原爆投下時にいた場所と状況
広島市中広本町
家屋殆ど崩壊
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
晴天の八月六日朝空襲警報も解除されたのにB29の何時もより大きな音に不可解を感じ、外に出て見ようと出口に向った途端左右の入口がパッと光り同時にシューともシャーとも異様な音と熱風におそわれ髪の毛がバラバラになって舞い上った様だった。家が崩れ既に積まれた石塊で凸凹した上に倒され又その上にドカドカバラバラと色々なものが落ちてくる。爆弾が家の前に落ちたのだろう何と運の悪いことか……もう駄目だと諦め倒されたまゝ目を瞑り余りの情無さに涙も出ない。何分過ぎたか気がついてみると音も静まり何だか生きている様で、恐る恐る動いてみたらほんの少しでも動く。助かったんだ!と思わず力が入り石の下からむくむくと起き上がる。先刻までの諦めの心境もすっかり一変し無我無中で倒れかゝった木や壁を振払い河原へ向って跣で逃げる。途中助けを求める声が耳に入るが自分もやっと歩ける状態でどうしようもなく悲愴な気持で河原に辿りつく。朝お役所に元気で出勤された主人は如何されたか心配で、次々と集まって来る人々を一人一人確めるが皆ひどい怪我をして、皮がぶらり下り、赤く血を出して痛痛しく地獄をみている様で、誰一人として満足な人はいない。晴天だった空も真黒になりポツリポツリ降り出した雨が豪雨となる。河原も子供の名、夫や妻の名を呼交う人々で一ぱいとなった。何時間たったか崩壊した家にもどり茫然とする。主人は十日市停留所で直接被爆、顔、手、足に火傷を負い一晩己斐の病院で過したが、何の手当もなくやっと翌日ふらふらと歩いて戻られ再会、お互生きていた事を喜び合ったが、五日後の十一日早朝東京の家族を思い苦しみ乍ら二十六才でこの世を去った。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
翌年四月男子出産、以後子供が病気する度に普通以上の心配をしましたが無事成人し、私も病院通いをし乍ら七十才を越え二度の大病も何とか乗越え現在に至って居ります。
あの被爆を体験した者には、どんな苦しい事が有ってもそれ以上の苦しさは無いと思います。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
世界の平和を真剣に考えるとすれば、この先も絶対に許せないのは核兵器。一瞬にして何も彼も無くなってしまい、人は勿論の事、地球も消えてしまうのではないかと思い、今こそ一人一人がしっかり認識して、平和な安心して人間の住める社会を考えるべきと思います。
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