晴天の八月六日朝、空襲警報も解除されたのにB29のいつもより大きい音に不可解を感じ、外に出てみようと出口に向った途端、左右の入口がパッと光り、同時にシューともシャーとも異様な音と熱風におそわれ髪の毛がバラバラになって舞い上った様だった。家が崩れ既に積まれた石塊で凸凹した上に倒され、またその上にドカドカバラバラと色々なものが落ちてくる。爆弾が家の前に落ちたのだろう何と運の悪いことか・・・・・。もう駄目だと諦め、倒されたまま目を瞑り、余りの情無さに涙も出ない。何分過ぎたか気がついてみると音も静まり何だか生きているようで恐る恐る動いてみたらほんの少しでも動く。助かったんだと思わず力が入り石の下からむくむく起き上がる。先刻までの諦めの心境もすっかり一変し、無我夢中で倒れかかった木や壁を振払い、河原へ向って跣で逃げた。途中助けを求める声が耳に入るが、自分もやっと歩ける状態でどうしようもなく悲愴な気持ちで河原に辿りついた。河原での惨状は一言では云えない。皆ひどく怪我をして、皮はぶら下り赤く血を出して痛痛しく地獄をみているようで誰一人として満足な人は見当たらない。
朝元気でお役所に出勤された主人も十日市停留所で直接被爆。顔、手、足に火傷を負い、一晩己斐の病院で過ごしたが何の手当もなくやっと翌日ふらふらと歩いて戻られ再会。お互い生きていた事を喜び合ったが一一日早朝、苦しみ乍ら二六才でこの世を去った。
被爆者にとって、戦後五十年。あの恐しい、苦しい経験は、どんな事が有ってもそれ以上の苦しさは無いと思います。
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