私は昭和一八年三月、福岡県稲築中央国民学校高等科を卒業して、同年四月、文字通り青雲の志を抱いて長崎県立水産学校製造科に入学。学校の寄宿舎、拓洋寮に入寮しました。丁度、一四才の春でした。太平洋戦争は昭和一六年一二月八日に勃発。一八年になると、ガダルカナル撤退、アッツ島玉砕、学徒出陣が開始された時代でした。一九年になると、学徒動員令に依り、長崎市内の三菱電機、港外の川南造船所、合同缶詰等に動員されました。満足に勉強ができる状況ではありませんでした。昭和二〇年八月、夏休みになると勉強不足を補う為の授業が始まりました。八月九日、何時限目だったか失念しましたが、校舎の南端にある合併教室で、校長の吉川吉男先生の水産化学の講義の最中、突然、ピカッと閃光が走りました。そして、物凄い爆風が吹き抜けました。硝子が割れ、黒板、教科書、ノート類が飛び散り、壁がザーッと音を立てて崩れました。全員、机の下、縁の下、遮蔽壕、防空壕等に避難しました。空を見上げると、異常な雲がむくむくと広がり上昇しております。その雲が虹のような七色に見えました。落下傘が一個、空からひらひらと舞い下りてきました。何が起ったのか、何が何だかわかりませんでした。今から考えると全員が恐怖に怯えた顔をしていたに違いありません。当時、新型爆弾の噂が流れていましたが、八月六日、広島に投下されたものと同種の原子爆弾だったのです。幸に、私達の仲間には傷を負った者や、怪我や火傷を負った者は一人も居ませんでした。長崎の港は、古来より鶴の港と言われておりますが、奥の狭い大波止から港外に向って鶴の胴体のように拡がっております。水産学校は、その鶴の胴体のどん詰り、土井首町の海岸に面しており、爆心地の山里町あたりから約八・五キロの距離があります。長崎は坂の町と言われるように、山が海に落ち込み、その上に建った町ですが、強烈で恐ろしい爆風は、おそらく、鶴の港を一瞬のうちに八・五キロを呑み込んで駆け抜けたものと思われます。私の学校の保証人は江頭さんと云う人で、山里町の浦上天主堂から坂道を下りてくる途中に住居がありました。以前は、福岡に住んでいる人でしたが、長崎では一度会っただけでした。間違いなく一家全滅だったと思います。其の後の消息は誰に聴いても分らず仕舞で、誠に悲しい想い出です。被爆後、市内から通学している生徒は直ちに帰宅。私達寮生は外出禁止。学校は一時休校となりました。そのうち、八月一五日に戦争終結。拓洋寮内の舎監室の前で、ラジオから流れる天皇の終戦の詔勅を、重々しい気分で聴いたものでした。其の後、授業が再開されることになり、寮生三年生全員と舎監の国府田誠先生等で、各班に別れ、市内通学生に告知する掲示用ビラを貼る為に、長崎市内に出掛けることになりました。八月一六日早朝に学校を出発して、終始徒歩で、県庁下、五島町、長崎駅、八千代町、井樋ノ口、岩川町、浜口町、更に浦上川から竹ノ久保稲佐町一帯を廻りました。一面の焼土で見渡す限り、惨憺たる有様でした。稲佐川を数十匹の馬の屍骸が無惨な状態で流され製綱所の鉄骨は飴のように曲り、防空壕からは微かな人の呻き声が洩れてきます。恐ろしい目を覆はずにはいられない光景でした。大浦海岸、小菅町、新戸町、小ヶ倉を経て、学校に帰着しましたが、長崎は瓦礫の街でした。尚、新事態に依る新学期の授業は九月一五日より再開されました。 |