来は航空将校になるのだと張り切っていた。一中に入ると、今度は草水会に通うて、幼年学校受験勉強に熱中した。草水会の第一回試験成績は百七十余名中七十何番であったから、十番以内におらんと幼年学校合格は覚束ないと激励したら、二回目は二十五番となり、逐次上がって、八番まで漕ぎつけ、大いに勢いこんでいたのである。かくて彼は、原爆で遂に大望を抱いて敗戦を知らず、空しく若桜の蕾のまま散ったのである。

出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)一三一~一三五ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 

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