故 大井三の兄 大井孝三
私達一家は、六月末に広島市郊外、戸坂に疎開し、弟大井三も広島一中一年生として毎日学校に通っていた。
八月六日の朝は「今日は学校に行きたくないなあ」と母に言った、そして十メートル程家を出て、「帽子、帽子」と言いながら帽子を取りに歸り「行って来ます」と言って元気に家をあとにした。それを見ていた親戚のおばさんが、「学生が帽子を被らずに出るなんて」と言った、母は何か気にかゝるものがあったと云う。
八時十五分、疎関先の戸坂で母は閃光と爆風をうけ異常を感じた。二十分近く経って玄関に「たゞいま」と言う声がした「ちゃん歸ったんね」と言いながら跳んで出た、しかしそこには誰もいなかった。母は親戚の人に「今、三の声がしたんだけど見ませんでしたか」とたずねた、しかし「いいえ、誰の声もしなかったですよ」の返事がかえってきた。
夕方になって広島より父が傷を負って歸って来、遅れて当時広島一中三年生で学徒動員で東洋工業(現マツダ)に通っていた私も燃えさかる市内に出て、広島の惨状を目にしながら戸坂に歸った。
八月六日の夜は父母は三の歸宅を待ち玄関を開けて一睡もせずに夜を明かした。
八月七日、父は朝早くから各収容所を「大井三、大井三」と探し廻った。
私は雑魚場(現国泰寺)の広島一中に弟の消息を求めて向った。校舎は焼け落ち真夏の日射しが強く照りつけていた。弟の級は教室内で作業前の待機のときでその教室に行った。
そこは燃えつき明治初期に建設された校舎の太い梁りも黒く焼けて、歩くと地面は温かく黒いそして白い煙が立った。教室内には白骨となった一中生徒の骨が何十体と横たわっていた。その間を手を合わせながら何か手掛りはないかと探し求めた。学級の中ほどに一つの弁当箱を見つけ手に取ってみるとアルミの蓋に一年生、大井三とほり込んであった。蓋を開けると白い湯気が立ち昇った。ご飯の表面は黒く焦げて炭になっていた。しかし、その炭を動かすと下には白米の真白いご飯が表われ、まだ温かい手ざわりがあり白い湯気を出し、何かを語りかける様でもあった。
私はこの教室で弟は死んだのだ、熱かったろう、苦しかったろうと胸の張り裂ける思いであった。私は弁当箱の周囲の白骨をいたゞきながら、このなかに三の骨もあるのだと思いながら、南無阿弥陀仏と自然に称えていた。
母は生前「たゞいま」と云う三の声で跳んで玄関先まで出て行った時に息がひけたのかねと悲しそうに口に出していた。
弟、三は竹屋小学校を優等生として卒業し、特に在学中の善行に対して立派な辞書をいたゞいている。数学がよく出来、父母の期待を担って広島一中に進学した。気は優しくて年下の者のお世話をよくし、喧嘩も滅法強く頼もしい少年であった。
現在お骨はお墓に、黒ずんだ弁当箱は佛壇に大切に収め、ことある毎に弁当箱を出して弟を思い出し偲んでいる。
出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(フタバ図書 昭和五九年・一九八四年)一九〇~一九二ページ |