私は昭和18年12月1日、神奈川県相模原の東部88部隊に現役兵として入隊した。翌20年1月広島市の暁16710部隊に転属した。そこで約1年の通信教育(モールス)を受け何とか一人前の通信兵となった。
20年に入り戦況は日増しにきびしく米軍は沖縄に上陸、本土決戦が叫ばれるやうになり部隊の近くの比治山に洞くつを掘り防空壕の完成を急いでいた。
あの年は暑かった。本土決戦にそないて瀬戸内通信隊が結成され比治山の中腹の壕が通信所となり勤務することになった。24時間勤務8時半交替でした。
8月6日も朝から暑かった。不思議に広島はそれまでに一度も空爆を受けずにいたので我々も大丈夫と思ったが朝6時頃警戒警報が出されB29が北東方面に飛ぶのが見えたが間も無く解除となりその日は丁度勤務の日であったので朝食をすまし食缶を返しに16710部隊に同僚2名と3人で裏門より入り食缶を返納して裏門から出て練兵場を横切り比治の山道にさしかかった。50mほど歩いた時突然ピカーと目の前が真っ白になり何かと思ふ間もなくドカンと耳をさくやうな大音に体は3mほどとばされて、ばさっと木や木の葉をかぶった。何が何やら分らず木や葉をかき分けて起きて見たがあたりは砂ぼこりで何も見えない。左ほほと左うでがピリピリと痛い。帽子もとばされて見当たらない。「おい大丈夫か」と声をかけたら2人共大丈夫との返事。あたりは見えないがゴーゴーバリバリと音だけ。何が起こったのか分らずしばらくぼうぜんとしていたが取りあへず通信に返った。その頃から山の下がざわざわとさわがしくなった。大勢の負傷者が比治にひなんして来たのです。夕方宿舎に戻ったが我々の居た学校も野戦病院の看板があり多数のけが人がうごめいていた。私も額、うでに油をぬり、けが人のかんごに当った。一緒に食缶返納に行った1人は6日後に亡くなった。あれから50年、目を閉ぢればまぶたの中に色々と浮び上りますが、今日までよく生きてこられた事を感謝するとともに二度とあの様な事があってはならぬと叫ぶと共にいつまでも平和な地球であってほしいと思います。 |