私は被爆当時満一九才でした。陸軍被服廠勤務いたしておりました。陸軍被服廠縫製部第二班は戦争がはげしくなるにつれ廿日市山陽女学校へそかいいたし、向洋駅から廿日市駅まで汽車通勤し廿日市駅を降りて土手道を歩いておりますとピカドンで思わず眼、耳をふさいで草ムラにふせました。(廿日市まで大きな音、しばらくすると黒雨が降りました。)山陽女学校でピカドンを知り仕事も出来ず後、ケガ人、死者を校庭の運動場へ並べておられ(死体にムシロをかけたりお手伝いしました。)汽車も不通でその日は帰れずそかい先で夜を明かし、夕飯も朝食も食べず朝早く汽車に乗り友人と帰途につきましたが汽車もノロノロでやっと己斐駅につき町は猛火で通れないので横川に廻り徒歩で空腹とノドのカラカラで道端の水道も水も出ず町中、煙と猛火で(少し火も落付いていた)口と眼はあけられず口をふさいで歩いて帰る途中死ガイにつまずいたり、足の肉がたれさがったり腕の肉がたれ下った人達がどこに行けば良いのかトボトボ歩いておられ向洋まで帰るのにめぼしい道をさがし十日市、相おい橋、八丁堀、荒神町を通り大洲を通り左宿町を通り我が家にたどりついた時は昼過ぎで帰りました。十日市当りで眼にこん棒を突きさしてたおれておられた人どこの防火槽にも人が首をつゝこんで倒れておられ(水ほしさに)いたる所死がいでいっぱいでした。
相おい橋で川に人がたくさん流れ、護国神社の石灯篭がポツンと建っており広島の町はどこが道でどこが街並かわからず地ごく絵図で怪我人ばかり(肉がはがれ骨も見える)です。私も黒い雨をあび(廿日市で空がドンヨリすみのような雨に会い)空腹とノドのカラカラで足もクタクタで良くも長い道を向洋まで帰り着いたものだと思います。年も若かったので歩く気力もあったものだと思います。七日の入市です。家の近所のオバアさんは大八車で運ばれ足のドロドロからハエのウジがわいており退亡くなられました。
私が六日夜帰らないので、父、母は心配して私をさがしに入市母は幼い妹(光子)を背おい、さがし歩いたそうです。光子、父は退亡くなりました。
帰途電車も赤茶けて止っておりました。川の人の流れ猛炎、煙、いまだに五十年前の事は忘られません。
若きして早くも歯そうのうろうで義歯になり現在は貧血、頭痛もち(毎日くすりを飲んでいます。)白内障、つかれ易い、神けい痛も出、美現も出来ず入退院通院をくり返しております。
最後に核のない世界の人類が平和に過ごせますことを御祈り申し上げます。 |